60 一致
ルナーラ王国民の娯楽の一つは、1日の始まりに売られる新聞だ。
報道そのものの歴史は長くとも、これによる商売に目をつけたのは近代の話。今や個人でも、それなりのニュースをまとめた紙切れ一枚を人に配れるだけ用意できれば新聞記者と名乗れる。アマチュアが溢れかえり、新聞社の数を正確に数えることはできない。
一方で、増えすぎた新聞を目の前に、国民も慎重かつシビアに選ぶようになった。嘘でも楽しめるから良いと小説代わりに新聞を買う人もいるが、下手すれば毎日の定額出費になるので、大体の国民は厳選したものをたまに1つか2つ買う。新聞社側からすれば、そのたまに買う新聞の1つになれれば最高だ。
その中で、老舗であるレイズリー社はブランド力と信頼で顧客を勝ち得てきた。聖女の台頭により真っ先にそのネタを掴んだ彼らの報道力は国民からの人気を上げ、リネッタの聖女襲撃犯疑惑を払拭した時にはその信頼と誠実さをものにしたと言っても良い。もはやレイズリー社の右に出るものはいない。
だが一方で、名の知れぬ新聞社の強烈な報道にエンタメを求めて話題にする人も多いのだ。
婚約者候補がリネッタとベアトリスの二人に分かたれた報道から半年以上が経った。
見知らぬ名前のアマチュア新聞には、【リネッタ姫の聖女暗殺計画】という衝撃的な文章が大きく掲載されている。しかも一つではなく、複数だ。
「ホセお坊ちゃんがベリック社の新聞を差し押さえしたんじゃなかったんですか?」
「よく見ろ、どれもベリックにも及ばない三流だよ」
「あー……たしかに、初めて見る名前だ。レイアウトを真似てんのか」
アマチュアは見よう見まねから入るので、レイズリー社の新人社員も間違えたようだ。文章を斜め読みしたあと、呆れたように片眉を上げて新聞をぽいと放り投げる。
「ってかなんで差し押さえになったんです?」
「聖女の評判を貶める記事を書いただろ。王族が取り締まると言論弾圧になるから、レイズリーが代表して自浄作用的に動いたんだよ。自主的謹慎による売上見込みを抑えることで罰とするんだとさ。10日後くらいには再開するんじゃないか?」
「でも一月分販売停止って、かなりの打撃ですよねえ。やっぱ裏どりのない下手な記事は書かないようにしないと。こいつらも似た処分されそうだなあ」
「そろそろ組合をちゃんと作るべきかね」
「報道社がいい加減な嘘をついちゃいけねえよ」
広場で新聞を広げる市民たちも、似たような反応だった。話題にはするが、訝しんでいる。
「こんなの出鱈目でしょ。最近リネッタ様を見ないから好き勝手言ってるだけじゃない?」
「たしかに、リネッタ様のお姿をもう一月くらい見てないな」
「何があったんだろう……」
「聖女様は前に公務を再開したとかで国立公園でお見かけしたわよ。豊食祭の時よりも元気になっているようだったけど」
「この新聞だと、豊食祭での功績に嫉妬したリネッタ様がなりふり構わずって話みたいだけど」
各所の話題の中心に新聞があるが、皆文面に齧り付いているわけではなく、顔を上げて議論をするように話している。
「憶測にすぎないし、本当に彼女はそんな人か?」
誰かは、丸めた新聞で建物の柱をパンパンと叩いた。
「でもこの情報は聖職者からの垂れ込みだって……」
「しかし聖女様は力がお戻りになってからは普段通りなんだろう? こんな噂が俺たちに広まるくらいならもっと警戒してるもんだが」
「それもそうか……」
喫茶店で新聞を取り囲んでお茶をする人々の話を聞きながら、カウンターでグラスを拭く女店主もため息をついた。
「自分の目で見なくちゃ判断できないわ。真実がわかるまでは黙って見守りましょう」
撹乱の種は撒かれている。しかし、前のように混乱が広まるわけではなかった。それは確実にリネッタがこれまで直接動いてきたことによる功績だった。
***
「姫様、お加減はいかがです?」
「マテオ!?」
「ちょっとマテオ、ノックなしに入るのをやめなさいって言ってるでしょう」
「いつもと部屋が違うからうっかり」
カロリーナが入室してきたマテオをキッと睨みつけると、ヘラヘラとマテオが頭を下げるが「なんかネルソンみたいに怒るようになったなあ」と軽口を続けるので、カロリーナは持っていた大量の新聞を両手で掴み、マテオの尻に叩きつけるように振りかぶった。
「病み上がりなんだが!」
「患部は避けました」
そんな二人のやりとりを目の前に、リネッタはベッドの上で声を上げて笑った。
「なんか、懐かしい」
「……そうっすね、最近は特にバタバタして揃うこともなかったから」
尻をさすりながら、リネッタのそばにある木造の丸椅子を引いてマテオは座った。
「もう動けるの?」
「はい。今日から姫様の護衛の仕事に戻ります。最後の盾になるくらいには回復したので」
マテオの言葉にリネッタが複雑そうな表情で眉間に皺を寄せる。紅茶を運んできたカロリーナがマテオの頭を小突いた。
「姫様もまだ完全回復してないのに世論調査ですか?」
「ええ。読むくらいならなんともないもの」
「また変な噂が広まってますよね」
「怪我をして表に出れないから、この身を持って無実を表明することが難しいってことをわかってるのかもしれないわね。だとしたら、情報提供社は十中八九あの時の……」
新聞にある「聖職者」の文字をなぞりながらリネッタが呟く。
数日前に聖堂でシルビオの騎士が確保したという知らせは聞いていた。現在は囚人と同じく収監されている。ただ、本当に彼が事件当日の犯人その人であったかどうかはリネッタが確認しなければならないため、怪我の様子が落ち着くまで先延ばしになっていた。せめて本人の証言で何か出ればと尋問を続けているが、頑なに口を割らないのだという。その後の情報はなく、停滞している。
3人が黙り込んでいるところで、部屋の扉のノック音が聞こえた。
シルビオだろうか、とリネッタが顔を上げると、カロリーナが開けた扉からはベアトリスが現れた。シルクの布に包まれた瓶を両手に抱えて、「失礼します」と細い声で入室すると、ベッドの上のリネッタの方におずおずと視線を移した。
「わざわざこちらまで届けにいらっしゃったのですね。ありがとうございます」
定期的にベアトリスの浄化の力によって生み出される『再浄化の水』がリネッタの元に届く。だが、ベアトリス本人が届けにきたのは、最初にリネッタを見舞った時以来だ。
ベアトリスの表情は暗い。とはいえ、リネッタと話すことに対する憂鬱感からではなさそうだ。憂いは他にあるようで、むしろ、リネッタには縋るような目つきすらしている。
それをなんとなく感じ取ったリネッタは、「どうぞおかけになって」と、マテオとは反対サイドの扉に近い方に置かれている椅子にベアトリスを促した。ドレッサー用の、座面がクッションになっているものである。
カロリーナが話しやすい位置にその椅子を移動させると、ベアトリスは座った。手に持っていた水はカロリーナが代わりに受け取った。
ベアトリスが顔を上げると、マテオが反対側にいるので思わず身を硬くする。久々の面識のため、萎縮したようだ。
しかしマテオはベアトリスに満面の笑顔を向けた。
「聖女様こんにちは。リネッタ様付きの騎士団長の片割れをしているマテオ・フランコです。この度は再浄化の水を精製してくださりありがとうございます」
マテオの傷の治りは本来もっと時間がかかるものである。しかしマテオ自身の回復力と、聖女による再浄化の水が効いたのか、ずっと早く現場復帰を果たすことができたのだ。
マテオの素直な感謝の言葉に、ベアトリスも胸を撫で下ろし、「お役に立てて何よりです」と微笑んだ。
そんなベアトリスを見て、初めて彼女と会った時のことをリネッタは思い出していた。二人で変装して街に繰り出したときの、ベアトリスの優しい心遣いを、ほんのりと感じた。リネッタは少し嬉しくなって、笑顔が溢れた。
「……ベアトリス様、無事公務に戻られたとお聞きしています。何より、難民地域の浄化を真っ先に行ってくれたと」
書類の不備によって完了済みになっていた難民地域の現状をベアトリスは見ていた。そのため、彼女が仕事に戻って最初に赴いたのは難民地域であった。
直接現場を確認できなかったことは残念だったが、浄化の儀式にはシルビオがついて行った。その報告を聞いたリネッタは一つの大仕事を無事終えた様な気持ちになったのを覚えている。
「本当に、ありがとうございます」
「……いいえ。私をあの場に連れてくるようリネッタ様が言ってなかったら、後回しになっていたかもしれないですから。私の方こそ……」
歯切れ悪くベアトリスは言った。まだ、リネッタほど割り切って話すことはできないようだ。
けれど、リネッタは、前よりもずっとベアトリスとの関係が緩和したのを実感した。だからこそ、最初に暗い表情をしていたベアトリスのことが気に掛かっていた。
「あの、ベアトリス様。最近何かお悩みになっていることなどありませんか?」
「え……?」
「差し支えなければ教えてください。お仕事のことでしたらシルビオを通して改善を求めるように協力してもらえますし……」
「う、ううん。それは、大丈夫です。仕事は順調です。ただ………」
ベアトリスがちらりとリネッタの袖の下から見える包帯を見て、罪悪感を抱いた表情になった。
「リネッタ様を襲った犯人の背後に、お母様がいるかもしれなくて」
ベアトリスの瞳からぽろっと涙が溢れる。
「それに、新聞ではリネッタ様が私を殺そうとしてるなんて嘘も広まっているみたいで」
鼻の頭が赤くなり、ぎゅっと目を瞑ればボロボロと涙が雫になって落ちていく。
「今日の浄化先で声をかけられたんです。ちゃんと警備はしっかりしているのか、と。前にもリネッタ様に襲われたんだから次は本当かも知れない、って、私を思って泣く人がいたんです」
リネッタの胸が少しだけ痛む。やはり、あの報道に踊らされる人はいるのだと。全員の意識を変えることは本当に難しいのだということを思い知らされる。
「そんなことありえないのに、噂で作られた人の思い込みで人が動いているんだと思うと、本当に怖くて。お母様のことも真実はわからないのに、どうしても悪い方に考えてしまうんです。私は娘なのに、お母様のことが大切なのに」
そう言って震えるベアトリスは、両手で口元を覆うようにして涙を流した。肩が小刻みに震え、嗚咽で漏れる声を抑えるようにしている。
リネッタは体を少しだけベアトリスの方へ動かした。まだ要所要所が痛むが、移動程度であればズキっとする程度だ。
上半身を前に折り、なんとか右手がベアトリスの膝に届く。ぽんぽんと彼女を落ち着かせるように、リネッタの手のひらが上下した。
──ベアトリス様は半年前まで普通の女性だった。
人前に立っても、聖女の力を使っても、仕事をしても、特別感に浸るだけだった。
皮肉なことに、ベアトリスを想ってかけられた応援が、その立場の強大さをベアトリスに実感させたのだろう。
「聖女襲撃事件と名付けられたあの記事だって、影響力をわかって仕立てたんじゃないのか?」
「マテオ!」
それまで二人を見守っていたマテオが、鋭く投げかける。ベアトリスの体がびくりと跳ねて、両手が太腿の上に落とされる。
「……あの時は」
涙で濡れた瞳でリネッタを見る。リネッタはマテオを窘めるように厳しい表情をしているが、ベアトリスに対して怒りは抱いていないようだ。リネッタの右手はまだベアトリスの上に優しく乗せられている。
「本当に、リネッタ様の髪色と同じ後ろ姿だったから、嘘を言ったわけじゃないんです。それに、実際恐ろしい出来事だったから少しでも手がかりをって思って。……でも………」
自分の過去の正当性を説いても、事実世論が大きく動いたことを思い出し、ベアトリスは閉口した。
「だとしても、やっていることはこの新聞たちと変わらない。ましてや貴女は聖女だ」
「マテオ、それ以上は無礼だわ」
「………」
「……ベアトリス様、従者が許可なく意見してごめんなさい。ただ、私からも続けますね」
リネッタに従って黙ったマテオを一瞥した後、リネッタはそっとベアトリスの膝から手を離して向き直した。
「ベアトリス様は厳しい状況から一転して国の大切な聖女という存在になりました。聖女となって様々な経験をなされたからこそ、考えさせられることも多かったはずです」
キラキラと持ち上げられることの優越感だけでなく、力を失った時に地の底に落とされたような痛みも味わっただろう。ベアトリスもそれを思い出しては、一層表情を暗くする。
「自分の存在や発言が、思いもよらぬ大きさで人々に届いていること、もう嫌と言うほど実感していますね?」
「……」
ベアトリスがこくりと頷く。
「どうか、それをうまく使ってください。今のベアトリス様であれば良い方向に動かせると思います」
「…………なんで、なんで、そんな」
「と、私は信じる言葉を投げかけることしかできないからですよ」
リネッタが少し情けない笑顔で笑った。
「私のやれることはそれだけなんです。今も昔も。ただやれることに真っ直ぐ向き合うしかないんです」
ベアトリスのような力があればどんなに良かっただろう。シルビオの隣に並ぶ人間として、もっとできることが具体的にあったなら、と考え続けていた。けれど現実は変わらない。リネッタのできることは、リネッタができることだけしかないのだ。
ベアトリスが、ゆっくりと頭を下げた。水色の髪の毛が、さらりと落ちる。
項垂れたベアトリスはそれ以上言葉を交わすことなく、しばらく黙った後に立ち上がり「お大事にしてください」とリネッタとマテオを労う言葉を残して退室した。
部屋の外でずっと待機していた聖堂騎士団の人間と共に、ベアトリスは階段を降りていく。ベアトリスが降りた方とは反対の階段からシルビオが上がってきて、一瞬見えたベアトリスを捉えて足を止めたが、少し考えた後、歩みを進めてリネッタの部屋の前に立った。
「調査に加わるだって?」
「私が一人で歩けるようになったら、よ。今もそんなに大変じゃないんだけど、大事を取って5日間くらいは様子を見るわ」
「それでも早いんじゃ…」
シルビオが心配そうに眉尻を下げるが、リネッタは明るく「大丈夫よ」と返す。前みたいな空元気は無く、本心から安心させたいがゆえの真実を語っている。
「動きたくてうずうずしているくらいなの。マテオが復帰して余計にね」
「ならマテオはもうしばらく休んでもらって」
「待ってください殿下、それはおかしくないっすか」
至極真面目に提案するシルビオにマテオも苦笑した。
「とにかく、何事もなければ5日後には私も自分のお屋敷に戻るし、事件調査に加わるわ。ソレイユ人聖職者の正体もまだわかっていないんでしょう? 私が直接会いに行きます」
シルビオが再びリネッタを止めようと口を開きかけたが、リネッタの瞳は頑なで、これ以上意見を変えることもないだろうということを何となく察したのでお手上げだと斜め上を見た。
「わかった。一緒に行く。そろそろ囚人の処罰も決定しないといけないからね」
「心強いわ」
口で止めるよりも、そばで行動を追う方が楽だと知っているのだ。
宣言通り5日後、リネッタは久しぶりに外出着を身に纏い太陽の下を自らの足で歩いた。
マテオとネルソン、そしてシルビオとその護衛騎士たちと共に、王都から北の外れにある監獄にやってきた。
ソレイユ人聖職者をリネッタからのみ見えるような特殊な板を挟んで対面する。リネッタは表情を変えることなくただぽつりと「この人です」と決定づけた。
自分を脅した聖職者、暗かったとはいえ至近距離で会話をしたのだ。男性の顔も声も、強烈に残った記憶の男と一致した。
それにしても、男の目はこんなに生気のない虚ろなものだったのだろうか。これはまるで、何かに毒されているようだ。
もはや気の毒に思えるほどの病的な姿に、リネッタは思った以上の恐怖心を思い出すことなく終わった。あとは、ただ男がしたリネッタ誘拐に関する罪の処遇を決めるだけだ。
「お疲れ様」
「ありがとう。確認しただけだけどね」
シルビオに手を引かれて移動用の馬車に乗り込む。
「行きも帰りも長時間だから、病み上がりには堪えるだろう」
「乗り心地、あんまり良くないものね」
リネッタは無理をしなくなった。そしてそんなリネッタの言葉に、シルビオも安心した笑顔を向ける回数が増えた。シルビオが笑顔を向けるとなれば、リネッタの鼓動も高鳴る。何度もドキドキさせられているような心地がして、前よりもシルビオに対する緊張感が増えた気がした。
少し揺れる馬車の中でそんなことを考えていると、突然大きく揺れてリネッタの体が跳ねた。
同席している騎士たちもこぞって前に乗り出したが、リネッタの体はシルビオによって受け止められた。
抱き止められるような形でリネッタの顔がぼっと赤くなるが、「状況は」というシルビオの声にハッと我に返る。
外から護衛で追従していた騎士が報告にと扉を叩く。シルビオの騎士が開くと、従者は急いで報告した。
「前方にて飛び出してきた女性との衝突未遂がありました。ただ、その女性が……」
報告を聞くや否や、シルビオとリネッタは馬車を降りて前方へ走った。
4人の騎士がローブを羽織っている女性を取り囲んでいる。ぱっと見、身なりは汚れて見窄らしく見えるが、衣服そのものは高貴な身分の女性が纏うものだと瞬時に判断できた。
「殿下、リネッタ様!」
騎士たちが二人に気づき、姿勢を正す。女性の身柄は両サイドについている騎士がゆるく拘束している。女性も、逃げるそぶりはない。
リネッタは女性と真正面に向き合い、そしてその顔を見て、静かに眉間を寄せた。シルビオも女性の姿を見て目を見開く。
「私たち、以前お会いしましたね」
「そうだったかしら……?」
「劇団の裏方にしては綺麗すぎるお方だと思っていたんです」
女性がぴくりと反応し、動きを止める。
「やはり貴女が、ベアトリス様のお母様……ネビア様だったんですね」




