Verre-1 タルト・オ・アブリコ1
王宮の長い廊下を王女が侍女達を引き連れて歩いている。歩く動きに合わせて金色の髪がふわふわ広がり、ドレスのレースやフリルがひらひら揺れた。すれ違う大人達に笑顔で挨拶をしながら、シャルロットは廊下を進む。
大きな玄関に辿り着き、豪奢な馬車を出迎える。降車したのはすらりと背の高い若い女性だった。金色の髪が風に靡き、紫色の瞳が宝石のように煌めく。形のいい唇に塗られた煽情的な赤い紅が艶やかな光を零す。
「お、お姉様。ごきげんよう。お久し振りです」
「あらシャルロット、お出迎えありがと。お兄様は?」
「昨日から公務で出かけていて。夕方までには戻ると思うんですが」
「それじゃあ顔を見る時間はないわね、残念だけど……」
ジョルジュの妹、シャルロットの姉。第一王女ジョゼフィーヌ。アルジャン伯爵家の令息と昨年結婚したジョゼフィーヌは、平時は王宮を離れて郊外の別邸で夫婦仲良く暮らしている。
元々隣国の王子との婚約が話に上がっていたのだが、先方の諸事情により婚約は成立しなかった。幼き頃より可憐で美しく国中の少女達の憧れと言っても過言ではなかった王女は一体誰のものになるのかと、皆が注目した。情熱的に生きるジョゼフィーヌは、国王と王妃が立てた婚約者候補達を次々と弄び、声をかけて来る令息達のことも遊び相手にし続けた。奔放すぎるのではないかと皆が心配し始めた頃、ジョゼフィーヌはパーティーで見付けたアルジャン伯爵令息に狙いを定め、彼を執拗に追い駆け回して手中に収めたのだった。
隣国の王子との婚約は成立しなかったが、ジョゼフィーヌを狙う近隣諸国の王族や貴族は絶えなかった。どの国も力の強いレヴオルロージュとの繋がりを作りたいのだ。そのため、国王と王妃は伯爵令息との結婚を大々的に発表して盛大なパーティーを開いた。王女の相手はこの令息であると広く示したのだ。手に入れたいくらいレヴオルロージュの力が強いからこそ、敵に回したくもない。どの国も今は黙っているが、水面下で狙い続けている者もいると言われている。
「聞いたわよシャルロット。貴女、ドミニクとの婚約を破棄して舞踏会のガラスの君と結婚するなんて言ってるんですって?」
久方振りの自室に一歩入って、ジョゼフィーヌは妹を振り返る。
「一昨年の貴女の誕生日の時でしょ? あの舞踏会の、あのガラスの靴の男の子。綺麗な子だったわね。見付かったの?」
「は、はい。わたくしの持っていたガラスの靴に彼の足はぴったりと入りました」
「そう。ねぇ、どんな子なのか聞かせてちょうだい」
侍女達に待っているように言って、ジョゼフィーヌはシャルロットの手を掴んで部屋に引き入れた。
留守にしている時間が長くても美しさが霞むことのないジョゼフィーヌの部屋。姉の部屋に入る時、シャルロットはいつも緊張する。部屋そのものが職人の手によって作られた芸術品のようで、小さな自分が踏み入ることでどこかを崩してしまうのではないだろうかと思うからだ。昔からずっとジョゼフィーヌは大人っぽくて綺麗で華麗だった。シャルロットがどんなに背伸びをしても届かないくらい、姉は大きな存在だった。
一歩も動けないまま、シャルロットはきょろきょろと部屋を見回す。
「なあに、迷子みたいな顔して。そんなにお姉ちゃんの部屋が怖いの」
「こ、怖くないです。ただ、わたくしがここにいていいのかなと」
「いいに決まっているじゃない。貴女は私のかわいい妹で、レヴオルロージュ第二王女なのだから」
ジョゼフィーヌはシャルロットの手を引き、椅子に座らせる。そして自分はベッドに腰を下ろした。天蓋付きの豪奢なベッドに座るジョゼフィーヌは、丁寧にラッピングされた贈り物のようだ。
「あの子、ガラスの君。どこの誰なのかしら? 誰も知らない子だったのよね」
「彼はリオン・ヴェルレーヌ。サンドール子爵の御令息です」
「サンドール子爵……。サンドール子爵……? あそこは、随分と落ちぶれてしまったのではなかったかしら。そんなところの子がガラスの君だっていうの? 私が目で追ってしまうほど美しい少年だったのよ」
ジョゼフィーヌはガラスの君の姿を朧気ながら頭に思い浮かべる。舞踏会に来ていた人々の多くが見惚れた貴公子がそんな家の子なわけがない。あんなにも美しかったガラスの君は大貴族の子に違いない。シャルロットは冗談を言っているのだ、というようにジョゼフィーヌは少し困った顔をする。
「あらあら。久し振りに会えて嬉しくて、冗談を言って私をからかっているのね。ふふ、かわいらしいことをするのね」
「違います、お姉様。リオンはガラスの君です。誰が何と言おうと、彼こそがわたくしのガラスの君です」
シャルロットの真剣な眼差しにジョゼフィーヌは虚を突かれた顔になり、そして艶っぽく笑った。実の妹であってもドキリとしてしまう艶めかしさに、シャルロットは息を呑む。
シャルロットにとっては兄よりも姉の方が遠い存在のようだった。歳は姉の方が近いはずで、大人なのは兄のはずだ。けれど、おとなしくて優しい兄よりも、奔放で妖艶な姉の方が近付きがたかった。ジョルジュとなら弾む会話も、ジョゼフィーヌの前では委縮してしまう。
しかし、たった今シャルロットは姉の言葉を正面から否定し己の言葉をぶつけた。
「へぇ、シャルロット貴女……そんなにその子が好きなのね。そんなに強い顔でその子のことを言えるなんて」
ジョゼフィーヌはベッドから立ち上がった。
「小さくて幼い貴女は震えているだけだったのに。少し見ないうちに大人になったわね」
手近な椅子を引き寄せ、シャルロットの目の前に座る。
「ガラスの君が貴女を変えたのかしら。ねぇ、どこに惹かれたの? 舞踏会で一目惚れ?」
「わたくしは……。わたくしは、ずっと彼を探していたんです」
王妃の実家が持つ別荘へ訪れた幼い日。あの夏の日にリオンと出会ったことは誰にも言っていない。こっそり抜け出していたのだから当然である。
ジョゼフィーヌにならば言ってしまってもいいのではないだろうか。もう、誰にだって言ってしまってもいいのではないか。あの時の男の子がリオンで、ガラスの君で、自分の前に現れた運命の素敵な方なのだと。
シャルロットはドレスのフリルを握り締める。そして、意を決して口を開いた。
別荘に行った小さな頃に出会ったこと。大きくなったら結婚してくれと言ったと。ずっと探していたこと。舞踏会で再会した時には気が付かなかったが、ガラスの君が彼だと分かった瞬間に思い出が溢れて来たこと。顔を合わせるようになったここ最近で、もっと仲良くなれたこと。
「小さい頃に会ったのはほんの数日。でも彼への気持ちは本物でした。子供が言った言葉だけど、本気だった。本気じゃなかったら探し続けてなんかいないもの。絵本で見た、お姫様を迎えに来る王子様……。わたくしの王子様はこの人なんだって、そう思いました。ずっと、そう思い続けて来ました。ガラスの君に惹かれて、あの日のあの子はただの思い出になってしまうんじゃないかと思った。でも、彼は彼だった。やっぱり彼がわたくしの王子様なんだって思ったわ。わたくし、彼のことが好きです。ずっと、ずっと好きだった。今も大好き。わたくし、リオンのことが大好き」
シャルロットは愛しい人を思い浮かべて微笑む。
「幸せそうな顔しちゃって……。貴女、そんな顔をするようになったのね。なるほど、貴女がガラスの君のことをどれだけ愛しているのか分かったわ」
でも、とジョゼフィーヌは言葉を切った。
「彼との婚約を皆は認めてくれるかしらね」
皆の中にはジョゼフィーヌ自身も入っている。シャルロットの想いは分かったが、それとこれとは別である。
ジョゼフィーヌの妖艶な瞳にシャルロットは飲み込まれそうになる。しかしここで負けてはこれ以上先には進めない。姉は強大だが、大人達はより強い存在なのだ。




