63 それは思い出になった
王都の中でも一番高い場所に位置する王宮には、天空庭園と称される広い庭がある。乾いた空気に強い植物が織りなす色彩が見事な庭園は、王宮に住む王族だけでなく、王宮で働く人々の憩いの場としても活用される。
庭園の中でも特別に庭師が美しく手入れしている区画がある。その場所は労働者は立ち入れず、王族が許した者のみが堪能できる。そこからの眺望は素晴らしく、王都が一望できる。立派な王門と、その先にある王都の景色が見事なのだ。昼間から夕方にかけては、人々の賑わいが風に乗って聞こえてくる。
朝から変わらず、あいにくの曇天ではあるが、強すぎない日差しがむしろちょうど良かった。
リネッタ、シルビオ、ベアトリスの三人は、庭園で一際豪華に誂えられたテーブルとソファに身を置き、顔を突き合わせていた。
「三人だけで話をすることは、ほとんどなかったね」
紅茶も揃い出来立てのお菓子も並べられ、場が整うと、シルビオがしみじみと切り出した。
リネッタも緊張を和らげるために、紅茶に手をつける。
「落ち着くことを許されないくらいの忙しさでしたから」
本当は、忙しいの一言で片付けられない苦労を味わっている、なんていうのは暗黙の了解だ。心身にダメージを受けたリネッタが軽々しく言ってしまうものだから、ベアトリスは同意することを憚られてしまう。
それを察してリネッタは「しまった」と思い、咳払いをした。
「冗談で言っていいものではありませんでしたね、ごめんなさい」
「……まったくです。リネッタさんのそういうところが、たまに癇に障ります」
おや、とリネッタとシルビオがベアトリスに視線を向けた。
ベアトリスは無表情のまま、同じく紅茶に手をつけて一口飲み、少し熱かったのか眉をぴくりと動かしてカチャンとカップをソーサーに置いた。
そして唇をぐっと引き締めて少しだけ逡巡した後、顔を上げてしっかりとリネッタに視線を合わせて、立ち上がった。
ベアトリスの動きに合わせてリネッタも顔を見上げる。立ち上がったベアトリスは、その後、深く頭を下げた。
「謝って済むものではないとわかっています。ですが、お母様の犯した過ちを、私からも謝らせてください」
「ベアトリス様……」
「それと、これまでのリネッタさんに対する幼稚な対抗心から出た態度も、重ねて謝ります。ごめんなさい」
ゆっくりと顔を上げたベアトリスの表情は、どこか怯えている様子だった。
謝罪の言葉がリネッタにどう受け取られるのか、シルビオがどんな思いで自分を見ているのか、何も想像つかないからだろう。
リネッタもまさかこの場でベアトリスから真剣な謝罪を告げられるとは思わず、反応が遅れた。ハッとして、もう一度ベアトリスの表情を窺う。そしてもう一度視線が交わる。
ふと、海岸で言い合った時のことが思い出された。
初めて感情をむき出しにして話をしたのが、あの時くらいだったからかもしれない。
むずがゆいような気持ちを覚えながらも、リネッタはその謝罪への言葉をなんと返せばいいかしっかり考えた。沈黙が続くが、シルビオもリネッタを尊重して黙って見守っている。
やがて、考えがまとまったリネッタは「まずはお掛けになって」とベアトリスを促す。
ソファに浅く腰掛けて肩まで硬くするベアトリスに、リネッタは真面目な表情で向き合った。
「ネビア様の行動については、当然ながら許されたものではありません。行為や思想そのものを許容することは今後二度とないでしょう」
「………」
「しかし、そのことについてベアトリス様が頭を下げる理由はありません。身内の罪を背負う必要はありませんし、私も同一視することはありません。貴女の無実は皆が知っていることです。当然、私も。お二人の境遇については、自分の中の想像を超えることはできませんが、苦しかったのだろうと察します。罪を犯しはしましたが、その部分を加味して理解することを諦めないように、私もネビア様と向き合いたいとは思っています」
ネビアの元には今シルビオの母親であるルシア王妃が時折訪れている。
精神鑑定を必要とするほど心が壊れてしまっているネビアに、ルシアが可能な限りケアをしている。
身分を追われ国外逃亡せざるを得なかった過去と、紛争地域での辛い経験や記憶は、ネビア一人だけの問題ではない。リネッタもいずれ、その問題と向き合っていく覚悟を持っている。
「次に、幼稚な対抗心、とおっしゃいましたが……」
自分の言った言葉にもかかわらず、ベアトリスは情けなくて恥ずかしさから頬を紅潮させる。
リネッタも少しだけ笑みを漏らし、だけど切なく眉尻を下げて続けた。
「正直な所、寂しかったです。でも、シルビオを想う者同士、こうなってしまうのもなんとなくわかっていました。いろんな事柄が重なってしまったから、それをきっかけにお互いの心が離れていったのは必然だったと思います。私も、きっと大人気なく貴女に接してしまっていたと思います」
「………そんなこと、ないです。リネッタさんが大人気ないなんてことはありませんでした」
「そうですか……?」
「言い合いになったり、対立することになっても、リネッタさんはちゃんと自分の役割の中から言葉を選んでいました。私の言い訳なんて、駄々をこねた子供みたいな内容。……年齢は重ねても、私だけ、成長していなかったんだって思い知りました」
ベアトリスがちらりとシルビオに視線を向けた。何か言葉を欲しているようで、その一方で諦念の色が見える。
沈んでいくようなベアトリスに、リネッタがパン、と両手を合わせて音を立てた。ベアトリスがびくりと体を跳ねさせ、シルビオの動きも止まる。
「とにかく、ベアトリス様は謝罪をして、私なりにそれを受け入れましたわ。これまでのことはここで一旦、終わりにしましょう! 私だって、ロマリアさまの結婚式でイチャつくお二人にめちゃくちゃ嫉妬して子供じみた態度を取ったりしましたから!」
「えっそうだったの?」
「そうよ。シルビオは鋭く見えて結構鈍いんだから、きっと覚えていないでしょうけど。ねえベアトリス様、シルビオのこういうところは直して欲しいなって思いませんか?」
ぎくしゃくしていた空気を一変させるようなリネッタの明るい口調に、呆気に取られつつもベアトリスは安心を覚えた。
そして自然と笑みが溢れる。
「それは、確かにそうかもしれませんね」
「貴方を想う女子二人からですらこう言われているのよ。いや、シルビオを想うからこそ気になっているのかしら……?」
「リネッタ、そんな明け透けに言わなくても」
シルビオが珍しく照れて困ったような表情になる。
「ここまで言わないと伝わらないじゃないですか」
正直な話を切り出してからか、リネッタは取り繕うことなく唇を尖らせた。
ベアトリスの緊張もすっかりほぐれたのか、くすくすと肩を震わせて笑った。
そうなのかな、そうですよ、という応酬を続けるリネッタとシルビオを、笑いながらも薄く眺めるベアトリスは、次第に落ち着き、紅茶で乾いた喉を潤して、言った。
「そろそろはっきりさせましょう」
二人の会話がぴたりと止まる。
「シルビオの婚約相手を」
三人の中で、最も無視できない事項をベアトリスははっきりと口にした。
今度はシルビオの方をまっすぐ見つめて、同意を促す。
「でも、期限はあと数ヶ月あります」
リネッタが条件を口にしても、ベアトリスは首を横にふる。
「それはあくまで最終期限で、シルビオの心が決まれば意味のないものだと思ってます。ねえ、シルビオ、貴方の考えを聞かせて」
提示されるであろうシルビオの意思決定を思い、リネッタの心臓がどくんどくんと脈打つ。
閉会の儀の日、想いは繋がったように思えた。けれど、それをはっきりとした言葉で投げかけられたわけでもなく、今に至る。それに何より、シルビオは個人的感情と政治的立場をどのくらい混ぜて考えるのか、リネッタには予測がつかなかった。
シルビオの結婚相手というのは、ルナーラ王国にとってあまりにも大きな意味を持つ。
シルビオ自身も、かつてアレハンドロ王に、リネッタとベアトリスという選択肢を自ら選べと言われた日にはその荷の重さにため息が出たほどだった。
ベアトリスの聖女としての力は戻っている。けれど力を失っていた間に、リネッタ自身も自ら功績を上げて国民の印象を変えた。
「国民に一番尽くすであろうと思ったのは……」
案の定これからの働きについての推測から切り出したシルビオに、ベアトリスが
「そうじゃなくて!」
と語気を強めて遮った。
「そんな堅苦しい話じゃなくて、私とリネッタさんのどちらを愛しているのか、はっきり言って!」
ストレートな言葉に、リネッタの緊張がさらに増した。
シルビオもベアトリスの覇気に驚いて、目を丸くした。
「……たしかに、そういう話だったね」
だが、あっさりとシルビオはベアトリスの意見を受け入れた。
リネッタの膝の上で握られる拳がじりじりと熱を増す。ベアトリスも、一縷の望みを抱いてシルビオを見つめる。
シルビオは「ベアト」と、ベアトリスの名前を静かに呼んだ。
リネッタの心が凍るような心地を覚える。
「幼い頃は、確かに貴女に恋をしていたと思う。けれど、今俺が愛しているのはリネッタなんだ」
握っていた拳がふっとほぐれた。
「俺はリネッタを愛している。だから、リネッタと結婚したい」
シンプルなその言葉は、リネッタがずっとずっと願っていた言葉だった。
あまりにも唐突な言葉に現実味がもてなくて、リネッタがポカンとした表情でシルビオの方を見る。
シルビオの視線がこちらに向いていて、そしてその表情があまりにも優しく、やっぱり夢なんじゃないかとリネッタは錯覚してしまう。
「……シルビオはそうやって、恥ずかしげもなく想いを伝えられる人だったわ」
懐かしむような声色でベアトリスが小さく呟く。
「そうね、その言葉はきっと嘘じゃないのね」
諦めたように、曇天の空を眺めて背もたれに体を沈ませる。
リネッタは感情が追いつかず、まだ止まったままだ。
「どうしてリネッタさんに心変わりしたの? 少し前までは私のことを好きだったみたいに言ってた気がするわ」
「どうだろう。多分、ベアトへの想いは、ベアトと離れた時には既に終わってしまったと思っていた。ただ約束が残ってて、それを守らないと、って気持ちにブレーキをかけていたんだと思う」
「……リネッタさんには既に惹かれているって、言ってたものね」
図書館での出来事をリネッタが知らないと思っているので、ベアトリスはしてやったりな表情で言い返すが、リネッタは反応を変えないのでベアトリスは少し首を傾げた。
「で、でも、まだその時はリネッタさんに対する想いは同情に近い気持ちだったと思うけれど」
「元々好ましくはあったし、リネッタが俺に想いを寄せてくれていることも嬉しかった。ただ、同じ気持ちじゃないのかもしれないと思って線を引いていたのは確かだ」
「ふーん……」
「けれど、国を思って自ら行動を起こすリネッタに強く惹かれていくのも事実で、大きなことをしているのにリネッタらしいところがずっと輝いていることが嬉しくて、目が離せなかった。それでいて、すごく危なっかしいんだ。隣にいて守っていきたいと思った時には、さすがの俺でも気づいたよ。リネッタを愛しているんだと」
リネッタの目から、静かに涙が流れた。
シルビオがぎょっとし、ベアトリスがどこかつまらなそうに息を吐く。
「何か傷つけることを言ってしまったか…!?」
「ち、ちがうの、これは嬉しくて……信じられなくて」
「いやだわ、シルビオって好きな相手にはそうやって取り乱すこともあるのね」
ハンカチをリネッタの目元に持っていき介抱するようなシルビオにベアトリスがやれやれと悪態をついた。
「どんなイメージを抱いていたのか知らないが、予測できないことには当然慌てるよ」
「なんか、もっとクールで毅然としていて、まさに理想の王子様みたいにエスコートしてくれていたのがシルビオだった気がしたのに」
「それで言ったらベアトだってもっとお淑やかでいつも微笑んでいるようなイメージがあったが」
二人で言い合いをしながらも、シルビオはリネッタの肩に手を置いて慰めるように抱き寄せている。
すっかり涙が止まって二人のやりとりに困惑するリネッタに、ベアトリスが「あはは」と、口を大きく開けて笑う。
「私たち、昔のイメージでしかお互いを見ていなかったのね」
だけどその瞳には薄く涙の膜が張っている。
雲間から太陽の光がリネッタたちの元に降り注ぐ。キラリと見えたのはベアトリスの瞳から溢れた一粒の涙だった。
「私たちは今を生きているのにね」
そうやって笑うベアトリスは、今までで一番軽やかに見えた。




