Verre-7 愛という呪い1
ランプの明かりが揺れる。照らされた懐中時計は長針がもう一回りすると日付が変わると告げていた。時計をしまい、アンブロワーズはランプを消す。夜空では月が光っているが、木々に遮られているので小屋の中はほとんど真っ暗である。僅かな光を頼りにソファに歩み寄る。
使い古された硬いソファの上ではリオンが毛布にくるまって寝息を立てていた。畳まれたジャケットが隣に置かれ、揃えられた靴が床に置いてある。シャルロットに編まれていた髪はゆるく波打っていていつもと違う雰囲気を醸し出していた。
商人達が休憩に使う小屋。仮眠室に置かれたベッドは二つ。片方にはシャルロットが眠っており、もう片方は無人である。シャルロットはリオンに隣で寝てもいいと言ったのだが、リオンが辞退したのだ。まだ婚約者ですらない自分が王女と同じ部屋で眠りにつくなど、外にいる使用人達に知られれば何が起こるか分からない。シャルロットは「何もないわよ。気にしないわ」と言ったが、リオンは「使用人達に何か言われたらどうしようと、私が気にするんです! 怖くて!」と泣くように叫んだ。
小屋の外ではヴォルフガングが目を光らせており、使用人達も交代しながら周囲を警戒している。暗く深い夜の森の中でも、小屋の中は安全だ。
アンブロワーズはソファに腰を下ろす。有翼のドミノは翼がつかえてしまうため正面を向いてソファに座ることができない。ブーツを脱ぎ捨て、リオンの方を向いて体をソファに乗せる。
「毛布、一枚しかないから君も使っていいよ」
「起こしてしまいましたか。大丈夫ですよ、俺にはこのローブがありますし、それに天然の羽毛もあるので。貴方のこともこの翼で包んであげますね。ふふ」
「顔が怖い。……でも、暖かいね」
純白の翼にそっと顔を寄せるリオンを見て、アンブロワーズはこみあげて来る喜びを噛み締める。
「アンブロワーズ」
「はい! 何でしょう?」
「イェーガーさんを見た時、どうしてあんなことをしたの。あんなに殺気に満ちた顔をするのは珍しいよね」
「貴方を傷付けたから。……それに、狼だったから」
狼? とリオンは聞き返す。自分を攻撃してきた相手をこの鳩が許すことはないだろうということは想像に難くない。狼であるということも理由になるのだろうか。
翼の中のリオンをにやにやしながら見つめていたアンブロワーズが笑みを消した。
「貴方が怖がって震えてしまうのではないかと思って」
「噛まれた時は驚いたけれど、あの時はもうだいぶ打ち解けていたよ」
「だって、狼ですよ。もう、震えて震えて、がたがたがくがくして、王女様の前で醜態を晒すんじゃないかと思って。狼に噛まれたなんて、そんな、貴方、だって……。だって、ねぇ、あんなことがあったから」
事の詳細を話すことを避けているアンブロワーズのことを、リオンは不思議そうに見ていた。魔法使いが何を躊躇っているのか、灰かぶりには分からない。
リオンが意味を理解していないことを察して、アンブロワーズは豆鉄砲を食らったような顔になる。
「覚えて……いないんですか……?」
「何を?」
「覚えていないのなら、それでいいんです。あんなの、忘れていた方がいいので」
「アンブロワーズ」
「はい……」
「君は知っているのか。それなら教えてくれ。私は何を忘れているんだ」
「昔のことです、忘れてください」
「教えて」
「俺の話したことによって貴方が悲しい顔をするところを見たくありません」
普段ならば聞いていないこともうきうきわくわくといった様子で話してくるアンブロワーズが頑なに話そうとしないのが、リオンはとても気になった。余程言いたくないのか、聞かれたくないのか。オレンジ色の瞳には迷いが浮かんでおり、リオンにばかり向けられる視線が今は少し逸らされていた。
「そう。分かった。無理強いはしないよ」
リオンは毛布を掛け直し、翼に寄り添って目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみなさい、リオン」
それから少しだけ時間が経った。懐中時計は日付がそろそろ変わると告げている。時計をしまって、アンブロワーズはリオンの頭をそっと撫でた。銀色の髪に指を這わせて笑みを零し、己の翼の中で眠る姿を愛おしそうに見守る。
木陰から、木の上から、塀の横から、小鳥が目にする令息はいつも遠い場所にいた。四つ下の、小さな小さな王子様。あの家の奥様が命の恩人なのだと母から聞かされて育った小鳥は、その家の令息に目を留めた。負傷したばかりの翼を引き摺って地面を這うように歩いていた小鳥にとって、令息は希望だった。令息を見ると、空を飛び回っているような心地がしたのだ。暗くくすんでしまった世界に花が咲き誇り、風が吹き抜け、鮮やかに色彩が広がった。近付くなんて畏れ多くて、いつも陰から見ていた。
しばらく撫で回されていると流石に気が付いたのか、リオンはうっすら目を開けた。アンブロワーズのことを怪訝そうに見ているが、まだ半分眠っているので抵抗することはしない。
「リオン」
「ん……」
「ただの独り言です。これから話すのは俺の独り言」
「独り……言……?」
アンブロワーズはリオンを見ずに、どこか遠くを見つめている。あくまで独り言であるということだろう。
「あれは俺が十歳の時です。リオンが子爵に連れられて森の中を歩いているのを見付けました。他にも数人貴族のような人達とその使用人がいました。目的は何だったのかな……。狩りか、釣りか……ただの散歩かもしれないし、そこは俺には分かりませんでしたが」
「十歳……? そんなに前から私を?」
徐々に目が覚めて来たリオンは、撫で回し続ける手を振り払って訊ねる。しかし、アンブロワーズは独り言への質問には答えない。
「おじさんばかりでしたからね、リオンはちょっぴり退屈そうでした」
「十二年前……だよね」
「子爵達から少し離れて、小動物や花の観察をしていました。俺はそれを木の上から見守っていたんです」
十二年前。
小さなアンブロワーズが小さなリオンを見守っていると、草の向こうから大きな動物が姿を現した。それは数頭の狼で、リオンの抱えていたバスケットに狙いを定めて襲い掛かって来たのだ。子爵夫人が持たせてくれた、屋敷の料理人が作ったお菓子が中に入っているものだ。リオンはバスケットを守ろうとして抱え込み、そして、そのまま狼達に引き摺られて行ってしまった。
アンブロワーズは走って後を追った。狼達は草原の一角でリオンのことを離したが、バスケットを抱えている周りを取り囲んで奪う機会を窺っていた。大声で泣き叫ぶリオンを前にして居ても立っても居られず、アンブロワーズは狼達の前に躍り出た。しかし、吠えられて怯んでしまった。
「目の前で大切な人が泣いているのに、自分も小さくて弱かったから、何もできなかったんです。貴方の方が怖かったはずなのに、俺は腰を抜かして、震えることしかできなかった。自分がもっと大きくて強ければよかったのにと思いました。鷲や鷹だったらよかったのに。絵本に出て来る魔法使いのように魔法が使えたらよかったのに、と」
震える足を鼓舞して立ち上がり、強引に翼を動かしてアンブロワーズは飛翔した。飛んだ方が走るよりも速い。自分では戦えない。だから、大人を呼びに行ったのだ。リオンがいなくなっていることに気が付き慌てている子爵に、アンブロワーズは状況を伝えた。大人達が駆け付けたことで狼達は逃げ出し、リオンはぐしゃぐしゃになって泣きながら子爵に飛び付いた。幸いにも怪我はなかったが、それ以降リオンは周りの変化に敏感になり、常に怯えているような状態になってしまった。
それから少しした頃、子爵一家は別荘を訪れた。主がいない屋敷を度々訪れてアンブロワーズは一家の帰りを待った。無理に動かして壊してしまった自分の翼よりも、リオンのことが心配だった。けれど、何をすることもできなかった。
「帰って来た貴方は笑っていました。別荘で何かいいことがあったんだ。よかった。笑顔が戻って来た」
「それって」
「女の子に会ったらしいんです。かわいくて、素敵な子に。あぁ、その女の子は彼に笑顔を与えてくれたんだな。隠れてばかりの俺には何もできなかったけれど、彼の前に現れたその子は彼に笑顔をくれたんだ。いい子だな。その女の子が、ずっと彼の傍にいてくれたらいいのに。でも自分も彼の力になりたい。隠れているだけじゃ駄目だ。俺の力で、彼を幸せにしてあげられたらいいな……そう、思ったんです」
どこかを見つめて独り言を続けていたアンブロワーズが、そこで初めてリオンに視線を向けた。
「人が生まれてから死ぬまで、ふりだしからあがりまでの道は決まっているとされています。鵞鳥が首を曲げているようなその道のりの中で我々が実際に踏むマスというのは出目によって変わるものですが、どこへ進もうと全体の道とマスは変わりません。でも、本当にそうでしょうか?」
アンブロワーズは手元でサイコロを転がす真似をする。リオンは思わず存在しないサイコロの行方を目で追った。




