Verre-9 お菓子議事録
穏やかな午後。
リオン達が森から帰還して数日。王宮のシャルロットの部屋では優雅なお茶会が催されていた。
「僕が帰ってからそんなことが」
ティーカップをソーサーに置いて、ドミニクが言う。
「シャルロット様もリオン様もご無事で何よりです」
優雅なお茶会、と使用人達は思っている。少年少女達の秘密の作戦会議がテーブルの上でお茶とお菓子と共に広げられているとは思っていない。王女付きの侍女にはシャルロットの味方が多いが、大半の使用人が「王女はそのうち諦める」「ドミニクと結婚した方がいい」「没落子爵令息なんて不釣り合いだ」と考えているのが事実である。
リオンとシャルロットのガラスの靴探しに毎回ドミニクが参加する必要はなく、モーントル学園で寮生活をしているドミニクのことを毎度毎度呼び出すことをシャルロットは少し申し訳ないと思っていた。しかし、情報共有は直接した方がいい。手紙にしたためて送って、途中で誰かに邪魔でもされたら大変だ。
そして何より、貴族達の動向に詳しいのはドミニクだ。リオンは議会に顔を出しているが、ジョルジュ以外と言葉を交わすことはほとんどない。自分から話しかけても無視されることが多く、向こうからやって来るのはジョルジュくらいだった。ドミニクならば、オール侯爵にさりげなく話を訊くことができる。例え怪しまれても、リオンへの対策なのだと上手く理由を付けてしまえば侯爵は嬉々として話をするだろう。
テーブルを囲んでいるのは四人。リオンと、シャルロットと、ドミニクと、リオンにべったりくっ付いているアンブロワーズ。カヌレの皿をリオンの前に持って来てにこにこしているアンブロワーズのことを、ドミニクは怪訝そうに見ていた。
「リオン、カヌレですよ。貴方これ好きでしょう」
「そのカヌレね、特別に用意させたのよ。貴方がカヌレ好きだから。なんでも、発祥地だっていうところの老舗のパティスリーで作ったやつだとか、なんとか」
二人に勧められてリオンはカヌレを口に運ぶ。
カリカリの外側としっとりとした内側から成される独特の食感。古くから国内某所の修道院で作られていたとされているが、当時の資料は戦争や災害で消失したものも多くあまり残っていない。歴史は曖昧だが、混乱の最中でも口伝で残すことのできたレシピだけが今もしっかりと受け継がれている。
「ん、美味しいです」
「本当!? よかった! また仕入れさせるわね!」
「リオン、こちらにエクレアもありますよ。チョコレートもクリームもたっぷりです」
「リオンはエクレアも好きなの? それはわたくしのお気に入りのパティスリーのものよ。よかったら感想を聞かせてね」
「うん……あの……。シャルロット様ありがとうございます。アンブロワーズも。二人してそんなに押し付けてなくても自分で食べますから」
シャルロットとアンブロワーズにお菓子塗れにされそうになっているリオン。怪訝そうに様子を見ていたドミニクも表情を緩める。緩めるどころか、堪え切れない笑いが浮かんでいた。王女のことを笑うのも、家の爵位が下とはいえ年上の令息のことを笑うのも躊躇われた。頑張って堪えようとして口の端が歪む。
カヌレを食べて、エクレアを一口齧って、リオンは紅茶を飲んだ。
「さっさと話を進めましょう。ドミニク様は門限までに学園の寮に戻らなければならないんですから。ほら、困っているようだし」
「いえ、僕は別に困ってはいないです……。笑ったら失礼だと思って、耐えていて……」
「あら、面白いと思ったらたくさん笑ってもいいのよ。わたくし気にしないわ」
「僕が気にするんです」
ドミニクはマカロンに手を伸ばす。
使用人が持ってきた際に山盛りにされていたマカロンは他の茶菓子よりも勢いよく暈を減らしていて、今はもう半分もない。味の種類も減っており、ドミニクは比較的多く残っている味を選んで手に取った。
「ところで、どうして鳩さんがここにいるんですか?」
「俺がいてはいけませんか? 先日もいたし、貴方も従者を連れているでしょう。まあ俺はリオンの従者じゃないですが」
「僕の従者は外で待っています。彼のことは信用していますが、父に何か伝えてしまうかもしれないので。シャルロット様も侍女はここにいないですし」
「俺は絶対にリオンの味方ですからね。侯爵が何か企んでいようと俺はそれに加担なんて絶対にしませんから。ガラスの靴の現物を一番分かっているのは俺ですし」
「父は……父はやはり、何か考えているんでしょうか。随分と余裕そうにしていて、ちょっと不気味なんです……」
「怪しいですね、あのジジイ。よし、俺が吐かせましょう」
今すぐにでもジャンドロン邸へ向かってしまいそうな勢いでアンブロワーズが立ち上がった。リオンがローブを引っ張って慌てて座らせる。
「駄目っ! 駄目だよ。君絶対物騒なことしようとするから。あとジジイとか言わないの」
「リオンがやめろと言うならやめますが……。もしもこの先あのジジイに困るようなことがあればすぐに俺に言ってくださいね。どうしてやるかは王女様とドミニク様の前なので言いませんが」
一体何をどうしてしまうんだろう。シャルロットとドミニクは不安そうに、それでいて興味深そうにアンブロワーズを見た。
「ドミニク様、彼のことは気にしないでください。白いので目立ちますが気になるのならいない者だと思ってくれていいですから」
「俺は外で待っていてもいいと言ったんですけどね、リオンが俺に傍にいてほしいと言うので。ふふ、俺がいないと寂しいんですね」
「目の届かないところで待たせて、この間みたいになったら嫌だから」
リオンは軽く目を伏せる。
にやにやしていたアンブロワーズが笑みを消した。豆鉄砲を突き付けられたような顔になり、安心させるようにリオンの背を撫でる。その手つきは普段の薄っすらと下心が見えるものではなく、「兄のようだ」と言われたことに応えるような優しいものだった。
「な……何か、あったの?」
紅茶を飲もうとしていたシャルロットが手を止め、カップをソーサーに置く。
「魔法使いさんが王宮に来たのは、わたくしが貴方を最初に連れて来た時よね。その次の時、魔法使いさんは来なかったわ。具合が悪いって言ってたけど……」
リオンは背を撫で続けるアンブロワーズの手をゆっくりと退けた。
魔法使いはどうしたのかと問うたシャルロットに対して、一度嘘を吐いた。嘘に嘘を重ねるよりも、本当のことを話した方がいい。リオンが思っているほどシャルロットは弱く幼く小さな存在ではないはずである。
「外で待たせていた時、誰かに絡まれて……窓から落とされたんです」
「えっ!? ま、窓から!? 魔法使いさん、大丈夫だったの!? あっ、大丈夫じゃなかったからいなかったのよね。それじゃあ、狼さんを襲おうとしてた時に動けなかったのは体が痛かったから?」
「鳩さん、狼を襲ったんですか……?」
心配そうなシャルロットと驚いているドミニクに、アンブロワーズはへらへらした顔を向けた。
「俺は全然大丈夫ですよドミノなので。人間だったらもっと重傷だったかもしれませんが。リオンは心配性なんですよ。そんなに俺が大切ですか、かわいい人ですね……」
「すごく痛そうにしてたよ」
「そっ、そうでしたか?」
「そう。だから、王宮で彼を目の届かないところにいさせたくないんです。ここ最近は議事堂でも近くにいさせてて……。誰がやったのか犯人捜しをするつもりはありませんが……」
子爵の名代としてリオンが議事堂に出入りするようになってから今まで、リオンが何か目に見えるほどの嫌がらせを受けたことはない。せいぜい無関心そうな目を向けられる程度だ。アンブロワーズは毎回のように付いて行っているが、ただのドミノの従者だと思われており彼も何かをされたことはない。
議事堂ですれ違う貴族やその使用人達からの視線が鋭くなったのは一度王宮へ来てからだ。リオンの左足にガラスの靴がぴったりだったことはまだ公にはされていないが、一部の貴族の耳には入っている。没落寸前子爵家の息子が王宮に出入りしており、王女ともよく顔を合わせている。靴もぴったりだった。他の貴族からすれば面白くないのだ。あんなにも落ちぶれた家の子がどうして、と。
「私が王宮にいること自体が不自然だから、その従者のアンブロワーズが王宮にいることもおかしいと思われているんだと思います……。彼は従者じゃありませんが」
「この間のことは王宮内の使用人にはきつく言ったわ。でも、どこかの家の使用人にまでわたくしが何か言うのは難しいわね。やっぱり、貴方のことをみんなに認めさせないと」
どうやって珍しい靴を持っている貴族を見付けようか。紅茶と茶菓子を口に入れながら話し合ったが、この日は結論には至らなかった。
モーントル学園の寮の門限まで、まだ時間がある。王宮を後にしたドミニクは従者を引き連れてジャンドロン邸へ来ていた。「物を取りに行くだけだから」と言って、従者を馬車で待たせて自室へ向かう。
先日、ドミニクはルームメイトから気になる本があるという話をされた。学園の図書館で探してみたが見当たらなかったらしく、タイトルを訊ねると彼が探している本はドミニクが所有しているものであることが分かった。「家にあるから今度持って来る」と言うと、ルームメイトは嬉しそうにしていた。
貴族の令息・令嬢や政治家、豪商、豪農の子供達が通う名門王立モーントル学園。国内最大とも言えるレベルの巨大な図書館を有しているが、世界中全ての本があるわけではない。世の中では様々な本が次々と作られて行くため、国内で出版された本に限っても全てを所蔵しているわけではなく、学園の図書館にない本は他の図書館や本屋で探すことになる。
東へずっと進んだ海の向こうには世界中の全ての本が集まる図書館があるという。お茶会の途中で本の話になり、いつか行ってみたいと夢を語るドミニクにリオンも同意していた。
目当ての本を手に、ドミニクは玄関へ引き返す。途中、侯爵の声が聞こえて思わず足を止めた。
「――小僧は間に合わない」
「オール侯には何か秘策が?」
「ふん、私には切り札があるからな」
「王女の婚約者はドミニク様で決まりですね!」
「あんな落ちぶれ子爵に負けないでくださいね、侯爵」
「オール侯、貴殿なかなかに欲深いのだな」
リオンのことだ、とドミニクはすぐに思った。父の余裕を疑問に思っていたが、どうやら秘策があるらしい。
「あれが本物ならば、私の勝ちだ」
もっと詳しく話を聞きたい。息を潜めて、ドミニクは壁越しに耳を澄ませる。ところが、通り掛かった使用人に声をかけられてしまった。
「坊ちゃん、そんなところで何をなさっているんですか」
「わ。いや、何もしてないよ」
「旦那様にご用事ですか? 声をかけて来ましょうか」
「いや、いや、大丈夫。用も済んだから学園へ戻るよ」
本を持ち直し、ドミニクは逃げるようにその場から立ち去った。随分と慌てて戻って来たものだから、馬車で待っていた従者はどうしたのかと問いかける。
「父上はどうしても僕をシャルロット様の婚約者にしたいらしい」
「旦那様は諦めないと思うよ、最後まで」
「……クロードはどっち側?」
「オレ? オレは坊ちゃんの味方だよ。もちろん旦那様は大切なご主人様だけど、オレは坊ちゃんの従者だから」
揺れる馬車の中、ドミニクの従者であるクロードは言う。ジャンドロン家の執事の子であるクロードは幼い頃よりドミニクに仕えている従者で親友で相棒であり、共にモーントル学園に通う級友でもある。
ドミニクは本を弄ぶ。
「僕はきみを信じている。……いつも仲間はずれにしてごめんね。もしものことがあったら困るし」
「いいんだ、オレは難しいことはよく分からないし。まぁ、坊ちゃんが何かよくないことをしようとしてるんだったら止めるけど。でもそうじゃないでしょ? それならオレは黙って応援するだけだから」
「ありがとう、クロード」
父の秘策とは何なのだろう。ドミニクは侯爵の勝ちを確信した笑い声を思い出す。とびきりの切り札があるのだ。
今日の夕食は何でしょうね、と言うクロードの声を聞き流しながら、ドミニクはぼんやりと車窓を眺めていた。




