8.エマの長い夜(成就)
(落ち着かないわ……)
エマは今、この二か月間近づくことがなかった"伯爵の部屋"で、アーレと対面に座していた。
重厚な造りの調度品の数々は、格式高く落ち着いた色合いで、エマの爽やかで明るい家具たちとは、まるで雰囲気が違っていた。エマの部屋の家具は、彼女を迎える前にアーレが選んだと聞いている。
もしこちらが彼の好みなら、かなり悩みながら揃えたのではないだろうかと思うほど、異なる趣だった。
ほどよい沈み心地のソファでは、向かい側でアーレが先ほどから重苦しい空気をまとって、沈黙している。
(えっと……)
庭での一幕の後、エマはお姫様抱っこの状態で、この部屋に連れてこられた。
医者が駆けつけエマを診たが、幸いにも無傷で、立てなかったのは驚いたからという診断だった。
(ううっ、恥ずかしい)
エマは赤面したが、アーレが"大事なくて良かった"と嬉しそうに頷いたので、別の意味でさらに真っ赤に染まってしまった。
彼が全身で守ってくれたおかげだと感じ入ると同時に、あの時のアーレの状態を思い出すだけで青褪める。本当にあの光には感謝しかない。
繰り返し謝るエマに、いつも通りの優しい声で「もう気にしなくて良い」と言ったアーレは、ゾフたちを退室させた。
ふたりっきりになった室内で、彼が最初に聞いたのは「なぜあんな状態になっていたのか」。
当然といえば当然の質問。
部屋で伯爵を待っているはずが、中ではなく外で、しかもバルコニーから落ちかけていたのだから。
叱られるのを覚悟で、白状した。
"自分から頼んだことだったけど、どうしても伯爵様に会うのが無理で、窓から逃げようとした"。
その答えに、「そうか」と呟いたアーレが、黙り込んでしまったのだ。
落胆したかのように、沈んで見える。
(あっ……!)
ふいに思った。アーレが言っていた通り、もし伯爵様がアーレと同一人物だとしたら。
(私は"アーレに会いたくなくて逃げた"と、そう思われてない?)
──ち、違うの!! 私が逃げたのは伯爵様がイヤだったんじゃなくて、アーレが好きだから、アーレ以外の男性が無理だと思ったからなの!!──
そう叫びたいものの、果たして正直にこれを話して良いのだろうか?
だってまだ疑問だらけだ。
どうしてアーレが60歳の伯爵様なの?
何か試されてる? ううん。アーレは私にそんなことしない。でも伯爵様の指示ならあるかも知れない。
私が密かにアーレが好きだってことが、バレてた?
いいえ、そんな要素はまだなかったはずだわ。
だって私だって最近やっと、自分の気持ちに気づいたとこだったもの……。
それにしても。
(かっこ良すぎる……っ)
目の前のアーレは、いつもの家令服ではなかった。
貴族らしい、とても仕立の良い美麗な服を着ていて、これが本当によく似合っている。
前髪を上げているため見放題の容姿は秀麗で、沈痛な表情さえ絵になっているので見惚れてしまう。
肖像画として、心にずっと残しておきたい。
彼の指には、初めて見る白石の指輪が嵌めてあった。しっかりした腕の古風な意匠。何か謂れのあるものだろうか。
つい今しがた、自分の行動のせいで、アーレにとんでもない迷惑をかけてしまったというのに、見慣れない彼の、しかもイケメン過ぎる側面に、エマは緊張と興奮を繰り返していた。
(気になることがたくさんだわ。アーレを治してくれた奇跡の光のことも。アーレは知っていて、全部話してくれると言っていたけれど……)
そんなわけでエマは大人しく、アーレの次の言葉を待っていた。
沈黙の時間を、大好きなアーレ鑑賞時間に切り替えて。
目を伏せたままのアーレが、ついに口を開いた。とても悲痛そうに。
「──それほどまで嫌がられてるとは、思い至ってなかった。強引に結婚してしまったが、一年間だけのつもりだった。エマが望むなら、すぐにでも離婚しよう──」
「?!!??」
いつもの理路整然とした彼からは考えられないくらい飛躍した言葉に、思わずエマは叫んだ。
「待って! いろいろ話が飛んでるわ!」
キョトンとした表情でアーレが顔を上げる。
その眼差しにさえ、エマの心は刺激された。
(うっ、無防備なアーレ、貴重!)
"アーレが伯爵様本人なら、恋しても許されるかも知れない"。
その希望は"制御"という堤防をたやすく壊し、エマの恋心を加速させつつあった。重症の、方向に。
それでも彼女は冷静に、疑問を述べた。
「えと……、私が聞きたいのは、どうして若いアーレが噂の伯爵様なのかということと、アーレの怪我を治したあの光の正体と、あと……あと、結婚相手に私を選んだ理由……とかなの」
(あっ、アーレが伯爵様ならもっと丁寧な言葉に変えなきゃダメかな。あれ、それにアーレさっき、結婚は一年間とか言ってた?)
尋ねた後に思い直したが、アーレは気にした風もなく、エマの言葉に頷いた。
「そ、そうか。そうだな。まずはそうだ。──今から話すことは、外には漏らさないで欲しいのだが──」
そう前置いて、アーレの話が始まった。
大怪我のこと、時を止める呪いのこと。
エマが見た光は呪いが発動して、傷を癒やした場面だったこと。
自分は、エマの祖母ミレイユと同年代であり、かつて婚約者同士であったこと。
ミレイユの遺した子が継いだカデュアール男爵家。
その窮状を見かねて、借金の肩代わりを申し出たこと。
世間を納得させるため、引き換え条件にエマを求めてしまったが、何かをするつもりはなく、"白い結婚"として一年後にエマを自由にするつもりだったこと。
エマを極力傷つけることのないよう、アーレは言葉を選びながら真摯に語っていった。
驚くような話の数々だったが、彼が実家を助けてくれた上に、自分をとても大切に扱ってくれていたのは紛れもない事実だったので、エマは真実として受け入れることにした。
その上で、最優先に確認したいことを、エマは口にした。
つまり。
「つまり、アーレは本当にトレモイユの伯爵様で、私の旦那様で、だから……」
おそるおそる、伺う。
「私、アーレのことを好きでいて、いいの? この想いは許される?」
「────!」
◆ ◆ ◆
少し前、サミュエル・アーレ・トレモイユ伯爵──妻から"アーレ"と呼ばれる男は盛大に撃沈していた。
二か月前、16歳の花嫁を迎えた。
呪われた身であることを隠すため、夫として彼女に会ったことはなく、正体を隠し、常に"家令"として接していた。
それが変に作用した。
──エマが伯爵夫人という立場ながら、"家令"に恋して苦しんでいるかも知れない。──
この可能性に気づいた時、自分の軽い思いつきのせいで、エマを悩ませてしまったことを後悔した。
そして誠意を持って理由を話し、謝ろうと考えた。
受け入れて貰えない時は、別れなければならない。
もちろん十分な慰謝料を添え、その後彼女が幸せになるまでサポートするつもりではいる。
だが、この二か月、エマがいる暮らしは彩に溢れ、多忙ながらも満ち足りたものだった。
まだ手放したくない。
少しでも長くエマといるためには、彼女から許しを得なければ。
緊張に身を固め、深呼吸までしてのぞんだ室内に、彼女はいなかった。あろうことか、バルコニーから逃げようとして、危険な状態でぶら下がっていた。
大事には至らなかったものの、そうなった経緯を聞き、サミュエルは愕然とした。
逃げ出すほど、この結婚を嫌がっている。
そんなエマには、好きな相手がいるらしい。
この二つを結びつけたサミュエルは、新たな仮説を立てた。
借金の肩代わりを検討するにあたり、事前にカデュアール家の家族構成は調査していた。その家の子ども達はまだ幼く、長女にさえ婚約相手が決まってないことも。
けれど把握していたのはそこまで。
もしかしたら秘密の恋人が、いたかも知れなかったのだ。
出会ったエマはあどけなさの多分に残る少女だったので、うかつにもその可能性は想像出来てなかった。
恋はトレモイユで覚えたもので、その相手は勝手に自分だと。
(なぜエマの恋の相手が俺だなんて思い込んだんだ──。王都に恋人がいたかも知れないのに)
想う相手がトレモイユにいるなら、トレモイユから出ようとはしなかったはず。つまり、想い人が自分という線は消えた。
恋愛偏差値ポンコツの、サミュエルが出した結論だった。
恋しい相手と結ばれない辛さは、自分が一番知っていたはずなのに。
もしかしたら、自分のせいで、彼女にそれを強要していたかも知れない。
サミュエルの羞恥と悔恨の念はすさまじく、同時に途方もなく落ち込んだ。
(エマに他の想い人がいる)
ショックだった。
しかもその衝撃が、父親や祖父が感じるそれとは別の種類のもので、失恋の寂しさだと気づき、大いに戸惑った。
彼女の恋の相手を勘違いした根底にも、“エマに好かれていたい”という願望が混ざった可能性がある。
サミュエルは暗雲渦巻く空気を背負って、エマを前に長く黙り込み、自己分析と今後を検討した。
いつの間に心を奪われていたのか。
とんでもない話だ。年の差を考えろ。
速やかに別れて、エマを自由にしてやらなくては。
「すぐにでも離婚しよう」
必死に己に言い聞かせ、絞り出した言葉だった。
エマの指摘で自分がすべての話を飛ばしていたことに気づき、驚いた。
相当に動転していたらしい。
慌てて、今夜話すはずだった事柄を話して……、彼女から真っ先に聞かれたことに、サミュエルは耳を疑った。
「私、アーレのことを好きでいて、いいの? この想いは許される?」
「────!」
(勘違いでは、なかったのか?)
言葉を失ったサミュエルに、エマが重ねるように言う。
「アーレが好きなの。アーレしか愛せない。それに気づいたから、どこか遠くであなただけを想って生きて行こうと思ってた。でも、叶うなら、あなたのそばでずっといたい」
澄んだ青空色の瞳が、果てない深さを湛えてサミュエルを捉える。エマの空には、自分だけが映っていた。
湧き上がりそうになる歓喜を、それでも慎重に抑え込んだのは、年齢か性格か。
「呪い持ちの身で、ずっときみを偽っていた。おまけにきみの意思を無視してトレモイユに呼び込んだ挙げ句、大切な結婚を書類で済ませるという暴挙を侵した。きみが好きだと言ってくれた"家令"の正体は、そんな男だぞ? 考え直すなら、いまだ」
でなければ、自分の気持ちが止められなくなる。
「アーレがいい……っ。あなたが、大好きなの」
エマの可憐な唇が紡いだ言葉は、か細くも強く、サミュエルを打った。
(もう無理だ──!!)
好む女性から熱く伝えられ、サミュエルの自制は限界を迎えた。
もとよりエマの泣きそうな顔には、なぜかとことん弱いのだ。
呪いが解けてない!
エマと同じ時を生きれない!
だけど今だけは。今この時は、共有させてくれ!!
呪いが解けないままに想いを遂げると、悲しい未来が待っている。
サミュエルが取り寄せた《聖女の微笑み》は、彼のもとに届いていた。
しかし、発動の条件がわからなかった。なんの反応もないままに今日を迎え、先の落下でも《魔王妃の涙》だけが起動した。
おかげで助かったわけではあるが、"解呪"に関しては、ほぼ振り出しに戻ったようなもので、見通しが立っていない。無責任だとは承知している。
あとで詰られてもいい。どんな責めも負う。
「エマ……。俺もきみが好きだ」
「!!」
エマの目が見開かれた。「アーレ!」言うなり、彼に向って駆け寄ろうと立ちあがった彼女は。
「きゃあっ」
次の瞬間、転びかけた。ふたりを隔てていた、ローテーブルに足をぶつけて。
「エマ??」
サミュエルが即反応でエマを支え、流れるように自ソファ側へ引き寄せた。
ぽふり。
ふたりそろって、同じソファに着座する。
「…………」
「…………」
距離が、近かった。
なんなら、助けた時に手を添えたまま、密着していた。
サミュエルのすぐそばに、エマの横顔があって。
エマの体温に、柔らかな呼吸に、なめらかな頬に。誘われるように、サミュエルは口づけていた。
「~~!!」
耳まで朱色に茹だったエマが、はじかれたようにこちらを向く。
驚いて丸くなった目が、可愛らしい。
踊るような鼓動は、彼女の心音だろうか。
たまらなく、愛しく感じた。
もう一度。
次は頬ではなく、桜唇に触れた。
18の時に止まったサミュエルの恋心が、新しく動き始めた、その時だった。
彼の手にあった白石の指輪が、変化を見せた。
お読みいただき、ありがとうございました!
エマ主軸の時はアーレ表記、アーレが主軸の時は、サミュエル表記になっています。ややこしくてごめんなさい!
いつも長くなってしまう心情回。サミュエルに自覚させて両思いにするのに手間取りました(あやつめ…!)。
そのうえエマを貰った理由を「成り行きで」とは言いませんでした(笑)。このあたりが年の功ですね、きっと。
残した仕込みはあと二つ。もうすぐ完結します! よろしくお願いします。
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