57 失いたくない
「シルビオが閉会の儀に行かないなんて……そ、それは何の意味もないじゃない! 私の目的は襲撃犯の主犯を探すことで……」
「俺の目的はリネッタを休ませて1日でも早く回復してもらうことだ」
「だっ……からって……」
「リネッタが証言した特徴を全騎士や警備兵たちに叩き込んであるから、その捜索に関しても全力で行わせると約束する。むしろリネッタが勝手に動き回らないかの方が俺は心配なんだ」
「シルビオが不在だと国民も不審がるわ」
「たまには不参加でもいいだろう。父上と母上がうまいこと言ってくれるよ。それに今日の主役はランタンを流す人々であって俺たちじゃない。これでもうリネッタの心配事はない?」
「………そう言われたら……」
「閉会の儀は、展望テラスの方で一緒に見守ろう。最近眠れていないって聞いたし、なんなら寝てもいい」
それはもったいない、とリネッタが首を振ったので、シルビオが小さく笑った。
時間も押しているので、両陛下とディノは馬車に乗せられて聖堂の方に向かう。リネッタとシルビオがそれを見送り、二人とリネッタの騎士たちだけが残る形になると、いつもと違う空気にリネッタが少しだけ特別感を抱いた。
ネルソンに「失礼致します」と言われたリネッタは横抱きに抱えられ、シルビオが先ほど言った展望テラスの方まで運ばれる。何十段ともなる階段を登れる足にまでまだ回復していないリネッタを、揺らさないよう丁寧に歩く。シルビオも二人の様子を気にかけながら先導した。
先程のやりとりを伝えられていた使用人たちは、既に二人がゆっくり過ごせる用意を済ませており、たどり着いた時には部屋から紅茶の優しい香りが漂った。
ネルソンがゆっくりとリネッタを床に立たせる時、リネッタが「あ」とネルソンの胸元を見て気まずそうに声を上げる。
「ごめんなさい、血が……」
「このくらいすぐ洗えば落ちます。それよりもリネッタ様の包帯を変えなければ」
固定された左腕の傷が少し開いてしまったらしく、ネルソンの白いシャツに染みができていた。
しばらくして看護師がリネッタの腕を再固定するために3人がかりで手当し、その間シルビオは部屋の外で腕を組んで待機した。
「ネルソン、下の階に休憩中の騎士が数名いる。だからこの場を離れても大丈夫だよ」
「しかし……」
「休めというのも無理な話か。ともあれ、そのシャツを着替えてくるといいよ。それを洗濯するカロリーナのことも考えてあげて」
「……承知いたしました。すぐに戻ります」
ネルソンが急いで階段を降りる音と同時に、扉が開かれて看護師たちが「お待たせいたしました」とシルビオに礼をする。シルビオも「ありがとう」と声をかければ、そのまま入れ替わるように入室した。
リネッタは巻き直された包帯を抱えるように右手でさすりながら、テラスの方まで出ていた。
今日は天気が良い夜だった。空気も乾いていて、遠くの方まで見える。テラスの景色の中にはちょうど聖堂が含まれるので、聖堂近くがぽわっと明るいのもよく見えた。
綺麗だね、とシルビオが声をかけようとした時、リネッタが先んじて口を開いた。
「マテオに投げられた液体の正体ね、聖堂がゴミを処理するために作ったという液体凝固剤だったの」
事務的に情報を羅列するリネッタに、シルビオの表情が暗くなる。
「いつの間にそんなことまで調べたの?」
「聞き込みのお願いをしただけよ。私自身は……マテオに話を聞きに行くくらいで動いていないわ。それよりも、聖堂のアイテムが使われていたことなんだけど……」
「どうして自分から動くんだ」
報告を遮られたことに驚き、リネッタは少しだけ目を丸くしながら続ける。
「その方が効率的だっただけよ。無理はしてないんだから大丈夫」
だから安心して、と言わんばかりに優しい微笑みを向けるリネッタに、シルビオの表情が晴れることはない。
少し気まずい空気を感じたリネッタが視線を下げると、視界の端に光を見た。顔を上げて景色に目を向ければ、どうやら閉会の儀が始まってランタンが灯火されたようだ。距離はあるが、ランタンが下流河川に流れていく様子は光の動きから追うことができる。
「綺麗ね」
純粋に呟かれた言葉が、静かな夜に溶けていく。
久しぶりに、心を落ち着かせて美しい光景を堪能できていることにリネッタが気づく。
感動で微笑んでいた口角が緩み、息が漏れるのと同時に胸が撫で下ろされた感覚がした。
テラスの先にもう一歩、と歩みを進める。どうせならもう少しだけでも近くで見れたら、そんな軽い気持ちだった。円弧に沿った石造りの手摺りに、包帯に当てていた右手が触れようとした時だった。
「行かないでくれ、リネッタ」
「……!」
背後から、シルビオがリネッタを抱きしめる。
思わぬ抱擁に驚き心臓が跳ねたリネッタは、空気を飲んだ。
「シルビオ、ど、どうしたの……?」
そしてだんだん、この密着度に別の緊張を覚える。シルビオの腕は強く、しかしリネッタの傷を刺激しないように優しく包み込んでいた。こんな接触は初めてだ。あの日、夕焼けが印象的な渡り廊下で手を繋いだときが二人にとって一番近い距離だったのに。ぐるぐると、リネッタの思考が慌てふためく。
けれども、パニックで脳内大騒ぎなリネッタとは裏腹に、シルビオの腕は何かを怖がるように震えていることに気づいた。
「シルビオ……?」
振り返りたくても、体を動かせない。シルビオの表情がわからず、リネッタは戸惑う。
「ねえ、どうしたの……?」
だんだんと不安が広がる。
リネッタの右手が震えるシルビオの腕に触れると、抱きしめる力が少し強まった気がした。
「俺がどんなに不安だったかわかる?」
ようやく口を開いたシルビオの声は低くか細い。
「不安…?」
とリネッタが問い返すと「そうだ」と言ってようやく腕の力が緩む。リネッタが体を捻ってシルビオと向き合えば、見上げたシルビオの表情は弱々しく、今にも泣きそうだった。
「ど、どうしたの…!? なんでそんな……」
「リネッタがいなくなってしまうんじゃないかと思ったら、恐怖で狂ってしまいそうだった」
リネッタの心配の声を遮るように、淡々とシルビオが言う。
「今でもリネッタが刃に貫かれる夢をみる。恐ろしくて目が醒める。なのに現実のリネッタはまるで何も無かったことのように振る舞う。最初は元気でよかったと思った。でも違うんだ、リネッタは……君は、本当はまだ、頑張らなくていいんだ」
リネッタの右手を、シルビオの左手がぎゅっと握る。痛いくらいに。でも、痛いのはシルビオのほうなのかもしれない、とリネッタが考えてしまうくらいに、シルビオは悲痛な面持ちで言葉を続ける。リネッタは黙って、それを聞くことしかできない。
「このままだと本当に危険な目に遭っていなくなってしまいそうだ。俺はそれが怖くて仕方がない。止まってじっとしていろとは言わない。けれどせめて、怖かったって泣いてくれ」
真正面からリネッタと視線を合わせたシルビオの瞳から、一筋の涙が伝う。
「リネッタ、お願い。一人で頑張りすぎないで。先に行かないでくれ。俺の隣で一緒にいてくれ。こんなことになって、初めて気づいたんだ」
掴んでいたリネッタの右手を優しく引っ張り、もう一度自分の腕にリネッタを閉じ込める。
「リネッタじゃないとダメなんだ。俺の隣に君がいないなんて考えられないんだ。だから、辛かったときは辛かったと言って泣いてほしい」
背中に回ったシルビオの左手は、そのままリネッタの頭に優しくそえられる。
手のひらのぬくもりを感じたリネッタは、シルビオでいっぱいの視界が涙で滲んでいくのを客観的に観測している。
「あれ……?」
戸惑うように声が漏れると、その声色も震えている。
はぁっと大きく息を吸うと、心臓の鼓動が早まり、包帯に包まれた左腕の痛みを強烈に感じた。
フラッシュバックされる熱い痛み、転がった刃を見た瞬間に全身が冷えた感覚、それらが一気に押し寄せてきた気がして、シルビオの胸元に縋るようにして頭を押し込める。
「ああっ、ああ……っ!」
恐怖が今になってようやく全身に巡る。栓が切れたようにボロボロと粒のような涙が流れていく。
「怖かった! 怖かったの、も、もう、ここで私死んじゃうんじゃないかって、思って…!」
「うん、そうだったよね。君を助けられて本当に良かった」
「ううっ、うああ、あああっ……い、痛かったの、足も、腕も、一人で…! もうこのまま、シルビオに会えなくなったらどうしようって、私も思ったの…!!」
「うん。…………うん……。リネッタ、俺はここにいるよ」
シルビオの腕の力が強まる。リネッタの泣き声はシルビオの体に取り込まれるように、くぐもった音になる。
リネッタの自由な右手が、シルビオの背に回され、ぎゅっと力強く服に皺を作った。
わんわんと泣いて震えるリネッタの背を、シルビオは何度も何度も優しく撫でた。そしてその表情は、先ほどまでよりもずっと安心して、愛しさを噛み締めるようなものだった。
リネッタが落ち着いた頃には、すっかりランタンの光は無くなっていた。
夜風が冷たいはずだったのに、リネッタはその冷たさを知ることはなかった。
泣きすぎて頭がぼーっとした、その直後、日々の疲労と安心感で、ようやくリネッタは事件以後精神的にも安心できる睡眠を取ることができたのだった。
そんなリネッタに、シルビオは朝まで付き添っていた。




