58 協力者たち
目が覚めた時、顔の横にあった右手にはシルビオの左手が繋がれていて、それでいてその向こうに、ベッドに顔を伏せるシルビオの美しい寝顔があったものだから、リネッタは「はひゃ!?」と素っ頓狂な声をあげてしまった。
満足に体を動かせないので、ひとまず首から上をキョロキョロと動かして現状を把握する。
いつもと違う天蓋のベッド、日差しがいつもよりも眩しく近い気がする、そして何よりも、満足に休息することができないであろう座った体勢で眠っているシルビオ。
醒めてきた頭が昨晩のことをリプレイし、リネッタに現状を把握させた。
「そっか、私昨日……」
そしてようやく、自分の体が事件以後極度の緊張状態で強張っていたのだなあ、と実感する。おかげで、全身が想像以上に怠い。指一本動かしたくないくらいだ。
けれど一方で、心はずっと軽くなっていた。たくさん泣いたからだろう。すっかりデトックスされたらしい。
「これぞ浄化の魔法……なんて」
「なんのはなし?」
「!」
寝起きの舌足らずな喋り方でシルビオが顔を上げて言う。乱れた前髪と眩しさに目を細めている様子がリネッタに色っぽく写り、ドキッと胸が高鳴ってしまう。
「ひ、ひとりごと。それよりもシルビオ、体痛くないの?」
「ちょっと痛い……隣で寝てもいい?」
「えっ」
しっかり寝てほしいのに、「いいよ」とも即答できず、とはいえ「ダメ」と言うには可哀想な気もしてしまって、リネッタの言葉が詰まる。
考えているうちに、シルビオが「冗談だよ」と体をぐっと上に伸ばして関節をほぐした。
「リネッタももう少し寝る? それとも起きたいかな。起き上がることはできそう?」
「……起きたいわ。……支えてもらえれば、体も起こせると思う」
「じゃあ、俺が手伝うね。背中に触れるよ」
「はい……」
ベッドと背中の間にシルビオの手が滑り込み、骨ばった大きな手の温もりを感じる。ぐっと少しだけ押されて、リネッタも右腕を支えにして上半身を起こした。起き上がった後に、シルビオが枕の向きを変えて、リネッタの背中にクッションのように立てかける。さりげない気遣いに、リネッタは甘えた。
「ありがとう」
とはにかみながらも礼をすると、シルビオの表情は嬉しそうで、柔らかな微笑みで頷くのだった。
「シルビオは本当に休まなくていいの?」
「次に眠くなったら仮眠をとるよ。それよりも、早くこの事件を解決しないといけないからね」
この事件、というのは……とリネッタが考えながら自分の包帯に巻かれた左腕に目をやると、コンコンコンと扉をノックする音と共に「失礼致します」とカロリーナの声が聞こえてきた。
「おはようございます。お目覚めになったご様子だったので、ご歓談中で恐縮ですがお邪魔いたします」
屋敷ではなく展望テラスの部屋での一泊だったが、リネッタとシルビオの付き人たちは全員部屋の前に揃っていた。王宮勤めはイレギュラーの対処にも早いようだ。当然のことのようにテキパキとカロリーナは業務を始める。看護師を部屋に誘導し、リネッタの手当てと包帯の替える作業を始めた。その間、ベッドの周りには衝立がいつの間にか並べられているので、シルビオに手当てされる様子を見られることはなかった。
ほのかに紅茶の香りがする。いつもリネッタが好む柑橘系のものではなく、少しスパイシーさを含んだ爽快感のある独特な香りに思わずうっとりする。
これは、シルビオが好きな紅茶の香りだ。
衝立の向こうにいるシルビオの存在と、まだ陽が低い位置にいる清々しい乾燥した空気に胸がくすぐられる思いがした。
「傷の部分の他に、痛みはありませんか」
「はい。大丈夫です。ありがとうございます」
「では我々は医務室に戻らせていただきます。不備がありましたら召使をよこしてください。すぐに駆けつけます」
「わかったわ」
看護師たちはすぐさま部屋を出て、衝立も閉じられていた。ベッドの反対側にベルベット素材のワインレッド色のソファが置かれており、そこにシルビオが紅茶を飲みながら新聞を手に真剣な表情をしていた。
リネッタの視線に気づいたシルビオがリネッタを見ると、手にしていたカップと新聞を金枠で彩られた大理石のローテーブルに置いて立ち上がった。
「今日からしばらくここで過ごすといいよ。屋敷に戻りたいなら運ぶけど」
まさかシルビオが、ネルソンのように自分を持ち上げるのだろうか…!? と想像したリネッタは、そこまでの接触の心構えができていないのでブンブンブンと首を大袈裟に横に振った。
「せ、せっかくならここで…」
「……うん、それがいい。それにこの部屋なら俺の部屋とも近いから」
「そういえば、そうね……」
シルビオの視線が、優しく、甘い。
ような気がする。
思わずリネッタはソファ側に控えているカロリーナに視線をやってしまう。助けを求めるような情けなさのあるリネッタの視線にカロリーナが気づくと、無表情のまま親指を立てるサインをしてそこから動かなかった。
グッドサインの意味がわからず困惑するも、シルビオが「それと」と話を続けたので、リネッタはシルビオに向き直った。
「昨日リネッタが言いかけた証言を改めて聞いていいだろうか」
「昨日……あ、マテオにかけられた液体の?」
リネッタの記憶が、優しい思い出よりも前に遡られる。
「そう。遮ってごめんね。明日、閉会の儀について聖堂と話し合う機会があるから、今のうちからその調査もしておこうと思って」
次の年の豊食祭のために、聖堂と儀式の反省点や改善点を話し合う場が設けられている。閉会の儀は、聖堂の領地を借りて行っていることであるから、王族が聖堂に赴いて会議するのが通例である。つまり、聖堂に公的に侵入できる機会とも言える。
「わかったわ。液体について伝えるわね。ゴミを処理するために作った液体凝固剤だった、というのは昨日言ったと思うけど……あれはルナーラ王国の聖堂とソレイユ王国の聖堂でしか使われていないものだったの。一般には普及していないから、手に入れるとしたらどちらかの聖堂から盗まないといけないと聞いたわ」
「その情報はルナーラ王国の聖堂から? リクと連絡を取るには日数が足りていないよね」
「リクに聞けたら手っ取り早かったんだけどね……私の騎士団の方がルナーラの聖堂長さんにお聞きしたの」
「……なら、ひとまずレミー聖堂長は関与していないと思っておいていいのかな」
ぼそっと呟いたシルビオの言葉にリネッタが顔を引き攣らせる。
「そ、そんなとんでもないことを考えては……!」
「聖女の王妃擁立を扇動した首謀者がソレイユ王国の聖堂長だったんだから、警戒するのは当然だよ」
悪びれもなくさらりと言い返せば、リネッタがそれ以上ルナーラ王国聖堂長を疑う件について口を出すこともできなくなった。
「ともかく、リネッタを襲ったコモロ国の傭兵集団を手引きしているのは、ソレイユかルナーラのどちらかの聖職者であることが濃厚だろう。予想できない手段で凝固剤を手に入れた可能性はあるけど……」
「あっ、聖職者と断定できそうな理由は、もう一つあるの」
「なんだって?」
物置のような小さな小屋で男と対峙した時のことを思い出す。
あの時、男の手首には、印章が施されたメダルのついたチェーンが絡みついていた。そしてその印章が示すものは……。
「装飾品が本物だとしたら、私が会った男はソレイユ王国の聖職者で間違いないわ」
そう伝えて、あの日の恐怖がまた甦りそうな心地がした。思い出さないように、とリネッタは眉を顰めて首を軽く振る。
すると、シルビオの手がリネッタの頭に触れた。突然の温もりに思考が止まり、リネッタはシルビオを見上げる。
「ありがとうリネッタ。今まで聞いた男の特徴と今回の証拠を元に、必ず犯人を見つけ出すよ」
シルビオの手は、ゆっくりと、リネッタの頭を撫でている。まるで子供をあやすときのような手つきだ。
なんでもない普段であれば、きっと心臓が激しく動いて顔を真っ赤にしたに違いない。だけど、今はただこの温もりが嬉しくて、何よりも安心できた。だいぶ心が弱っているのだとリネッタは改めて実感してしまう。
シルビオがリネッタの目を見てまっすぐに言い切ってくれるところに、信頼と安堵を覚えて、恐怖が和らいでいくのを感じる。
「今回の事件は公にはなっていないが、現時点において最優先で解決すべき案件であることは改めて知っておいてほしい。王宮のみんながリネッタのために動いている。だから今日は安心して休んで」
「………うん。ありがとう」
シルビオの手が離れるのを、名残惜しいと感じてしまうなんて、贅沢だ。
でもきっと、こんな風に呑気に考えられることが、本当の回復に繋がるのだろう。
昨晩のシルビオの涙を受けたリネッタは、数日間の自分の行動に反省していた。強くあらねばと意固地になりすぎていた。そのせいで体力も気力も削ってしまっていたのだから、怪我人としては不正解の行動だったのだ。
だから、シルビオが止めてくれてよかった。
それに………
「あれ?」
シルビオが出て行った部屋にはリネッタとリネッタ付きの侍女のみになる。筆頭侍女のカロリーナが、リネッタのこぼした疑問の声に視線をやる。
「どうかしました?」
「え、ええっとね……」
カロリーナは昨日のことを知らないはずである。ただ、今日のリネッタとシルビオの空気を見て親指を立てたのだから、それなりに察しているはずでもあるだろう、とリネッタは考えて、簡潔に昨晩のことを説明した。
そこで、リネッタはふと思ったのだ。
「と、隣にいてほしい、って言ってはくれたし、抱きしめて……も、くれたんだけど、でもこれって、す、す、す、好き……ってことなのかしら、それとも普通に人間として、であって、恋愛感情じゃなかったりするのかしら………」
「…………」
色恋に思考を巡らせる余裕ができたのなら回復も早いだろう、とカロリーナは思ったが、口にすることはなかった。
***
「襲撃者たちへの尋問はいつ行う予定になっている?」
着替えを済ませ、王宮の会議室の扉を開けたシルビオは、リネッタ襲撃事件のために集結している要人とその手足となって動く騎士たちの間を歩きながらさっさと話を進める。シルビオの言葉に警備隊の長をしている男が返事をする。
「申し訳ありません! 実は現在、彼らの言語の訛りが強く翻訳者ですら聞き取れない状況でして」
「訛りか……。外務大臣の方の伝手も全滅か?」
リネッタの友人の一人マリーの父親であるクラレンス外務大臣は、シルビオの言葉に対して無念な顔をした。
「誠に申し訳ありません。ネイティブ話者であればもしくは、と思いますが……」
「機密を守りつつ、尋問を行えるだけの条件が揃ったネイティブ話者なんて簡単に見つけることはできないか」
「記録として正確に残せればいいのですが、そもそも識字率の低い国です。翻訳者と協力すれば記録は取れますが、その手間を一から教えなければならないことを考えると時間がかかってしまい、少なくとも今すぐの尋問は難しい、と報告せざるを得ません」
「……わかった。ひとまず尋問者の捜索を第一に動いてくれ。警備は改めて二人が自死を選ばないよう監視を徹底するように。次にディノ、ソレイユ王国からの手紙は」
「まだ来ていません。早くて明日になるかと」
「わかった。届いたらできる限りここで全文を発表するように。次に聖堂への調査についてだが──」
慌ただしく人が動く中、先ほどとは違う、王門の警備兵の制服を着た男がシルビオに近づき、申し訳なさそうに話を遮った。
「殿下、こんなときに申し訳ありません。コモロ国の子供が入場を申し出ているのですが」
「子供?」
「は、はい、王宮に弟がいるから、と申しているセラという名前の少女です」
「セラか。だが今外部の人間を王宮に入れるのは……………」
セラには申し訳ないが別日にしてもらおう、と考えた瞬間だった。シルビオにふと一つの考えが浮かぶ。
「クラレンス外務大臣、貴方か側近どちらでもいい、ついてきてもらえるか」
「承知いたしました。私が行きます。この場は頼んだ」
クラレンス外務大臣が直々にシルビオの後へついていく。
一旦報告は後に、とシルビオが断りを入れれば、一瞥することもなく部屋を出た。
王門警備兵を先頭に、シルビオとクラレンス外務大臣とシルビオ付きの騎士がセラの待つ王門のところまでそそくさと歩く。
王門の内部である小さな部屋にセラは座らされていた。足音に顔を上げると、シルビオの姿を見つけたのでどこか安心したような顔になったが、その後ろに知らない熟年が現れたので再び硬直した。
「セラ、待たせてすまない。こちらは我が国の外務大臣であるホウル・クラレンスだ。少し提案があって同席することを許して欲しい」
「大丈夫。はじめまして、セラです。……あの、ラルには、会えない?」
「あとでラルをこちらによこそう。事情があって外部の人間を王宮に入れることができないんだ」
「そうなのですね」
入れないことに違和感を覚えながらも、セラはラルと会えることにほっとしたようだった。
「ただ、その前にセラに聞きたいことがある。もう一度腰掛けてくれ」
シルビオが、セラの座っていた木製の丸椅子を指差す。セラは言われた通りにそのまま腰をおろした。シルビオとクラレンス外務大臣もセラの対面にある椅子に腰掛けた。
「実はわけあってコモロ語のネイティブ話者を求めている。これから言うことは誰にも喋らないで欲しい。それが約束できるならこの先の話をしよう」
シルビオの口ぶりは少女に対するものではなく、交渉相手にするものだ。クラレンス外務大臣はセラの痩せ細った容姿にかける威圧感ではないと思ってハラハラとその様子を見守るが、セラの表情は怯えることなく、真剣にシルビオを見ていた。
「約束する。シルビオ様のお力になるのなら絶対に守る」
「……ありがとう」
シルビオはリネッタの襲撃事件について簡易的に説明した。
リネッタがコモロ国の傭兵に襲われ、怪我を負った。その襲撃者は既に捕まえているが、彼らを雇った人物の話を聞くには訛りが強すぎる。と。
セラはリネッタに関する衝撃的な事態に顔を青ざめさせた。シルビオが改めてリネッタの容体は安定していると伝えると、ようやく冷静を取り戻した。
そして、怖がりながらも、セラは決断を胸にシルビオに向かって言った。
「その尋問、私がやる。私なら言葉わかる」
しかしシルビオはすぐさま
「それは絶対にダメだ」
と一刀両断した。
「なぜ」
「それはセラが子供だからだ。相手は傭兵、俺たちよりもずっと背も体格も大きい男二人だ。当然セラに害を及ぼすような真似はさせないが、存在だけで君の心に深い傷を残す可能性がある。聞いたことないような汚い言葉を浴びせられるかもしれない。それは大人として許すことはできない」
「……じゃあ、わたし、何すれば」
肩を落としたセラに、クラレンス外務大臣が優しい声色で問う。
「貴女の知り合いに、協力してもらえそうな大人の男性はいるでしょうか。文字を書けるのならばもっと良いのですが、ひとまず、体格が大きく、口が固く約束を守れて、気が強そうで、訛りも聞き取れるような方だとありがたいのですが……」
条件を羅列しながら、クラレンス外務大臣は半ば諦めた声色になっていた。せめて訛りが聞き取れて口の固い男であれば……と願う中、セラの表情が変わった。
「いる。文字書ける。大きい男の人、その人、ルナーラ王国の人に恩がある」
シルビオとクラレンス外務大臣が光明だと言わんばかりに高揚する。
「その人は今難民地域にいるのか?」
「今ちょうどそこの街にいる! わたしとラルの遠い親戚、ホゴシャをやってくれているからここまで連れてきてくれた。ここに呼ぶ?」
「頼んだ」
セラは頷き、急いで王門を出る。シルビオが護衛にと自身の背後に控える騎士の一人に声をかけて追いかけさせた。
数分待った後、セラは宣言通りの体格の良い男性を連れてきた。顔に大きな傷を持ち、黒い肌にピンクに浮かぶ一本線を見たクラレンス外務大臣が「これで口が固ければ完璧では」とシルビオに耳打ちをするのだった。




