47 匿名の女神
草の根活動だって、日数が経てばそれなりに認知度が上がるものだ。リネッタは肌でそれを感じていた。
「リネッタ様、今日はどちらに行かれるの」
「こんにちは。今日は南端のマルネブに行ってきます」
王都を右往左往するリネッタの姿はすっかり馴染み深いものになっているようで、こうして街の人が気さくに声をかけてくることも頻繁だった。
リネッタといえば、後頭部の真ん中の位置で結ばれたミルクティー色の長い髪の毛にパンツスタイルで軽やかに歩く姿がトレードマークになりつつある。伴う騎士の筆頭にマテオとネルソンがいるが、二人とも背が高く体格も良いので遠目でその三人の凸凹具合が目立つのだ。
行く先々でリネッタが身分の垣根など意識する暇もなく話しかけてくるものだから、すっかり声をかけやすい人、という認識が定着した。
だから今日だって洗濯物を干す普通の主婦が、窓からリネッタを見かけて声をかける、なんて、突飛な光景が繰り広げられている。ネルソンは馴れ馴れしい態度の国民に、はじめのうちはいちいち睨んでいたが、今となれば警戒するだけにとどめていた。
「マルネブなら元聖職者の人が出してる雑貨屋があるんだよ。よかったら寄ってみてくださいな。面白かったのよ」
「へぇ……珍しいですね……寄ってみますね!」
それじゃあ、と、リネッタが大手を振り進行方向を元に戻す。
道を歩けば「おはようございます!」と声をかける若者も多くなってきた。数ヶ月前までは予想だにしなかった変化に、マテオは感慨深くなりながらリネッタの受け答えする顔を眺めた。ネルソンはより一層視線を鋭くして神経を尖らせている。
好意的な視線が多くなったからこそ、油断も起きやすい。それに、光あるところに影あり、と言うように、リネッタの人気が上がった今だからこそ、それをよく思わない人も増えているかもしれない。マテオはそう考えて、いつもよりも真面目に身辺警護に臨んだ。
マルネブは観光土地として有名だ。それにしても、シーズンでもないのに今日は人が多く感じるなあとリネッタは思った。待ち合わせに指定したレストランにて、人だかりが顕著になっていることに気づく。
たどり着いた先でイバルリ環境大臣が待っているのは当然だったが、どうやら今日は俳優のバロンも従事しているのだと周囲の女性たちの反応から推察できた。
リネッタたちは恐る恐る女性たちの合間をぬってイバルリ環境大臣の待つ席へ向かう。通り抜けている最中、女性たちの視線がバロンに釘付けになっているかと思いきや、リネッタは自分に視線が向かっていることに気づいた。バロンの元に向かう不届きものとでも思われているのだろうか……と気まずい表情を浮かべたが、女性たちの視線に嫌悪や排他的なものは見られない。それどころかむしろ、そわそわと浮き立つような心地が見受けられた。
なんだろうか、と疑問に思ったところで「わざわざお越しいただき申し訳ありません」と言うイバルリ環境大臣の声に振り返った。
「マルネブの市長はこちらに来られるのですか?」
「はい、そのはずです。お忙しい中ですがこちらで食事でも取りながらお待ちいただければ、と、コースは市長の方からプレゼントでございます」
「それじゃあ早速いただきますね。バロン様は今回も後学のためにこちらへ?」
リネッタを迎えるために席を立ったバロンに視線を向けて尋ねると、バロンは「いえ」と短く答え首を振った。
「今日の私は俳優としてです。同席してもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。尊敬するロマリア様の旦那様ですから」
「寛大なお言葉に感謝します。それでは失礼いたします」
バロンがにこりと微笑めば、野次馬をする女性たちからキャー!と黄色い声が上がった。
「よければ一定範囲の立ち入りを禁止させますが」
うんざりするようにネルソンが眉を顰めてリネッタに尋ねる。申し訳ない、と言わんばかりにバロンも苦笑している。
「そのままで大丈夫です。マルネブにバロン様が直接いらっしゃるのも珍しいでしょうし」
「……そうですか」
言葉は納得していても、表情と態度は納得しかねる、といったネルソンであったが、リネッタがそう答えたのであれば反論できない。
我慢だな、とマテオが親指を立てた。
海産物の中でも特に貝料理に特化したマルネブのコースはリネッタが舌鼓を打つ出来栄えであった。
食べ終わるや否やマルネブの市長も到着し、早速話し合いを、と始めたかったが、リネッタがしばらく料理の美味しさを饒舌に語るので雑談のような雰囲気になった。イバルリ環境大臣がそれとなく主題に話の中心を移してくれたので、和やかに業務的な話し合いは終えることができた。
「それにしても、聖女様のお力については残念でなりません……。あ、いや、聖女様が一番お辛いのは当然わかってはおりますが」
マルネブ市長は慌てて訂正するも、それ以上責められることはないだろうという確信で恐縮するに留まった。少し前、厳密に言えばベアトリスが聖女として健在であった時、またそれ以前であれば、このように聖女を非難するような口ぶりをすれば、市長の座の失脚も視野に入るほどの不始末だっただろう。
しかし、聖女の力が使えなくなったのは事実であり、それによる国民の落胆は計り知れない。残念だと思うことはもはや共通認識であり、暗黙の了解だった。その口に戸を建てるまでもなく、ベアトリスの力が使えなくなったという事実は人々の心に重くのしかかっている。
当然、リネッタもイバルリ環境大臣もマルネブ市長を責めることはしなかった。とはいえ、笑って誤魔化すようなこともできない。
力はなくとも聖女は聖女。そのスタンスを崩してはいけない。これはリネッタが活動を広げるにあたって、一番大事にしていることだった。
「ベアトリス様もひどく胸を痛めております。私たち国民一人一人が意識を変えなくては、彼女に力を授けてくださった海の神がお怒りになるのも当然です。病の流行を抑える方法も、水を美しく使うことに密接しております。自分の周りの環境を大切にできる人の元に聖女様もお力を貸しに来てくださるのです。私はそう信じております」
リネッタの言葉を受けたマルネブ市長は、己の発言を改めて恥じた。縮こまるようにしてもう一度頭を下げる。
「市長として、マルネブの衛生環境により一層気を遣っていきます。……聖女様のお祈りが届きやすくなるように」
「はい。そのお言葉を聞けて安心しました」
リネッタは柔らかく微笑んだ。
レストランを後にする頃には、さすがに野次馬の女性たちも顔ぶれが変わっていた。先程の会話をたまたま耳にした通りかかりの若い女性が、レストランの入り口で市長との別れを済ませたリネッタをじっと見つめる。
「やっぱり、あの人って『匿名の女神』の主人公ソーレじゃない?」
野次馬の集団に問いかけるように言った彼女の声はリネッタの耳にも入る。
集団は口々に「私もちょっと思ったの」「髪色とかも同じだね」と、ざわめきを大きくした。
「『匿名の女神』……?」
聞き慣れぬ単語に首を傾げるリネッタに、バロンが「これですよ」と一枚のチラシをリネッタに手渡した。
バロンが所属する劇団の公演チラシである。タイトルにはまさに『匿名の女神』と記されていた。
「今日の私は俳優として参列していると言ったのを覚えておられますか? こちらがその内容です」
「あ、地方公演の巡回中だったのですね!」
「そのチラシの絵を見て、何かお気づきになりませんか?」
バロンに問われて、リネッタはもう一度チラシに目をやった。湖畔の前で勇ましくポーズを取る主人公と思わしき女性の姿が描かれている。リネッタの背後に控えるマテオとネルソンもリネッタに寄りチラシを覗き込んだ。
「あ、この人姫様に似てますね」
「え? そうかしら」
「ご明察です。それはリネッタ様をモデルにした主人公なんです。ロマリアに相談したところ、そっくり似せた方が良いだろうと言われたので」
「ええ! そんな、恐れ多い……っていうか、ああ、あの時の!」
リネッタが初めて水の清掃に着手した公園での出来事を思い出す。
───「今度劇団公演の脚本を自分で手がけようと思っていまして」
───「よろしければ、リネッタ様をモデルに書いてもいいですか?」
───「貴女様が国のためにこんなに動ける人なのだということを、たくさんの人に伝えたくなったのです」
リクが話題性について触れたことと、明るい話にしてくれるのであれば、とリネッタが条件を出して許可したやり取りが蘇る。
「今回は地方公演から始めるのもいいかなと思いまして、先週に初演を迎えたのです。次は農耕地帯の方に移動します」
「すっかり忘れていました……なんだか恥ずかしいですね……」
「自分でも自分が綴った言葉を演者が喋ることに慣れていないので少し恥ずかしいのですが、主人公はまるっきりリネッタ様がモデルなので自分の言葉には思えないのです。おかげで毎公演新鮮な気持ちで見れます」
「あはは……そういうものなんですか……?」
「ええ。言葉は自分の思想が反映されてしまいますから。それにしても、ロマリアの言う通り姿も貴女様に似せた形にしてよかった。演者の背丈や声色も近い人を選んでます。観た人の評判も良いので、きっとリネッタ様の名声を大きくする一助となるでしょう」
バロンは誇らしく、背中を押すようにリネッタに言う。けれどリネッタの表情はなかなか晴れない。
「なんだか、本当にそれでいいのかな、ともどかしさを覚えてしまいます。私は物語の主人公のように大層なことはしていません。ただ地道にやるべきことをやっているだけです。観客の皆様が、まさに今こうして私の姿を見てがっかりしないか……なんて、萎縮しそうで」
「……いいんですよ。数ある偉人だって、本人の意思よりも、その人の実績やエピソードにファンがついて有名になった、なんて事例ばかりなんですから。歴代の聖女様も与えられた役割をただこなしただけかもしれません。しかし我々にはとてつもなく大きな恩恵だった。それと同じです。リネッタ様が地道に行っていることは、少なくとも私にはそれほど大きなものに思えたってだけです。私のフィルターを通して偉大に映るのであれば、それを利用してください」
「バロン様……」
バロンの言葉に感激していると、「あの!」と、先程集団に問いかけていた女性が、少しだけリネッタに近寄って、呼びかけた。
「ソーレのモデルの方ですよね…! よろしければ握手していただけませんか!」
先程のバロンたちの会話は距離があって聞けていないだろうに、女性は勇気を出して手を差し伸べる。背後の野次馬集団も確信が持てないので、リネッタの女性への対応で質問の答えがどちらに転ぶか見守っているようだ。
リネッタは女性に近づいた。
そして彼女の差し出された手に握手した。
「はい。観ていただきありがとうございます」
集団からわぁっと声が上がった。受け入れたリネッタの言葉に、バロンも嬉しそうに微笑んだ。
「マルネブ公演は大成功だな」
「ご本人との対面が次の公演の噂になってくれるといいですよね」
イバルリ環境大臣も義理の息子の成功に誇らしげな笑みを浮かべた。




