44 光明
「……わかった、必ず説得しよう」
シルビオは再びベアトリスの元へ向かう。そしてきっと、彼女とまた二人で話し合うのだろう。一瞬曇天のような重々しい気持ちが心に残るが、リネッタはシルビオの返事に信頼を込めた笑顔で返した。
「殿下、リネッタ様、陽が落ち切る前に出立しましょう」
二人の話し合いを申し訳なさそうにネルソンが遮る。彼の手には手綱が握られ、まだ元気そうな馬がブルブルと鼻を鳴らしていた。
リネッタとシルビオが馬に乗れば、マテオが先導し、他三人の騎士はリネッタとシルビオの背後から追うようにして駆けていった。
王宮に帰ったのはすっかり暗くなってからだった。星が見えないので、きっと明日は曇りか雨なのだろうとリネッタは空を見上げてぼんやりと考えた。
昼間と同じように王宮の裏門にて出入りをし、そのまま厩の方に馬達を連れて休ませ、巡回に向かった六人はそのまま裏手口から玄関ホールの方まで歩いて向かった。
リネッタの住まう屋敷は正門側にあるが、王宮内を通った方が近いので、せっかくならとシルビオも自室に向かう前にリネッタを見送る意味でも共に玄関ホールの方へ着いてきてくれた。
「遅い時間までごめんなさい。ありがとう」
リネッタが騎士たちに礼を言えば、マテオ以外が恐縮ですと慌てて頭を下げる。マテオからすれば昔ながらのことのようで、「いえいえ」とカラッとした返事をしたのでネルソンが慌てて彼の頭を掴んで下げさせた。
「シルビオも、きっと明日も早いのに本当にありがとう…」
「いや、こちらこそ一緒に行けてよかった。自分の目で確認できたこともそうだけど、セラとの話し合いの場にリネッタがいてくれて助かったよ」
「そうなの…?」
「ずっと手を握ってくれていただろう。セラもあのおかげで安心して話すことができたと思う」
「……役に立てたのなら、何よりだわ」
「リネッタにはいつも助けられているよ」
自虐的にこぼした言葉を、シルビオが素直な気持ちで掬い上げる。
リネッタも無意識に気を張っていたのか、シルビオの言葉のおかげで、一瞬で和らぐ心地がした。
———その一言がどんなに嬉しいか
今日はいい夢が見れるかもしれない、なんて呑気なことまで考えてしまう。
「ラルには明日私が伝えるわ。マテオの伝令の結果も待たなくてはいけないし、諸々の準備が整い次第また話し合いましょう」
「うん。それじゃあ今日は……」
シルビオが言いかけた時だった。
「リネッタ姉様! よかった、まだお休みになられてなかったのですね」
「リク…?」
大きなメインの扉ではなく、その横に設置された夜間用の出入り口から声がしたので振り返れば、神妙な面持ちのリクと彼の従者であるトールが早足でリネッタ達の方にやってきた。
「シルビオ殿下もいらっしゃったのですね。お伝えします」
時間が惜しいのかリクは間髪入れずに言った。
「我が国の聖堂長であるバックスが、女性と密会している現場を見ました。恐れながら内容の把握までは至りませんでしたが、別れ際に女性の名前を、『ネビア様』と呼んでおりました」
「……! それはベアトの母親の名前だ」
「え……!?」
聖堂から出ていったベアトリスの母親がなぜソレイユ王国の聖堂長と会っているのか。疑念が共有された瞬間、同じようにリクたちが入ってきた扉が再び開く音がした。
一同がそちらを振り返ると、ルナーラ王国の精鋭騎士の制服を着ている。リネッタは彼に見覚えがあった。いつもシルビオの背後にいるシルビオ付きの騎士である。
「報告を」
簡易にシルビオが指示を出せば、冷静な対応で騎士が調査結果を口にした。
「ネビア・ガルシアの現在の居所を調査しておりました。結果、ネビア・ガルシアは現在王都東にある第14地区にある宿泊施設に生活を移していることがわかりました。その宿泊施設には現在ソレイユ王国の聖堂従事者の方々も滞在しております。以上です」
「……確定だな」
———なぜベアトリス様の母親がソレイユ王国の聖職者と……?
リネッタが悩む後ろでは、トールが自国の同業者がまた問題を抱えてしまったという事実に頭を抱えていた。そしてそれはリクも同じようで、表情がより一層暗くなっている。
「第14地区というのは国立公園の向こうの方で合っていますか?」
とリクが騎士に問えば、「はい」と騎士は頷いた。
「ひとまず、二人とも報告をありがとう。思うところは色々あるが、情報を掴んだのは大きな進歩だ。今日は情報として預かるだけにして、考えるのは明日以降にしよう」
「……ええ、それに賛成だわ」
リネッタが力無く笑う。
向き合ったもの、考えなくてはいけないもの、1日で抱える量にしては少し多いのは自覚していた。
シルビオの言葉にリクとトールも大きなため息をつく。彼らもこの国に来てからずっとソレイユ王国の聖職者たちの動向を追うのに必死だった。一つの手がかりを掴んだことで今日のところは仕事を一旦終えたことにし、各々の部屋に戻ることを決定した。
「せっかくリネッタ姉様と一緒の場所にいるのに、ゆっくりお話もできませんね……」
寂しげに笑うリクに、リネッタも胸が詰まった。するとそれを聞いたシルビオがリクの肩に手を置いて提案する。
「明日は思い切って何もしなければいい。リネッタは城の屋敷に残るから、姉弟で過ごすといいよ」
「しかし、我が国の聖職者が迷惑をかけている以上、早く実態を把握しなければ貴方がたに迷惑が……」
「根を詰めすぎては情報の精度も落ちる。それに、近い人間にはあまり無理をしてほしくないんだ」
ぽんぽん、とそのままリクの肩を叩けば、シルビオは「おやすみ」と挨拶をして玄関ホールから去った。今この時間から身内の時間として過ごしてほしいという計らいだろうとリネッタは察した。
「おやすみなさい」
とリネッタが声をかければ、シルビオが再び振り向いて手を振った。
リクとトールも慌てて礼をし、シルビオの姿が見えなくなれば、今度は感嘆のため息をもらす。
「思ったよりも、いい人ですね」
「でしょう!」
誇らしげにリネッタが即答したものだから、微笑ましくリクも眉尻を下げた。
「明日は診療所の方で生活しているコモロ国からの難民の男の子に、今日会った家族の話をしに行く予定なの。よかったらリクとトールも一緒に来ない?」
「はい、是非」
「あ、すみません、自分は子供が苦手なので……」
トールが申し訳なさそうに断る。「なら仕方ないわね」とリネッタもあっさり了承した。その代わり、ゆっくり静養すること、とリネッタは念を押した。
シルビオが言ったように、今日の夜はひとまず何も考えず体を休めることにしよう。そして願わくばリクとトールも、明日一日だけでも気が休まればいいとリネッタは考えていた。
***
次の日はいつもより少しゆっくりめに目を覚ました。リネッタのメイドであるカロリーナも、昨晩の意向を汲んでリネッタが自分から起きるまでは物音を立てずにいた。
ぐぐっと体を伸ばし、完全に覚醒したところで、カロリーナから「おはようございます」と声がかかる。
ゆっくり寝た、とはいえ、時間を確認するとまだ朝時間であった。きっと気が張っているせいで早起きが習慣化しているのだろう、とリネッタは改めて現状を思い知った。
朝食は部屋でとり、ちょうど終わる頃に入り口の呼び鈴が鳴る。城からリクが赴いてくれたようで、部屋に通された。
「おはようございますリネッタ姉様」
「もう少しゆっくりでも良かったのに」
「ぐっすり寝たつもりだったんですけど、目が覚めちゃって……」
こういうところは姉弟なおかげで似るのだろうか、と二人は笑い合った。
外に出歩く用事もないので、リネッタも裾の長いドレスを身に纏っている。リクもまた今日はシルク生地の白いシャツを着ているので品の良い王族の風格がいつもより表れているように見えた。
なので、二人でラルの元へ向かったら
「王子様……」
と、ラルに見つめられたので、リクは「厳密にはそうなのかな……?」とリネッタに伺いを立てた。
「彼の名前はリク。私の弟なの。でもリクはこの国、ルナーラの人ではなくて、お隣の国のソレイユ王国の王子様ってことになるのよ」
「へえ〜。ソレイユ王国っていうのは、どの形なの?」
ラルは部屋にある本棚から子供用の地図帳を広げてリネッタに問うた。ここよ、と指をさして教えれば、また「へえ!」と感嘆の声をあげている。
きっと知識欲に溢れ、勉強することが好きなのだろう、 とリネッタとリクはラルの様子を微笑ましく見守った。
「ってそうじゃなくて…」
と小さく独り言を呟いて、リネッタは一度咳払いをする。
「ラル、実は今日教えたいことがあって来たの。あなたのお姉さんのことよ」
「!!」
ラルの目が見開かれる。本を閉じて改めてリネッタの元に駆け寄って、どんな話をするのか期待と不安が入り混じった瞳で待っていた。
リクも昨日の詳細はまだ聞かされていないので、ラルの隣で彼を支えるようにして腰を下ろした。
リネッタはセラと、セラとラルが居た場所の現状を優しい言葉で教えた。
セラは元気なこと、けれど集落のために離れられないこと、ラルの無事を知ってとても安心していたこと、そして集落の病気のこと。
ラルも話を聞くうちに子供らしからぬ真剣な表情に変わっていった。
「お水、汚かったもん……」
落胆したようにラルが呟いた。
「リネッタ姉様と出会った時、君はお水が欲しいって言っていたんだっけ?」
リクはラルの情報を知るにあたってリネッタから簡易的に聖女襲撃事件のあらましを聞いていた。リクの質問にラルは「きっと、そう」と煮え切らない返事を返す。
「多分、流行病で頭がうまく回っていなかったんじゃないかしら……記憶が朧げなの」
「そうだったんだね…」
「おぼえていたら、お姫様うれしかったよね?」
ラルは自分が容疑者である自覚があり、その立場でありながらも救ってくれた王宮の人々に恩義を感じていた。だからこそもっとあの時の事件の手がかりをつかめていれば、リネッタたちの役に立てたのに、と自責の念にかられているようだ。
「ラルが元気になったからそれだけでいいのよ」
ラルの頭を撫でながら、リネッタは優しい声色でそう伝えた。
「でも、ぼくの病気きっとうつしちゃったし……」
「ラル、また言ってるわよ。気にしないでいいのに。いっぱい寝ただけで全然平気だったって言ったじゃない」
「え、リネッタ姉様、お倒れになっていたんですか…?」
「あれ、言ってなかったっけ……」
サッと青ざめたリクに、リネッタが視線を逸らしつつとぼけて言う。
しかしリクは少し考えた後、ラルの背中に回していた手をラルの肩に持っていき、細い両肩を掴んで
「ラルのおかげで不安が一つなくなったかもしれない」
と爛漫とした表情で言う。これにはラルとリネッタも困惑した。
「ぼくのおかげで…?」
「どういうこと?」
「リネッタ姉様がお倒れになった原因がラルの病だったとしたら、リネッタ姉様は僕ら以上に流行病に恐れる心配はないということです。一度かかった病気には抗体というものができあがりますから、リネッタ姉様が倒れることはもうないかもしれません」
リネッタは納得するも、ラルはまだちんぷんかんぷんなようで首を傾げている。
「つまり、ラルのおかげでリネッタ姉様は強い盾を得たということさ」
「盾、って、防具? すごいね!」
「ラルは賢いね、そう、すごいんだ。君もリネッタ姉様も回復してくれて本当に良かった」
リクは、ラルにも病の魔の手が再びやってこない事実にも安堵したようで、慈しむように笑った。
ラルがようやく一つの罪悪感を拭うことができたとリネッタも確信し、リクをここに連れて来て良かったと感謝するのであった。
***
シルビオは夕刻になり、改めて聖堂を訪れた。
聖堂前に馬車から降り立つと、草葉の影に人がいる気配を感じる。騎士が警戒をするが、危害を加える様子はないらしい。
多分、新聞記者だ、とシルビオは考えた。少し面倒な気持ちが湧き上がりつつも、ここにわざわざ来た理由を考え直して気持ちを整えた。
まずはルナーラ王国の聖堂長レミーの元に行き、2ヶ月前の聖職者たちの動向を確認した。
「聖女様がご不在でしたから、彼女が帰ってくるまでは通常業務で手一杯でした。わざわざ難民地域の方まで赴く者も考えにくいでしょう」
推測ですが、とレミーは付け足しつつも、シルビオはその答えに納得していた。
聖職者として従事するものは、基本的に休暇もなく聖堂周りで働き続ける。遠征することもあるが、そういったものは事業として記録に残るため、足取りを追うことが可能だ。
そしてベアトリスが見つかるまでの間、聖女捜索という任務をこなしつつ、各地に祈りと教えを広めるための経典作りや巡回を行っていたので、人手がそもそも足りないほどだったのは国の中枢を担う人間であれば誰でもわかることであった。
「わかった。ありがとう。この後なのだが、談話室までベアトを呼んでもらうことは可能だろうか」
「え? ええ、殿下がいらっしゃったと聞けば彼女も動くでしょう。しかし、お部屋でもお話はできるのでは……」
「部屋で話すことはもうない。前は彼女の要望があって入室させてもらったが、本来、まだ婚約者候補である相手と個室で二人きりになるのは俺としても望ましくない」
そもそも、あの日ネビアが不在だったことを知らなかったので、本当に二人きりになるとは思っていなかったのだ。
「なるほど、それもそうですね。では先に談話室にてお待ちください」
レミーがゆっくりと腰を上げて、政務室を後にした。
ベアトリスはほどなくして談話室にやってきた。
表情は依然として暗く、縮こまっている。
部屋に入り、レミーが「それでは私は仕事に戻ります」と立ち去ってからは、シルビオの背後に控える二人の騎士をちらりと見て、気まずそうに視線を逸らした。
「ベアト、座ってくれ」
シルビオは優しく声をかけて、椅子を引く。促されるまま、ベアトリスは彼の用意した椅子に座る。
彼女と向かい合うように、広いテーブル越しにシルビオも再び腰掛けた。
「隣でもいいじゃない」
「今日は頼み事があるからね」
「……」
シルビオは笑顔もなく、真面目な顔つきでしっかりとベアトリスの正面を捉えた。
シルビオのそんな表情に慣れていないのか、ベアトリスの肩がびくりと跳ねる。
「日付は決まっていないが、今度難民地域の清掃作業を行う。その場所に、必ず同行して欲しい」
「……難民地域? どうして……?」
「もともと、聖女の浄化作業の優先地域の一つでもあったんだ。ただ、なぜかわからないがその場所は浄化されたことになっていた。実際に行ったことはないのに、だ」
「知らなかったわ。そもそも王宮近くの方が優先されるべきだったから、そこまで手が回らなかったのは仕方ないのよ」
「誰がそんなところを優先させろと言ったんだ?」
「!」
ベアトリスが再び顔を上げると、シルビオはその真剣な表情の中に、少しだけ怒りを含ませていた。
慌ててベアトリスは、か細い声で
「お母様が」
と答えた。
「お母様が、それがきっとシルビオのためになるって、言ってたし、私もそれがいいと思ったから……」
「……」
その返答に、シルビオがそれ以上言うことはなにもなかった。少しの沈黙で、ベアトリスは早まった動悸を落ち着かせ、改めて「それに今の私は何の力もないわ」と自分の手を見つめて呟いた。
「同行して欲しいが、正体は隠して欲しいんだ」
「どういうこと? だって清掃作業をするんでしょう? つまり私の力が必要ってことなんじゃないの?」
「使えないんだろう?」
「っ………」
「ごめん、責めたいわけじゃない。だから、正体を隠して、その現場を見守って欲しいんだ」
「……?」
ベアトリスは、シルビオの要望の意図が掴めずにいた。けれど、わからないと首を傾げても、それによってこの場の空気が少しだけ重くなったような心地もして、ますますベアトリスは混乱する。
意図が分かろうがわかるまいが、どちらにせよ今のベアトリスは外に出ることを恐れている。だから簡単に頷くことができずにいた。
シルビオが立ち上がる。その動作に反応して、ベアトリスも再び顔を上げる。
「俺の婚約者候補として、将来俺の隣に立ちたいと思うのなら、この提案を受け入れてくれ。それでも嫌だと言うのなら、貴女を今日限りで婚約者候補から外す」
ベアトリスの選択肢は一つしかなかった。
泣きそうな顔になりながら「行く、行くから…!」と両手をついて立ち上がった。
その返事を聞いたシルビオはしばらくベアトリスと見つめあった後、頷いた。
「ありがとう。卑怯な手を使うようですまなかった」
「………」
「でもベアト、さっきの言葉は嘘ではない。俺の妻になることがどういうことなのか、改めて考えてほしい。それに、難民地域の様子を知るのも、ベアトにとって必ず必要なことなんだ。どうか俺のことを信じて」
ショックと安堵が入り混じり、ベアトリスはうまく声が出ずに立ち尽くす。
「危険な目に遭わせないことを約束する。どうか、怖がらないでくれ」
そう告げて、シルビオは談話室を後にした。




