48 無意味な嫉妬
「それでは本日もよろしくお願いいたしますね、ベアトリス様」
リクとトールが聖職者の証である白いローブを羽織り、扉を開けたベアトリスに対して形式ばった礼をした。
気乗りしない怪訝な表情ながら、ベアトリスも
「どうぞ、本日もお願いいたします」
と同じく礼をする。そして二人を自室に招き入れて、扉が再び閉められた。
ベアトリスの力が失われて早二月。報道によって人の目をより一層恐れるようになったベアトリスが外に出ることは無く、シルビオの訪問に癒しを求めつつも虚無感を抱いていた時だった。
何もしないのは無意味であること、そして何より、ベアトリスの力を取り戻すためにリネッタやシルビオが中心になって活動しているにも関わらず、当の本人であるベアトリスが行動に移さないことに、リクは強い疑念を持った。
そこでルナーラ国王アレハンドロに提言したのが、「ベアトリスの魔力を強化する手伝いを自分にやらせてほしい」というものであった。
「聖女としての魔力を持つのであれば、一般的に我々聖職者が扱う魔力も、使い方を知れば扱えるようになると考えています。歴代の聖女様が浄化の力以外に力を行使したという記録は無いようですが、試してみたいのです」
ソレイユ王国の聖堂長を中心とした一部の反対勢力の足取りのためのルナーラ王国訪問であったが、ベアトリスの力が失われて以降、彼らも大きな動きを見せることなく静観しているようだった。
おかげで休暇返上で後を追っているリクとトールは手持ち無沙汰で仕方がない。リクは自国のために役に立ちたかった。それが自分の使命であると確信しているからだ。
「僕を聖女様の元に頻繁に通わせることで、ソレイユ聖堂長バックスへの牽制にもなります。その役割は自分たちのものだ、と憤慨するかもしれませんし……なんにせよ、何かしらの行動をとってくる可能性があります。何もなくとも、本来の目的である聖女様の魔力訓練はこなせますし」
「なるほどな」
アレハンドロはリクの言葉を噛み砕き、反芻してしばらくした後
「リクの言う通りにしよう」
と答えを出した。
リクは唇に弧を描き気を引き締める。しかし一歩下がって控えていた従者のトールが、複雑そうな表情で問うた。
「あの……リク様が動くのはいいとしても、相手は聖女様ですよね。いきなり個人授業レベルの接触にリク様というのは、聖女様よりも年下ですし……その、職権濫用というか、コネ採用というか……」
王に意見することに慣れていないからかしどろもどろにトールが言う。しかし、アレハンドロは、わっはっはと豪快に笑った。二人は目を丸くして笑うアレハンドロを見る。
「身内贔屓、上等じゃないか。そもそもこれを許しているのも単にそなたたちがソレイユ王国の王族および関係者だからというわけではない。リネッタの親族および関係者だからだ」
「……!」
「この提案に乗った理由が一朝一夕のものではないことを努努忘れるな」
「はい」
リクとトールの返事が重なる。一瞬にして緊張感を取り戻し、背筋が伸びた。
ベアトリスが浄化の力を取り戻すほどの成果はなくとも、せめて聖職者としての活動ができるくらいには魔力を操作できるようにしたい。それがリクの目標であった。
「本日はレベルを一段階上げてみましょう。オリーブの木への祈祷です」
「祈祷? まだ魔力は使わないの…?」
「祈祷にも魔力が必要ですよ。聖職者の持つ魔力が込められた祈りがこの木に宿るのですから」
リクがそう言ってテーブルに置いたのは二つの小さいオリーブの苗木である。リクが苗の前で両指を絡めるようにして握る。深く深呼吸をして、ゆっくりと瞼を下ろし、声にならない空気を紡ぐように唇が動く。すると彼の祈りの手を通してその言葉が光り輝くように可視化された。言葉が綴られるのではなく、小さな煌めきが灯るような光景だ。ベアトリスはその光に既視感があった。小さい頃ルナーラ王国の部屋の窓から、夜に浮かぶこの光を眺めていた記憶が蘇った。
その光はオリーブの苗木に降り注ぎ、全てが吸収されたかと思えば苗木が内側からほのかに光出した。部屋が明るいので些細な変化だが、不可思議な光景にベアトリスは釘付けになった。
「ベアトリス様、葉っぱにやさしく触れてみてください」
リクが促したので、ベアトリスは恐る恐る自分に一番近い場所にある葉を人差し指と親指でつまむようにして触れた。
「……暖かい……」
「祈りが行き渡った証です。僕の言葉が光になったのも見えましたか?」
「ええ」
「ではやはり魔力は十分にあるようですね。魔力を持たない人であればこの温度の変化しか差を感じられないんです」
「そうなのね。だからお父様に聞いてもわからなかったのね」
「? お父様…?」
「なんでもないですわ」
「……そうですか。では早速ベアトリス様にも実践していただきましょう。作法は難しくありませんが、感覚を掴むのに時間がかかるかもしれません。ですがこれが短時間でできるようになれば他の魔法の使い方もすぐにマスターできますから」
「はい」
リクはまず、ベアトリスの姿勢を正す。少しの歪みも許されないためシビアにチェックする。次に呼吸を落ち着かせた。気を乱してはいけないからだ。
「我々が一番大切にすべきことは胆力です。どのような場面でも冷静を取り戻す術を必要とします。そして集中力です。誰が何を言おうと目の前のものに意識を向け続けることです」
「……」
リクの言葉を受けながら、ベアトリスは必死に落ち着こうと考えた。しかし当然ながらそれではうまくいかない。
「ベアトリス様、焦らないでください」
リクもトールもベアトリスの呼吸から感情の乱れや焦りを悟る。けれど、当のベアトリスははやる気持ちが拍車をかけて、より一層集中が乱れてしまった。
息が苦しくなる、頭がぐるぐるして心臓の音がうるさい。
「──ハッ…!」
「ベアトリス様! 一度眼を閉じてください、大きく息を吸って!」
過呼吸になりかけたベアトリスを、リクとトールが慌てて支えた。
「今日は難しいかもしれませんね、ゆっくり体をお休めください」
リクがベッドに腰掛けるベアトリスに視線を合わせて微笑んだ。ベアトリスの顔色はだいぶマシになったものの疲労が見える。リクの言葉に合わせてトールは机の上に置いてあるオリーブの苗木を片付け始めた。ベアトリスはリク越しにその様子をぼんやりと眺めた。
「あなたたちもリネッタさんの国の人なんでしょう?」
「はい、そうですよ。僕はリネッタ姉様の2番目の弟です。あれ、伝えていませんでしたか……?」
「ソレイユの聖職者という情報しか自己紹介で言ってませんね」
トールの補足に、リクがうっかりした、と目を丸くした。
「リネッタさんの弟なんですね。……兄弟が、多いんですね」
ベアトリスの声色が暗くなり、リクとトールの視線が再びベアトリスに向けられる。
部屋にベアトリスの母親であるネビアの痕跡は一切なくなってしまった。広い部屋にはベアトリス一人分の生活感のみが残されている。リクもトールもネビアの存在は知れど、ベアトリスとの親子関係を目の当たりにしたことはない。だが、部屋の空気が乾いているように感じるのは、ベアトリスの心の侘しさの表れのように思えた。
「いいですよね、リネッタさんは。きっと今まで何かを失ったことがないんでしょうね。恵まれた血筋で、シルビオとの縁もできて、ずっと輝いてるじゃないですか」
ベアトリスは丁寧に語っていても、その言葉に棘が含まれていることを隠そうとはしない。
「私は親戚に追いやられて、家を失って、国を出て、お父様も亡くして、お母様も出て行って、大好きな人との約束も塗り替えられて、挙げ句の果てにこんなザマ」
浄化の力を失った自分の手のひらを握りしめる。
「リネッタさんばかり人気者でずるい。能天気なままでなんでもうまくいく環境にいることに気づきもしないで、私を見る目だけは厳しくて、こっちの気も知らないで無責任なことを言って……」
魔力操作の影響か、心身の乱れが酷いことをベアトリスはうっすら自覚しながらも、リネッタへの嫌な気持ちを思い出したら堰き止めることができなくなった。
「リネッタさんはずるい、勝手に好かれてるだけ。私は何もしてないのに失望されて、こんなに苦しんでるのに。シルビオだってわかってない…!」
ドンッ。
トールが手に持っていた苗木の鉢をやや乱暴に机に置いた。大きな音でベアトリスの言葉がぴたりと止まり、怯えるようなベアトリスの視線をトールが捉える。
「勝手に好かれる、というよりも、悪く言う理由がないんですよ」
トールの言葉は平坦で、責めるわけでも嗜めるわけでもないようだった。普通に会話をするようなトーンで、思わずベアトリスは呆気に取られてしまう。
「貴女も外に出て同じ活動をすれば向けられる視線の質も変わるんじゃないですかね。リネッタ様がやっていることをなぞってもいないのに羨むべきじゃないでしょう」
「…………」
わかっていることだった。
トールに改めて言葉にされて、ベアトリスは体がカッと熱くなるのを感じた。
「っていうか弟の前で身内の愚痴って……」
「あっ……」
トールの呆れ声に、ようやくベアトリスはリクの方を向いた。リクは無表情にベアトリスを見下ろしていた。
「……魔力操作で感情の乱れが起きるのはよくあることです。酒に酔って本音が出るのと似ていると言われますね。僕はまだ酒が飲めませんが」
先ほどよりもずっと冷ややかな声に、ベアトリスは肩を縮こまらせる。リクから視線を逸らして俯いた。
「ベアトリス様」
しかしリクが再びしゃがみ込み、ベアトリスの表情を覗き込むようにして強制的に視線を合わせられた。
「僕の大切な人を侮辱しないでください」
わかりやすい憤りの表情ではないにしろ、リクの瞳に怒りが孕んでいることは明白だった。
「ごめんなさい……」
ベアトリスもリクの表情と言葉に深く反省し、心から謝罪の言葉を絞り出した。リクから視線を逸らせず、泣きそうなくらい申し訳なさで胸が詰まる。その考えすら傲慢であるということをわかりつつも、先ほどまでの燃える炎のような悪感情に戸惑い、困惑していた。
しばらくの沈黙の後、リクは少しだけ肩の力を抜いた。纏う空気が和らぐ。
「では僕らは帰ります。次回は予定通り二日後にしますね」
業務連絡をするリクの声色はすっかり穏やかで、口元に笑みすら宿っている。
「ベアトリス様、初めての祈祷にも関わらず、こうして心身の乱れが起きるのは良いことでもあるんです。好転反応とでも言いますか、普通は何週間かかけてやっと出る症状なんです」
部屋の扉を開き、リクは振り返ってベアトリスに微笑む。その顔は先ほどまでの怒りは微塵もなく、ベアトリスを安心させるためだけに向けられたものだ。
「ベアトリス様は優秀な聖職者の素質があります。どうか自信を持ってください。お邪魔しました」
扉は閉じられ、部屋にベアトリス一人残される。
ホールに響くリクとトールの足音がすっかり消え去れば、何もない静寂が部屋を支配した。
「………」
リクが、リネッタを侮辱するなと言った、あの瞳をベアトリスは思い返していた。
あの瞳には覚えがあった。
「シルビオも、私に怒っていたのね」
大切な人を貶したから。
***
難民地域のゴミは見違えるほどに減った。川の汚染は根が深いので完全な回復には至らないが、難民者たちも気を遣って利用するようになったので悪化することもなかった。
地域の清掃活動にリネッタはもちろん、シルビオも折を見て直接訪れる。
そんな今日はリネッタとシルビオ両名が現地に来た日だった。本日の目的は周辺の森の探索である。
「リネッタさま〜こっちこっち」
「あぁ、待ってください! 本当、みんな元気……」
コモロ国の子供達は清掃活動の参加者との交流もあって、この二月ですっかり言語を使いこなして喋るようになった。一部の大人も言葉を学びつつあり、前よりも意思疎通が容易になっている。作業効率も上がり、環境の劇的な変化をもたらしたのは、そうした難民者たちの努力あってのものだった。
子供達はリネッタとシルビオによく懐いている。今日もこうして無邪気に二人を先導して森の中をどんどんと歩いていく。身軽で地の利がある分リネッタたちを置いていく勢いだ。
「もうちょっと森歩きに特化した靴開発されないかなあ……って、うわ、わわ」
「リネッタ!」
濡れた落ち葉に足を滑らせて後ろに倒れそうになったリネッタを、シルビオが片腕で抱える。リネッタが体勢を戻せばすぐにその腕は離れたが、「怪我はない?」と足元を確認してくれる。
「大丈夫、ありがとう」
「よかったら俺に掴まって」
「え」
シルビオがリネッタに左手を差し出す。エスコートされる前のポーズにも見えて、鬱蒼とした森の中にも関わらず花が咲いたかのようにリネッタは一瞬錯覚した。
「じゃ、じゃあ、遠慮なく…」
「うん」
リネッタの右手が重ねられ、シルビオはしっかりとその手を握る。体重をかけてもシルビオの体幹がしっかりしているおかげでビクともしない。
シルビオの頼り甲斐と、触れている部分の熱でリネッタの鼓動が早まる。少しだけ前を歩くシルビオの横顔を盗み見ては、胸がきゅーっとなる思いだった。
(役得だわ。でも、この優しさが本当に好き。ふとした時に好きだなって実感してしまう)
シルビオへの想いはこうして、今までもこれからも不定期に更新されていくのだろう、とリネッタは考えてしまった。
そうした脳内パーティーを繰り広げて、足取りも軽くなっていくと、前方を探索していた子供達のうち一人が「あーー!」と歓喜の声を上げる。
「リネッタさまシルビオさま、早くこっちきて!!」
何事かと二人で急いで向かえば、子供達は目の前の黒い岩肌を指さしていた。
リネッタとシルビオが近づいてみれば、二人同時に「あ」と声が出る。
岩肌には透明な水が流れていた。
「……すごい! みんなお手柄です!」
「やった〜!」
「これ飲めるかな!?」
難民地域の周辺探索の目的は、まさに、目の前に流れる水であった。
これまで使用していた川は、汚染によって飲料水としての役割を失った。問題発見から現在までは水の利用方法の徹底と清掃のために森の恩恵をあえて避け、近隣地区の井戸水を運び入れることで補っていた。
難民者たちの意識も変わり、これ以上環境を破壊することもないという確信を得られた今、綺麗な湧き水の存在は天の恵みにも思えた。
シルビオが持っていた荷物の中から、聖堂で開発された試験紙を取り出す。飲める水か確認するためのものだ。地面に近い場所で流れる水に紙を少しだけ浸す。すると、じわじわと紙の色が白から青に変わった。
飲める水であるという結果だった。
「急ぎここを保護するように。他に湧き水がないか徹底して調査も頼む」
「かしこまりました」
シルビオが背後に控えている騎士と、帯同していた環境省の役員に命令する。人々が森に入り最低限の護衛のみになると、再びリネッタと子供達の元に戻った。
「いいですか皆さん。この水は絶対絶対大切に、美しく使うんですよ。使う分量も大切に守って、汚さないように周りに気を遣うこと」
「はーーい」
まるで先生と生徒のような構図に、微笑ましさを感じてシルビオが思わず笑ってしまう。
「シルビオさまもうれしい?」
と少女が尋ねるので、シルビオは彼女の身長に合わせるようにしゃがんでから「嬉しいよ」と答える。少女はシルビオの眩しさに面映くなって、えへへぇと情けない声が出る。そんな少女が再びリネッタの方を向けば、「あ」と何かに気づいたように声を上げる。シルビオも少女につられて、リネッタの方を見た。
「───……」
リネッタは誰に何を言われるまでもなく、静かに岩肌に祈りを捧げているようだった。
瞳を伏せ、両手を胸の前に組み、ただ、静謐に。
木々の隙間から差し込む光が、リネッタの祈りを照らしている。キラキラと水が光を反射し、眩しさにシルビオは少しだけ目を細めた。
「リネッタさま、聖女さまみたいねぇ……」
「うん、そうだね」
なんて美しいんだろう。
シルビオはその姿から目を離せずにいた。




