Verre-1 深い森の中で1
木漏れ日の中でシャルロットは伸びをする。いつもより少しだけ簡素なドレス。フリルや飾りの数がちょっぴり少ない。
「お疲れですか、王女様。こんなところまで付いて来なくてよかったんですよ」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう魔法使いさん」
アンブロワーズはシトルイユが提げている水筒をシャルロットに差し出す。革に包まれているが、中はガラス瓶である。
穏やかな日差しが草花を照らす午後。リオン達は森の中の道を進んでいた。交易で栄えるレヴオルロージュには至る所に道が走っている。一見入り組んでいるように見える森の中にさえ、商人達が長い年月をかけて踏みしめ続けた足跡が道となって残っていた。
森の中で光り輝く一行はリオン、シャルロット、二人の様子を見ているドミニク、リオンにべったりとくっつきつつシャルロットとドミニクにも気配りを忘れないアンブロワーズと、馬達で構成されている。物陰に王宮の使用人とドミニクの従者が控えているが、息を潜めて森に溶け込んでいるためいるのかいないのか分からない状態である。
一行が目指すのは南西の深い深い森。南西の大陸と接する隣国ルージュ・ヴァルフォレト。その国境沿いは数えきれないほどの木々に覆われ、人が通るには困難を極める密林になっている。もちろんレヴオルロージュはルージュ・ヴァルフォレトと国交があるため人や物を運ぶための道はあるのだが、危険な森を越える際には専ら屋根付きの馬車が用いられ、馬だけで向かう者は無敵の怖いもの知らずかただの愚か者と言われる。
なぜ、こんな舗装もされていない森の中を王女と貴族の令息達が進んでいるのか。
三日前のことである。
医者のお墨付きをもらって全快したと言うアンブロワーズが、嬉々とした様子で手紙片手にヴェルレーヌ邸に現れた。曰く、オークションでガラスの毒リンゴを出品した人物と連絡が取れたとのこと。どうにかしてやり取りができないか、会う約束ができないか、と情報を集め、人伝に手紙を何枚も回しようやく出品者と連絡が付いた。
翌日、シャルロットがやって来た。ガラスの毒リンゴの話をすると、自分も行きたいと言い出す。二日後は休日なのでドミニクを呼んで共に行こうということになり、今に至る。
木陰で一休みしながら、リオンはシトルイユの首を撫でてやる。しばしシトルイユとじゃれていると、ドミニクが近付いて来た。水を飲みながらリオンのことを熱く語り合っているシャルロットとアンブロワーズに目を向け、声を潜めて言う。
「リオン様はドミノの従者をお連れなのですか? 議事堂でも一緒にいるという話を聞きました」
「彼は使用人ではないですよ。私の友人です」
「ご友人? 随分……こう、忠誠心があるような……?」
ドミニクは不気味なものを見ているような顔になる。
「少し怖いくらいですよね。でもいいやつですよ。たくさんよくしてくれて。……優しい、兄みたいで」
少し躊躇うように、照れるように、リオンは言った。すると、シャルロットと並んで座っていたアンブロワーズが勢いよく立ち上がった。木々が風に揺れる音に溶かすように零された言葉を、この魔法使いは聞き逃さない。
「兄!? リオン、今俺のことを兄だと言ったのですか!?」
「怖い! 怖いどうして聞こえてるの」
「勿体ないお言葉! 俺なんかを兄だなんて! つ、つまりリオンが俺の弟!? かっ、かわいすぎる! うわっ! ちょっと俺のことを『お兄ちゃん』って呼んでみてください。……あ! やっぱり駄目です。俺が死んでしまうからやめてください」
ドミニクは不審者を見る目をアンブロワーズに向けている。仲良く談笑していたシャルロットも唖然として白い魔法使いの賑やかな動きを目で追った。
「こ……個性的なご友人ですね」
「悪いやつではないんですよ」
リオンのフォローはフォローにならない。
怪訝な目を向け続けるドミニクに気が付いたアンブロワーズが、真っ白なローブを翻して近付いて来た。ドミニクは無意識に後退してシトルイユの影に隠れてしまった。
「オール侯爵のところのドミニク坊ちゃん」
「な、なんだ僕に何の用だ」
「あんた父親から何か言われて付いて来てますね? あんたが婚約者から身を引いたことは分かっていますが、侯爵がリオンのことをよく思っていないのも知っています。もしリオンに不利益が生じることをあんたの手でやってみなさい。その目の一つや二つ、俺がハシバミの枝で潰してやりますからね」
「怖い! 怖い。リオン様……」
「ドミニク様を脅すなアンブロワーズ。姿は見えないけどジャンドロン家の使用人が来ているんだ。君に不利益が生じる報告がされるかもしれない」
制止するリオンに、アンブロワーズは狂気と歓喜を孕んだ顔を向けた。
「俺のことを心配してくれるんですね……! あ、ありがとうございます……!」
「貴族に目を付けられてこの間みたいになったら困るでしょ。あの犯人が誰だったのか分かっていないんだから」
「ふふ、優しいですね。ありがとうございます、俺のかわいいリオン」
「はいはい」
アンブロワーズの纏わりつくような視線ともう既に纏わりつき始めた腕を軽くあしらって、リオンはシトルイユの肩を叩く。小さく嘶いたシトルイユに反応して、草を食んでいた王宮の馬とオール侯爵家の馬も顔を上げた。そろそろ出発だ。
三頭の馬でのんびりと進んでいる今のペースでは、日が暮れても国境の密林には辿り着かない。暗くなる頃に使用人達が馬車と共に姿を現してシャルロットとドミニクのことを連れて帰ってしまうだろう。もちろん、馬で進む一同はそのことを分かっている。少しの間でいいから共に歩いて話をしたいというのがシャルロットの申し出だった。
シトルイユを先頭に、王宮の馬とオール侯爵家の馬が進む。シャルロットの乗る王宮の馬はアンブロワーズが引き綱を引いていた。
歩く動きに合わせて純白の翼が揺れている。馬上からローブと翼を見下ろしながら、シャルロットはアンブロワーズに声をかけた。
「はい、何か御用でしょうか王女様」
「魔法使いさんは鳩さんでしょう? お空は飛ばないの?」
「はは。俺のこの翼は飾りなんですよ」
「えっ……。本当は人間……なの」
「いえ、そうではなくて。ちょっと、子供の頃に事故に遭って。動かしたり広げたりすることはできるんですが、羽ばたいて飛翔することはできないんですよ」
シャルロットは悲しげな顔になる。
時々、王宮の中が息苦しく感じることがあった。習い事、勉強、王族としての心得……。窓の外を見ると、鳥が広い空を自由に飛び回っている。鳥は自由でいいな、と思うこともある。しかし、自由に飛び回れない鳥もいるのだ。
「そうなの、あまり訊かれたくないことだったかしら、ごめんなさい」
「いえいえ。疑問に思っていたことが分かって貴女がすっきりすれば、リオンも喜ぶでしょう。気にしませんよ」
「魔法使いさんは本当にリオンのことが大切なのね」
「ふ」
軽く振り向いたアンブロワーズが馬上のシャルロットを見上げる。
「えぇ、俺の大切なかわいいリオンですから」
この魔法使いがリオンへ抱く思いは強くて重い。シャルロットは背筋がぞくぞくとして、純愛などと呼ぶことができないくらい汚いはずなのに、確かに純愛だと言えるくらい真っ直ぐな気持ちに震えた。自分がリオンに向けるものとは異なる方向性のものだと思いつつも、自分はこれほどまでに彼を愛せるのだろうかと一瞬不安になる。
シャルロットの表情の変化に気が付いたのだろう。アンブロワーズは安心させるように、極めて穏やかな顔をシャルロットに向けた。
「だから、彼を幸せにしてあげてくださいね」
寸の間、シャルロットはオレンジ色の瞳を見つめた。アンブロワーズはその視線を逃さないと言うようにじっと紫色の瞳を見据える。
リオンと接している時、リオンの話をしている時、アンブロワーズはいつもだらしなく崩した顔をしている。ところが、今は真剣そうな顔だ。下宿の時計屋を訪れる村娘達から「人間だったらよかったのに」「ヴェルレーヌの御曹司にでれでれしていなければ……」と言われることもあるそれなりに整った顔は、その良さを遺憾なく発揮しながらシャルロットを見ていた。話している内容はリオンのことであり、にやにやしていようがしていまいが気持ち悪いと評される感情を抱いていることに変わりはない。ただ、受け手からの印象はかなり変わる。
シャルロットは手綱をぎゅっと握った。まだ幼さの残る顔に、王女の威厳が浮かぶ。
「もちろんよ」
アンブロワーズはちょっぴり目を丸くしてから、安心したように目を細めて笑った。
「貴女でよかった」
引き綱を持ち直し、顔を前に向ける。リオンの後ろ姿に向けられた顔にどんな表情が浮かんでいるのか。それを知るのは、本人だけだ。




