52 尻尾
「シルビオのお母様、それはあの、どういう………」
たじたじになるベアトリスは、シルビオから手を離して後退りした。ルシアのオーラに気押されているようだ。リネッタをはじめとして、リクとトールも冷や汗を垂らしながらルシアの続く言葉を固唾を飲んで待った。
渦中のルシアは飄々としつつもたおやかで、しかし侮れない。ただそこに立っているだけで存在感がある。先ほどまで黙って控えていた人とは思えない。
いや、きっとあえて、後ろに控えてその場を静観していたのだろう。存在感すら操作できてしまうルシアに改めてリネッタは畏怖の念を抱いた。
「ベアトリスさんは私の普段の生活をどれくらいご存知かしら。そうだわ、丸バツクイズでもしましょうか。それじゃあ一つ目ね」
有無を言わさぬ言葉の羅列にベアトリスが呆気に取られている間、ルシアが無邪気にぴんと人差し指を伸ばす。
「私はお仕事や社交界の予定でいっぱいなので、プライベートな時間はあまり持てていない。さて丸バツどっち?」
私のお仕事って、そんなに簡単そうに見える? と言い放ったルシアが出した問題なのだから、とベアトリスは裏を読んで
「それは、当然丸ですわ。王妃という立場は時には王様の代理なのだからお忙しくて当然です」
と答える。だがしかし。
「答えはバツです」
と、ベアトリスの答えから間もなくルシアは言った。
「暇だと言いたいわけじゃないのよ。ちょっと意地悪な問題だったかしら、私さっきあんなことを言ってしまったものね」
「………」
「あくまで私の話だけど、プライベートな時間は必ず確保するようにしているの。お仕事は大事だけれど、家族との交流、お友達との交流、旅行、あとお勉強の時間が私にはたくさん必要だし、それに、貴女の言う通りアレハンドロの代理として動かなくちゃいけない時もあるわ。そんな時に私自身の予定が詰まっていたら対応できないでしょう。だから、予定を詰めすぎないように気をつかっているの」
「ま、間違えてしまって、ごめんなさい……」
この世の終わりかのように青ざめるベアトリスだが、ルシアはコロコロと笑って「いいのよ」と慰める。
「ベアトリスさんは私の日常を知らなくて当然だもの。だって、聖女様ですから」
「え……?」
ルシアが一歩近づき、同時にシルビオがその場から身を引く。ルシアとベアトリスが完全に対面する形になる。
下がったシルビオのそばにリネッタとホセが少し近寄って、二人の様子を窺う。リクとトールも、その場を動けずにただ見守っている。
「聖女様は聖女様でお忙しい身でしょう。王宮の人間が何をしているか、どんなタイミングで私がプライベートから仕事に切り替えているのか、そんなこと把握している暇があったら、一箇所でも多くの場所に赴いて浄化をするべきだと私は考えています」
「……」
現時点でそれを成し遂げられていないことを後ろめたく思うベアトリスは、唇を噛んで視線を落とした。
「力があったとて、聖女様のお仕事って本当に大変でしょう? 私には想像できないわ。私も各地に視察で赴くことがあるけれど、聖女様は現地の人たちとの交流や現状把握をした上で、魔法の力で解決しなくてはいけないことも多いのですから。そうですよね?」
「は、はい」
「もしベアトリスさんが王妃になったら、そんなとってもお忙しい業務に、私の仕事が加わってしまうのよ。プライベートの確保なんて無理でしょうし、そもそも私のしているお仕事も完遂できるかわからないわよね。だって聖女様のお仕事で予定がいっぱいになるんですから」
「……!」
「何より」
ルシアは自らが持つ扇の先で、下を向くベアトリスの顎を押し上げて、正面を向かせた。強引なほどのやり方に、全員の心臓がドキリと跳ねる。
「国の母となる人物として礼儀作法がなっていないことが、一番問題なのです」
その声は今までで一番迫力があった。
「悲しい過去があって教育を受けられなかったことは確かに不憫なことです。もちろんそこは皆が考慮するでしょう。けれどベアトリスさん、貴女はこちらにきて何日が経過しました? 力を失った時、貴女は何をしました? お忙しいはずの聖女業もお休みでしたよね? 私ですら、今も他国のマナーや文化を知るための勉強時間を設けなければ失礼に当たると考えています。他国だけでなく、今のルナーラ王国の流行や新しい文化を知ることは必須です。時間はいくらあっても足りません。仕事の他に、そういった自らの行動を決める自由な時間がなければ支障をきたすのです。今のご自分の役割とやるべきことも成し遂げられないというのに、貴女に王妃の立場を兼任する余裕はあるのですか?」
「あっ………」
ベアトリスの瞳にうっすらと涙が浮かぶ。
ルシアがわざわざ聖女ではなくベアトリスさん、と呼ぶ理由は、この叱咤をするためだったのか、と今更ながらリネッタは気づいた。
そしてリネッタは、洗礼式の時にアレハンドロ王がベアトリスに対して危惧していたことをリネッタにそれとなく相談していた時のことを思い出した。
───「これから彼女は、国の水質管理と各国の聖堂との外交で忙しくなるだろう」
───「しかし彼女は長い時間外国の厳しい環境で過ごしてきた。それがこれからの彼女を苦しめるかもしれない」
王妃ルシアは、今直接、ベアトリスにそれを告げているのだ。
扇がようやく下ろされれば、ベアトリスは怯えた瞳のままルシアから視線を逸らさず持ち堪えるように意識して肩に力を入れた。顔を上げているにも関わらず、先ほどまでの自信が消えてしまい、小さく見えてしまう。
「ベアトリスさん、貴女の言葉は全て、貴女一人の都合でしかありません。国民のためと言い張っていましたが、貴女一人の主張のために隠れ蓑として使わないでくださいませ」
ルシアの表情には、仮面のような笑顔すらない。
「自らの立場を理解し、行動の全てを自分で考えられない人が、多くの国民の上に立つなどあってはならないのです。少なくとも今のままでは、たとえシルビオが貴女を愛しているからと婚約者に押し上げても、私は許しはしないでしょう」
「そんな……っ」
「聖女の力が戻った理由も満足に把握できない視野の狭さは、正直聖女としても不安を覚えるほどです。肩書きだけで何者かになった気分になっても、行動をしなければ結果として表れないのです。それはもう、貴女自身も………そして、国民も、理解し始めているでしょう」
「!」
ベアトリスがルナーラ王国に来て、もうすぐで4ヶ月。初めは20年来の聖女の帰還に国は盛り上がった。両陛下ももちろん、ただひたすらに安心していた。
最初の一月は華々しい洗礼式も終えて、各地の浄化に巡るベアトリスの活躍は瞬く間に美談として国中を勇気づけた。
だが、それだけだった。
ベアトリスは、ただ言われた通り力を行使するだけでよかったのだから、当然それ以上をする気持ちが起きなかった。そもそも聖女という業務に慣れなかったのも一つの要因だろう。
そして……力を失ったベアトリスは、何もしなかった。それが事実だった。
「立場に甘えず、聖女であるご自分を理解して振る舞えていたのなら、私もこんなことは言いません」
「……!!」
リネッタが禁書庫に赴いて聖女の成り立ちを調べた日のことだ。
海岸で黄昏るベアトリスに、リネッタは同じようなことを言った。その日はただ言い合いになって終わってしまい、リネッタも反省したのを覚えている。
そしてベアトリスも、その日のことを思い出していた。リネッタに言われた言葉が深く突き刺さり、混沌とした気分になったのを覚えている。目の前にいる大好きな人の母親という立場から、改めて同じことを突きつけられて、再び胸が締め付けられる思いだった。
そして気づく。
ああ、この気持ちは……痛いところを突かれた時の息苦しさだったのだ、と。
ベアトリスの表情がそれを物語っているのを見たリネッタもまた、不甲斐ない気持ちだった。
自分の言葉では、ベアトリスに何も届けることができなかったのだと思い知らされたからだ。
同じ言葉同じ内容でも、言う人が変われば説得力に大きな変化が出る。そしてその言葉が与える影響の大きさもだ。例えば、ホセとシルビオ、それぞれに「リネッタはすごい」と言われても、リネッタにより響くのはどちらかと言われたら明白なことだ。それと同じこと。分かりきってはいるが、自分の立場と威厳のなさを思い知って思わずため息が漏れた。
しん、と静まり返る。広い謁見の間の空気がいっそう下がった心地がした。
「………ならば」
弱々しい声でベアトリスが言う。
「私が、確実な成果を挙げれば、認めていただけますか……?」
「………」
普段穏やかなルシアも、さすがに呆れ顔で押し黙ってしまう。ベアトリスは虚な瞳のまま続ける。
「難民地域の、完全浄化をします。私だけの力で、成し遂げられたら、今度こそみんな喜びますよね…? 汚染水による病気も、水が浄化すればきっと収まります。そうですよね? 私、宣言します」
「宣言って、ベアトリスさん、そんな無責任な……」
「でもこうでもしないと、私の存在証明ができないじゃないですか! それに私ならやれます、事実こうして力を取り戻したんですから! 難民地域の完全浄化を完遂させます!」
なりふり構っていられないのか、荒々しく声を上げるベアトリス。声は高い天井に響き、より悲痛なものに聞こえた。
「母上、さすがに追い詰めすぎです」
みかねたシルビオがルシアを嗜めるように言う。ルシアも複雑な表情になり、扇を開いて口元を隠した。
気まずい空気でその場は一旦お開きになる。そう思えた時だった。
「困りますよぉ!!」
謁見の間の扉が無作法に開かれ、苛立ちを隠せない男性が割り込んでくる。
招かざる客を捉えた、リクとトールの目が見開かれた。
その扉から現れたのはまさにソレイユ王国の聖堂長バックスと、彼と共に浄化依頼へやってきた四人の聖職者たちだったからだ。
「聖女様のお力が戻ったと聞いて急いでやってきたのに、難民地域の完全浄化ですと? こちらの約束が先でしょう! あんたが力を使ってくれないとこちらも交渉ができないんだよ!!」
「ひっ」
バックスはベアトリスを責め立てながらズカズカと詰め寄り、ベアトリスの腕を掴もうとした。
が、バックスの手はベアトリスに触れることなく止まる。
「交渉、というのは何のお話でしょうか。聖堂長」
バックスの動きを止めた人物を見たリネッタとリクが同時に名前を呼んだ。
「ディノ!」
「ディノ兄様……!」
「な、なあ…!? ディノ王太子、な、なぜここに……!?」
ディノがバックスの腕を離し、姿勢を正す。ルシア王妃とシルビオの方を向いて、肩にかけられたマントが揺れる。
「いいタイミングで登場できて嬉しいな。皆様お久しぶりです。ディノ・マレ・ソレイユがご挨拶申し上げます」
見惚れるほどに洗練された挨拶を終え、顔上げたディノは、次に怯えて青ざめているソレイユ王国聖堂の聖職者たちを見た。聖職者たちはこの場から逃げようとしたが、ディノの従者である騎士たちが扉を背に仁王立ちしているので許されなかった。
「どうやら、答え合わせの時間のようですね」
そう言って笑うディノはどこか楽しげにも見えた。




