16 以前と同じように名を呼んで
アルバートは可能な限り学園内でベアトリスの傍にいるよう心がけていた。
朝はベアトリスが馬車で登校してくるのを待って一緒に教室までの道を歩き、昼は彼女の教室まで迎えに行って食堂へ向かった。食堂ではベアトリスとフランクの三人で食事を共にし、雑談をしたあとアルバートが再び彼女を教室まで送る。
また生徒会の仕事が休みの日の帰りは“自分の馬車があるから”と遠慮するベアトリスをアルバートは自身の馬車に乗せて一緒に王城まで向かった。
そんな訳で、暫くは二人の間に他人が入り込む隙がない状態だったため、ベアトリスが他の令息たちから声をかけられる機会はなくなった。
誰かがベアトリスに話しかけようものなら、アルバートが笑顔で圧の強い視線を送り、令息を追い払ったからである。
そうやって、ベアトリスとアルバートが一緒に過ごす時間が増えていることが学園の生徒たちの目に幾度となく入り込んだ。結果、あれだけリリアンとアルバートを応援していた声は、いつの間にかベアトリスとアルバートを応援する声に置き換わりつつあった。
「アルバート様とベアトリス様、今日も一緒の馬車で下校されるようですわね!」
「仲睦まじくて羨ましいですわ」
「今まではリリアン様がアルバート様に纏わり付いていらっしゃったから、お二人がご一緒できなかったのね」
「きっと今までそう出来なかった分、お二人で過ごす時間を取り戻されているのよ」
「でもまさか、リリアン様がベアトリス様に嫉妬して、あんな嘘を仰っていたとは思いませんでしたわ」
「大体、侯爵令嬢であり、殿下のご婚約者であるベアトリス様に伯爵令嬢のリリアン様が敵う筈がありませんのにね」
アルバートにエスコートされながら馬車へ向かうベアトリスは、聞こえてくる噂話を耳にして複雑な心境に包まれていた。
およそ一月前まであれほど学園中の生徒から疎まれていた筈なのに、今や擁護したり褒められたりするのだから無理もない。
それに、ベアトリス自身はそれ以前までと行動を変えたつもりはない。単純にアルバートがベアトリスを気にかけるようになり、リリアンが学園を謹慎になっただけである。
世間の評価など、ちょっとしたことであっという間に塗り替えられてしまうのだと、ベアトリスは少し恐怖すら感じていた。
「世論はこうして出来上がっていきますのね……」
「ん? 何か言ったか?」
ポツリと呟いたベアトリスの顔をアルバートが覗き込む。
「……いえ。何でもありませんわ」
「そう? それなら良いんだ」
アルバートがベアトリスに対して過保護になってから、特に何事もなく平和な日々が過ぎていく。それでもアルバートはベアトリスに対する過保護なまでの送り迎えをやめようとしない。
婚約者として共に過ごす時間を作ろうとしている点に関しては百点満点だろう。だが、いつまでもこのままというわけにはいかない。そう考えながらベアトリスはアルバートのエスコートで馬車に乗り込む。
ふかふかのソファーに腰を落ち着けるとアルバートがベアトリスの向かいの席に座る。少しすると馬車が動き出した。そのタイミングでベアトリスは意を決して話し出す。
「アルバート王太子殿下、わたくしはそろそろ以前のように自分の馬車で王城に向かいたいと考えています」
告げると即座に「ダメだ」と声がする。
「殿下は御忙しい身です。ご公務や生徒会のお仕事がまた溜まり始めているのではありませんか?」
アルバートは忙しい日はベアトリスをフランクに任せると言いっていた。だが、生徒会の活動がある日も会議がある日を除いて、ベアトリスを優先させている。それはつまり、同じ生徒会に所属しているフランクに“任せる”と言いながら彼を頼っていないことになる。
そのせいで城に生徒会の仕事を持ち帰り、結果的に“王太子殿下の公務が遅れているようだ”と城の使用人が話しているのをベアトリスは聞いてしまったのだ。
自分のことは心配いらないと伝えたくて話し始めたベアトリスだったが、「そんなことよりも」とアルバートが話を逸らす。
「どうして君は前みたいに私の名前を呼んでくれないんだ?」
「…………はい?」
真面目な顔で問いかけられた質問にベアトリスはキョトンとする。
「前は“殿下”の他に“アルバート様”とよく呼んでくれていただろう。それなのに今は“王太子殿下”と、よそよそしい呼び方ばかりするじゃないか」
どこかムスッとした表情をしたアルバートがベアトリスの答えを待っていた。
「それは……」
婚約解消の話を持ち出されたあの日から、ベアトリスはわざとアルバートを様付けではなく王太子殿下と呼ぶようにしていた。
婚約者でなくなれば気軽に名前を呼ぶわけにはいかないからだ。だが、二人の婚約は継続された。
それでも王太子殿下呼びを止めなかったのは、短期間で態度を変えたアルバートには別の思惑があるかもしれないと疑ったからだった。
アルバートから心配される度、優しくされる度、ベアトリスは未練がましくアルバートを想う自分の心と、疑心暗鬼になる心に罪悪感を覚えていた。
だから心配されたり優しくされると嬉しくもあり、苦しくもあった。だけど、アルバートが婚約解消を提示してきた時、彼は間違いなくリリアンを慕っていたのだ。
リリアンが嘘を吐いていると知ってからは彼女に気持ちがないと言っていたが、だからと言ってベアトリスに気持ちがあるわけでもない筈だ。
そんなこともあり、アルバートに期待してはいけないという戒めを込めてベアトリスは彼を“王太子殿下”と呼ぶことで心に一線を引いていた。
「わたくしは……もう期待して傷付きたくないのです」
ベアトリスは胸がキュッと締め付けられる思いを抱きながら、正直に答えた。アルバートは「……どう言うことだ?」と首を傾げる。だから、ベアトリスはもう少し踏み込んだ想いを言葉にした。
「わたくしは幼い頃に殿下の婚約者となりました。あの頃から今まで、わたくしはずっと殿下をお慕いしておりました。ですが、殿下は違った。……そこまで言えばお分かりになりますでしょう?」
「っ! ベアトリス……」
ベアトリスの瞳に映るアルバートの顔は歪んでいた。そして、アルバートから見るベアトリスもまた悲しそうに映っていた。
「私だって! ベアトリスを慕っていた!!」
“慕っていた”
過去形の言い回しに、ベアトリスはハッキリとした胸の痛みを覚える。
「慰めのお言葉は、必要ありません」
「それは違──っ!」
「気を遣わなくて結構です!」
言いかけたアルバートの声に被せてベアトリスは言葉を紡ぐ。
「所詮は政略的な婚約ですもの。アルバート王太子殿下が誰をお慕いしたとしても、わたくしは婚約者として将来は王太子妃の勤めに励みます。ですから殿下に新たな想い人が現れたら、その方を側妃になさるとよろしいですわ」
にこっとベアトリスが淑女の笑みを浮かべる。だが、どう見てもそれは心からの笑顔には見えない。無理して作っている笑顔だった。
それを目にしてアルバートは思う。
私は、ベアトリスをこんなにも傷付けていた。
普通の貴族令嬢であれば、やらなくてもよい妃教育を受けさせて、王太子妃になる努力をさせているのに。婚約者以外の令嬢を傍に置いた。
信用してもらえないのは当然だ。だが、昔からアルバートも無意識的にベアトリスを好いていたこともまた事実だった。
彼女を大切にすると心に決めていた。にも拘わらず、リリアンと出会ってから、いつの間にかリリアンから目が離せなくなっていた。
今思うとリリアンのどこに惹かれていたのか、アルバートは分からない。そもそもあのような令嬢を傍に置いていたという事実が、今となっては恐ろしかった。
「私は……側妃は娶らない」
「え?」
「他の女性を傍に置いていた私の言葉なんて響かないと思うが、私の隣にはベアトリスにいて欲しい。君が傍にいてくれれば、それだけで十分だ」
その言葉を聞いて、またベアトリスの心が揺らぐ。
彼は一度裏切られた最低な相手だ。それなのに幼い頃からの想い人に“自分が必要だ”と求められて、ベアトリスは胸が高鳴った。
「直ぐじゃなくていい。だから昔みたいに私の名を呼んで欲しい」
そっと微笑んだアルバートの顔は何処か寂しそうで、それが彼の小さくも切実な願いであることをベアトリスは察した。




