Verre-2 深い森の中で2
馬達の蹄の音と、草木が風に揺れる音。商人達の足跡を追って進めば進むほど、森は鬱蒼として暗く深くなっていく。
「これだけ深くなると空の様子で時間を判断するのは難しいな……。アンブロワーズ」
「はい、ただいまの時刻は午後三時を回ったところです」
懐中時計を確認して、アンブロワーズは笑顔で答える。
「ありがとう。では、シャルロット様とドミニク様はあともう少しになりますが」
「そうですね、夜になる前に戻るとなると……」
「わたくしもっとリオンとお話したいのに」
「私とアンブロワーズでお二人の安全を保障することはできません。暗くなる前にお帰りください。使用人達も控えているはずなので」
貴方は? とシャルロットは問いかける。シトルイユを停めて小さく回らせ、リオンは振り返る。暗い森に差し込む僅かな光の中で銀色の髪がきらきらと煌いた。
「私は大丈夫ですよ」
「何があろうと俺が身を挺してリオンを守りますから」
「それもそうだし、シトルイユがいるから」
リオンはシトルイユの首元を軽く叩いて撫でる。
元々は継母達に押し付けられた仕事を手伝ってもらうために手に入れた馬だ。重い荷物などを運んでもらえればそれだけで良いと思って安い馬を買って来た。元気よく走り回っている他の馬達から離れて、牧場の片隅でおとなしくカボチャを食べていたのがシトルイユである。
こいつは走る気がないから走らないけど、荷物なら運んでくれるだろう。牧場主はそう言って、安い代金を受け取った。ところが、シトルイユは走った。舞踏会の夜、ヴェルレーヌ邸から王宮までをほとんど休みなく走り切った。とんでもない速さで。走る気がないから走っていなかっただけで、走る気があれば走るのだ。
舞踏会の後、リオンはあの日の馬がとても速く走ったということを牧場主に伝えた。草を食んでリオンを待っている姿を見ながら、牧場主は言った。「素質はあるから」と。
シトルイユの両親は優秀な成績を残した競走馬と野を越え山を越えて走り続けた軍馬なのだという。この二頭が結ばれればどんな素晴らしい馬が生まれるのだろう。どんな分野で活躍してくれるのだろうと、両親の持ち主や牧場の関係者は期待した。ところが、生まれて来たシトルイユはのんびりとカボチャを食べている見目が綺麗なだけの仔馬だった。期待されすぎた分、落胆も大きかった。貰い手も付かず、時々荷運びの仕事を手伝いながら牧場で過ごすこととなった。
そこへ現れたのがリオンである。人の好き嫌いが激しかったシトルイユが上機嫌で引かれて、あまつさえ背中に乗せて嬉しそうに歩いているのを見て、「この若者になら任せられる」と牧場主は思ったそうだ。駿馬であることが分かってしまったら返した方がいいのかと問うリオンに、牧場主は首を横に振った。
「草の上も、土の上も、舗装の上だって素早く駆けて行ける。森の中でどんなに恐ろしい熊や狼が出て来ても、並みの獣ならシトルイユには追い付けません。とても速く走る父と足場を気にしない母の間に生まれた彼に、通ることのできない道などありません」
褒められていることが分かったのか、シトルイユはリオンに耳を向けて尻尾を大きく振る。
「まあその場合俺は置いて行かれるんですが、リオンが無事ならそれでいいと思っています」
「アンブロワーズも乗せて行くよ」
「いいんですか!?」
「当たり前でしょ。恐ろしい獣が出ても、賊が出ても……」
噂をすれば影、という言葉が遠方の国にある。
どこからか飛んで来た何かが、リオン達の間を通った。それが矢だと気が付いたアンブロワーズがすぐに周囲を警戒する。物陰に隠れていた使用人達もざわつき始めた。
「野盗っ!?」
ドミニクが叫んで使用人達が動いた直後、シャルロットの顔のすぐ横を矢が飛んで行った。シャルロットの悲鳴は馬の耳元で響き、矢と悲鳴に驚いた王宮の馬は大きく嘶いて飛び上がる。そして引き綱を掴んでいたアンブロワーズの手を勢いよく抜け、シャルロットを背中に乗せたまま走って行ってしまった。茂みから野盗達と使用人達が一斉に現れ、場は一瞬にして騒然とする。
リオンはシトルイユの体の横を軽く蹴った。手綱を動かして旋回させる。
「アンブロワーズ、ごめん、置いて行く! シトルイユっ!」
土や草をシトルイユの蹄が強く抉った。
「追い付ける?」
リオンの問いかけに答え、シトルイユは弾丸が飛び出すかのように駆け出した。草を掻き分け、土を巻き上げ、風を切って森の中を駆け抜ける。小石はそのまま踏み付け、木の根は助走なしで跳び越える。
振り落とされないようにリオンはしっかりと掴まる。シトルイユはリオンがこの程度では落ちないと思って速度を上げて走っている。落馬すればリオンは怪我をするし、シトルイユは主人の技能を理解していなかった自分を悔やむだろう。だからこそ、リオンはぎゅっと手綱を握り締めるのだ。
「止まってー! 止まって! やだー!」
「シャルロットの声……。シトルイユ、あっちだ」
声を頼りに方向転換し、当てもなく彷徨い走る白馬とシャルロットを追い駆ける。
「止まってー!」
「シャルロット様!」
「リ、リオン!?」
王宮の美しい白馬の背中にしがみつきながら、シャルロットはちらりとリオンを見る。馬同士が接触しないように、余計に興奮させないように距離を取りつつ、リオンはシトルイユを白馬にほんの少し近付けた。
「シャルロット様、絶対に手綱から手を離さないでくださいね」
「離さない!」
「乗り手の不安は馬に伝わります。だから、どうか落ち着いて。体を起こして、手綱は離さないで、でも緩めて。引っ張らないで。怖い気持ちは分かります。ですが、叫べば馬は余計興奮します。落ち着いて、落ち着いて、馬のことも落ち着かせて」
「わ、分かっ……! 分かったわ! よし、よしよしよし大丈夫大丈夫大丈夫」
「私がいますから、安心してください。大丈夫ですよ、シャルロット様」
「よしよし。ほら、大丈夫よお馬さん。わっ、うわ。だ、大丈夫。よしよし、きゃっ」
「シャルロット!」
バランスを崩したシャルロットはなんとか持ちこたえるが、その目には大粒の涙が浮かんでいた。立ち止まりかけた白馬はその場で跳んだり跳ねたり立ち上がろうとしたりしている。
「シトルイユ、もう少し寄せられる? うん、そう。よし、ありがとう。……シャルロット、僕を信じて。大丈夫だから」
動き続ける馬の上で視線が交わる。
「リオン」
「前見て。よそ見しない」
「は、はい!」
「落ちても受け止めるから、自分にできることをしっかりやって。馬を落ち着かせて。落ち着けば止まってくれる」
「分かったわ」
落ちれば受け止められない。リオンはシトルイユを信じて、シャルロットのことをじっと見る。屈強な大男であれば馬から振り落とされた少女を救えるかもしれないが、自分に支えることなどできない。しかし、シャルロットはリオンの言葉を信じている。ぐしゃぐしゃになりながら泣いているシャルロットは、それでも手綱を握って馬に優しく声をかけ続けた。リオンがいてくれるから大丈夫だと信じて。シャルロットの表情が変わったのを見て、リオンはそれを感じ取る。
そして根気強く宥め続けて、白馬はようやく落ち着きを取り戻して立ち止まった。リオンはシトルイユから降り、白馬に乗ったままのシャルロットに手を差し伸べる。
「シャルロット、もう大丈夫。怪我はない?」
白馬から降ろされたシャルロットはぼろぼろと涙を零す。
「あ、ありがとうリオン。貴方が来てくれて助かったわ」
「君も怖かっただろう。王女様を落とさずに走って偉いね」
リオンは白馬の首元を撫でてやる。その様子をシトルイユがじとっとした目で見ているが、愛馬からの視線に主は気が付いていない。振り向いたリオンに「シトルイユもお疲れ様」と労われると、シトルイユは尻尾を大きく振った。
愛馬に目を向けていたリオンは死角からぶつかって来た物に思わず声を上げる。正体が抱き付いて来たシャルロットだと分かると、今度は狼狽えて言葉にならない情けない音を口から出した。
「シャ、シャル――」
「リオン、ありがとう」
やり場に困って、リオンの手は虚空を彷徨う。そして少し迷ってから、躊躇いがちにシャルロットの頭を撫でた。




