Verre-6 赤き狼の宿4
小屋に戻り、一同はテーブルを囲んで座る。ヴォルフガングが淹れてくれたお茶を各々飲んで一息ついたところで、リオンが身を乗り出すようにして訊ねた。
「あのガラスの毒リンゴはどこで手に入れものなんですか」
「あれは本物だ」
「本物!?」
「本物……を、元に作られた精巧なレプリカだ。レプリカといってもおもちゃじゃないぞ。なんてったって本物のレプリカだからな。希少品だ」
「本物というと、どこかの王妃が王女を殺すために使った毒リンゴ……を模した毒薬の瓶そのものということですか? それの、レプリカ」
「そうだ。本物だと言われている代物はルージュ・ヴァルフォレトにある。随分昔の話だしショッキングな事件だから、本当にあった話なのか、どこの国で起こった話なのかは曖昧で、情報が錯綜して、歴史に残そうとしたり消そうとしたりでよく分からなくなってるが、毒薬の瓶自体は本物だって言われてる。その事件を忘れないために、誰かが作ったらしい」
宿屋の主人がどうして持っているのか、とシャルロットが問うた。レプリカとはいえ精巧に作られた希少なものならば簡単には手に入らないだろう。
ヴォルフガングはにやりと笑った。歪められた口元に鋭い牙が覗く。
「王女様は外泊なんてあまりしないから知らないだろうけど、宿屋だぜ? 色んなやつが泊まりに来る。いいやつも悪いやつも、金持ちも庶民も。ある日、変わったものを集めて売っているっていう変な商人が泊まりに来たんだ。何泊かして、金を持っていないから代わりに商品を置いていくって。それであの瓶を。鑑定してもらったら本物らしいし、それなら物好きなやつらの集まるオークションに出せばたんまり儲かるんじゃないかと思って。毒薬の入った瓶なんて宿に置いておけないしな。顔を隠して匿名で出品したのは、ドミノである俺自身に目を付けられると困るから」
「なるほど……。それじゃあ、イェーガーさんに珍しいものを集める趣味があるわけではないんですね」
「そうだな。まあでも色々あるぜ、俺の宿には。お代の代わりにって作品を置いていく芸術家とかもいるし」
「ガラスの靴を置いて行った客はいませんか?」
「ガラスの靴?」
小屋で休憩する商人達が使い古したひびの入ったマグカップにヴォルフガングは指を這わせた。耳と尻尾がゆるりと動き、首は傾き、眉間に皺が寄る。
「そんなの履いて歩けるのか……?」
「歩けますよ! 俺のリオンですよ!? 俺がガラス職人と靴職人の工房に通って修行して技術を会得してリオンの足にぴったりな大きさで丹精込めて作ったものです! 靴なんて履いていないかのように軽やかに動けますとも!」
「修行したっていうのは初耳だな……。いつから準備してたの。怖いんだけど」
不審者を見る顔をしているリオンにアンブロワーズは満面の笑みを向けた。答えるつもりはなさそうである。
ヴォルフガングの尻尾が揺れる。
「そういえば、旅の商人が泊まって行ったことがあるな……。レヴオルロージュに行った時、どこだかの貴族に珍しい靴を見せてもらったとか、なんとか言ってたような気もしなくもない」
「もしかしてそれが私のガラスの靴……!」
リオンは立ち上がって身を乗り出した。ランプに照らされた銀色の髪がきらきらと光を散らす。
「いや、ガラスかどうかは分かんねえんだよ。その商人は『実に珍しいものだった』としか教えてくれなかったから。面白い話を事細かに教えてくれるやつもいれば、概要だけしか話してくれないやつもいるからな」
「商人が誰か分かれば、珍しい靴を持っている貴族が誰かも分かるかも……」
「悪いが客の情報をあれやこれやと教えることはできねえな。それに、その商人はもうルージュ・ヴァルフォレトも出発してかなり遠くまで行っちまってるだろうから名前が分かっても話なんて聞けないよ。去年だったかな、うちに来たのは。海も渡ってるかもしれない。俺もアイツの話をしっかり覚えてるわけじゃないし」
「そうですか……」
立ち上がった時に全ての勢いを使い果たしてしまったかのように、リオンはしょんぼりとした様子でゆっくりと座る。
国王から言い渡された期限は建国記念日前日の六月九日である。世界を巡る旅の商人を探し出して話を聞くことなどほぼ不可能だ。ガラスの靴に向かって大きく前進できるかと思いきや足踏みをする形になってしまったが、このまま足踏みをしているわけにもいかない。
カップをテーブルに置いて、シャルロットは気落ちしているリオンのことを突く。
「珍しい靴を持っているという貴族を探しましょう。今もその人が持っているかは分からないけれど、持っているなら見せてもらえばいいし、持っていないのならどこへやったのか訊けばいいのよ」
「見付かりますかね……」
「見付けるのよ! 絶対に! お父様とお母様の前で啖呵切ったわたくしに恥をかかせるつもり!? オール侯爵に笑われちゃうわ! だって、だって貴方、ガラスの靴が見付からなかったら……」
シャルロットはリオンの手をぎゅっと握る。強く、優しく、まだ小さな手が手袋越しにリオンの手を包み込んだ。
「絶対に見付けるんでしょう? これだと思った手がかりは違ったけれど、新しいヒントが見付かったじゃないの。ね」
「シャルロット……」
「時間は限られてる。でも、まだ残ってる。今できることをやらなきゃ。立ち止まっていたら何もできないわ。同じ場所にいるためには頑張って走り続けなくちゃならないんだから、前へ進むならもっともっと走らなきゃ」
異国のことわざを例に挙げる。その場に留まるためには、一生懸命に走り続けなければならない。細かな言い回しは時代や場所によって変わっているが、レヴオルロージュに伝わっているのはこの形だ。時間はどんどん進んで行く。同じ場所に立ち続けたいのであれば、時間に置いて行かれないように走らなくてはならない。すなわち、現状を維持するためには常に前進する必要がある。転じて、今の自分の状態よりも先へ進むためにはたくさんの努力をし続けなければならない、という意味で使われている。走り続けて進んだ先には相応の成果が得られるであろうと、誰かの背中を押したり自分を鼓舞したりする際に使われる言葉である。
シャルロットは真っ直ぐにリオンを見据えた。紫色の瞳がランプの明かりをちらちらと揺らしている。その光が、炎が、彼女の強い意志を鮮やかに装飾する。
圧倒される。そして、美しい。リオンは思わず見惚れ、息を呑んだ。
「諦めないのなら進み続ける覚悟を決めなさい、リオン・ヴェルレーヌ」
「はい」
それ以外の返答を許さない目をしていた。しかし、リオンは強制されたわけではない。握り返した手は、自分の意思で動かしたもの。
「はい、シャルロット・サブリエ殿下。貴女と並び立つためのガラスの靴を、必ずこの足に」
「えぇ、共に進みましょう。わたくしの素敵なガラスの君」
名残惜しそうに手を離して、シャルロットは紅茶を一口飲んだ。次にその顔に浮かんだのは凛々しい王女の顔ではなく、無邪気な少女の顔である。
「でも、たまには弱音を吐いたっていいのよ。わたくしが何度だって聞いてあげるし、何度だって背中を押してあげるから。ちょっぴり気弱になっちゃう貴方もわたくし好きよ」
どんな貴方だって貴方だもの。そう言って、シャルロットはカップをテーブルに置いた。
何か動作をするべきなのか、何を言えばいいのか、リオンは迷って、結局照れ笑いを浮かべる。視界の端でアンブロワーズが「かわいい!」と歓喜しているのを捉えながら、シャルロットに向き合う。
「こうして貴女と再会できて、本当に、本当によかったです。あの頃の小さな貴女も、今の貴女も、可憐で、愛らしくて、私の大切な宝物です」
少し格好を付けすぎただろうか。リオンが自分の発言に照れ出したところで、シャルロットが席を立った。距離を詰めて、座っているリオンに抱き付く。
「シャッ、シャルロット……!?」
「駄目、離さないで。わたくしが『いい』というまでこのままでいて」
赤くなっている顔を見られないように、シャルロットはリオンのことを抱き締める。互いが照れ合う初々しさを抱きながら、夜は更けて行く。




