43 依存
「なんてことだ」
苦々しく呟いたシルビオの声が、澱んだ空気に溶け込んでいく。
眼前に広がるのは破れた布を継ぎ合わせて張られたテントの数々、どれも雨風による損傷と泥による汚れが目立つ。太い枝を近くの木々から折って作ったのか、無骨な骨組みが痛々しく、どこからか拾ってきたであろう椅子や机が景観にそぐわず浮いて見える。近くの河川には、テントと同じように汚れた衣服が大きなカゴに入れられ、水に浸けられている状態であった。
ほつれた糸や布の切れ端、果物の芯や皮、割れたガラス食器の破片、小動物の骨、腐った魚、小さな金属の部品、そういったものが砂利の上や川の表面に散らばっている。
言うなれば、荒らされて環境が破壊していた。
先ほどからこの一帯を支配する悪臭の元は、彼らの生活の蓄積によるものなのは明白であった。
珍しい装いの人間が来たことで、この場に住む難民たちの視線が突き刺さるように向けられた。
同じ興味の視線のはずなのに、先ほどまで滞在していた町の人との視線とは、違った意思をリネッタたちは感じ取っていた。
マテオとネルソンが、より警戒を強めてリネッタの近くに寄る。それはシルビオ付きの騎士も同じであった。
「もっと早くに浄化の対処ができていれば……」
とシルビオが呟くが「……対処できたとしても」とリネッタが静かに続ける。
「彼らの生活が変わらなければ、またすぐにこの状態に戻るでしょうね」
「……」
ゴホゴホと咳き込む声が奥の方から聞こえる。
シンと静まり返りリネッタたちを観察する難民たちの数は少なくないため、その異様な静けさが緊張感を帯びるようだった。
「この地域を仕切っているリーダーのような者はいるだろうか」
シルビオが声を張り上げて全員に聞くが、人々の表情はこわばったまま動かない。
大人たちの痩けた頬と落ち窪んだ目が、より不気味な空気を醸し出している。その空気感に気圧されそうになってシルビオの眉間に皺が寄った時だった。
「大人はこの国の言葉わからない。偉い人も話が通じない」
あどけない声が背後からし、一同は勢いよく振り返った。
四人の10代前後の子供たちが、カゴに食材を抱えてそこに立っていた。その中でも一番背の高い少女が眠たげな瞳でリネッタたちを見つめて言う。
「病気の人いるから奥には行かないで。私が話聞く」
「そうか、気遣いをありがとう。お邪魔させてもらうよ」
シルビオの返事にこくりと少女が頷くと、隣に立つ短い髪の少女に荷物を渡し、リネッタたちとは違う言語で何やら言伝を終えたかと思うと、背の高い少女以外は集落の方へ駆けて行った。
「こっち」
少女は右腕を広げて指をさし、青い布が張られたテントをリネッタたちが視認したのを確認すれば、じゃりじゃりと音を立てて歩き始めた。
シルビオを先頭に、リネッタたちも彼女後ろをついて行った。
灯りもないテントの中は、元々木々の鬱蒼とした所の下にあるせいで夕暮れ時に近い暗さであった。
入り口の布を閉めるとさらに光が遮断されてしまうため、開けっぱなしにされた。
テント内部は狭い。そのためリネッタとシルビオの他には、シルビオ付きの騎士が一人だけ入室し、もう一人の騎士とマテオとネルソンはテントの入り口や周辺で待機することになった。
「あなた王子?」
「ああそうだ。シルビオ・ルナーラと言う。そして彼女はリネッタ・マレ・ソレイユ。隣国であるソレイユ王国の第一王女にして俺の婚約者候補だ」
「リネッタです。今日はお邪魔します」
丁寧に居座ったリネッタとシルビオを見て、少女は眠たげな目を少し開いてぱちぱちと瞬きをした。
「驚いた。偉い人なのに」
呆気に取られたように少女は呟き、そして彼女も改めて体の向きリネッタたちの方に変えて胡座をかいて頭を下げた。
「私はセラ。コモロ国から逃げてここに住んでいる。コモロ国はひどい国。食べ物も水もない。病気と争いで人は死ぬ。とても怖い。この国の人は優しい。でも病気で人が死ぬのは同じ。助けて」
拙い言葉を必死に紡いで、セラがようやく顔を上げると、今にも泣きそうに瞳を赤くしているのがかろうじて見えた。
「思い出せば、弟も病気になっていた。町に出た時に居なくなっていて、今まで帰ってこない。きっと病気で死んだ。もうこれ以上離れたくない」
「弟がいたのね……」
「はぐれたのか? もしかしたら誘拐の可能性もある。その弟の名前を教えてくれないだろうか」
誘拐…?と知らない単語に首を傾げつつも、セラはシルビオの問いに答える。
「弟の名前はラルです」
聞き馴染みのある名前にリネッタとシルビオが目を合わせた。
「ラルって、頭を撫でるとザリザリする感じの長さで、身長もこのくらいで、この国の言葉が喋れるラル?」
慌ててリネッタが身振り手振りを加えながら説明すると「どうして」と言わんばかりにセラの表情に困惑と歓喜が入り混じって目が見開かれた。
「そう、そう! 知っているの?」
「ラルは今、城の診療所で元気に生活している。セラの言うように病気だったが、もう完治した」
「あ、ああ、ああ……」
わなわなと力が抜け、セラの上半身が床の上に崩れ落ちた。リネッタが腰を上げて近づき彼女の体を起こそうと手を触れる前に、その細い背中が小刻みに震えていることに気づく。
「ありがとう、ありがとう……私のたった一人の家族なの」
きっと我慢していたのであろう、彼女の声はすっかり涙色だった。嗚咽をもらしながらしばらく床に伏して泣くセラを、全員が見守った。
リネッタは優しく彼女の背中を摩り続けた。
「落ち着いただろうか」
シルビオが頃合いを見てセラに問うと、すっかり目が腫れたセラがこくりと頷く。元々眠たげに垂れていた目尻がより細くなってしまっていた。擦ろうとするセラの手を、リネッタが目に悪いから、と制止する。触れ合った手に安心したのか、セラはそのままリネッタの手をつかんだ。
「こうしていてもいい?」
「はい、いいですよ」
「ありがとう…」
セラは背が高いが、十分な栄養が行き届いているとは言えないくらい細い。骨ばった指を感じたリネッタは初めてラルと触れ合った日のことを思い出していた。
———やっぱり、この人たちをこのまま放置することはできない
何か手立てを考えないと、と考え込むうちに、シルビオが改めて話を切り出した。
「俺たちからこの場所と今の状況について質問させてほしい。単語がわからなかったら気軽に聞いてくれ」
「はい」
「この集落はいつからあるんだ?」
「わからない。私がここにきたのは1年前。ここに集まっているからと町のルナ-ラ人に教えてもらった」
「なるほど。では病気が流行り始めたのはいつから?」
「とても寒い日から」
「冬か……半年前からか。わかった。寒い日から今日まで、俺たちのように訪問者はいなかったか?」
「ホウモンシャ……?」
「ここにコモロ国の人以外で来た人はいましたか?」
単語を聞き返すセラにリネッタが答えて、「あー」と納得したセラが何かを思い出すように左上を向く。
「私は見てない。けど、みんなが森の方で変な白い服を着た人を複数見たと言っていた」
「! それはいつの話か思い出せるか?」
「えっと、なんて言えばいいんだろう、前…月……月が前に丸かった時と同じ時間……が、2回あった」
「2ヶ月前ということかしら」
「変な時期だな。わかった。その白い服を着た人たちが何をしていたか、というのはわかるか?」
「わからない。遠かったから何をしているかわからない、不気味だって大人が言ってた。……でも、その白い服の人たちが来る前の日に、集落で仲間が死んだ」
「それは病気でか?」
「そう。とても苦しんでいた。熱いと言っていた。病気になる人はたくさんいた。でも死んだのは初めてだった。それから今日まで、同じように何人か死んだ」
セラの言葉の後、沈黙が訪れる。
リネッタもシルビオも、気味の悪い状況の羅列から、何か道筋が見えないかと思考を働いていたからだ。
白い服といえば真っ先に聖職者の衣装が思い浮かぶ。ソレイユ王国の聖職者たちが何かを暗躍しているのは現状怪しんでいることだが、セラの言う2ヶ月前というところが引っかかった。
ソレイユの聖職者が活動を始めたのは、リネッタたちの後輩であり国一番の報道会社の息子であるホセ・レイズリーへの賄賂が発端だろう。そしてその内容は、ベアトリスを婚約者争いで優位に立たせるために偏向報道をしろというものであった。
つまり、ベアトリスが来た約1ヶ月前からの動きだと考えられる。2ヶ月前は聖女がどこにいるかもわからない状況だ。であれば、ルナーラ王国の聖職者たちが何らかの理由でここに訪れたのだろうか。シルビオは「確認事項がまた増えたな…」と呟き、胸にしまう。
白い服を着た一般市民の可能性も勿論考えられたが、わざわざ「変」だと言ったところに特異性を覚え疑ってかかることにした。
それに、先ほどセラが初めてリネッタたちに声をかけたように、彼女らは頻繁に近くの町へ物資の調達のため出向いている。全く見覚えのない人間が複数、わざわざこの場に現れたことも、一般市民説を薄めるように思えた。
「セラは、そんなに大変なことがいっぱいあったのに、ここを離れようとは考えなかったの?」
リネッタが、薄暗いテントの中を見回す。新品なものなど一つもない。電気など通っていない。季節の移り変わりの激しいルナーラ王国の領土にいるのに、対策が不十分だとしか思えない。
リネッタの質問にセラがぼんやりと、遠くを見つめるような視線で答える。
「考えなかった。ここから離れて生活する方法を知らないから。わからないことを考えるより、知っている人たちと一緒に苦しいを考える方がいい」
それは諦めに似た視線だった。
しかし、それでは破滅に向かうだけだということをリネッタとシルビオはわかっている。セラの答えに苦虫をかみつぶしたような表情になりながらも、肯定も否定もできないまま、二人は視線を合わせた。セラの手と触れているリネッタの手の力が少しだけ強まる。
「セラ、提案が一つある。今ラルが住んでいる所に、セラも住んでみないか?」
弟のいる場所であればセラが移り住む道理があるだろう。しかし
「住まない。ここに残る」
セラの判断は早かった。どうして、とリネッタが口に出す前に、この集落に来てセラと出会った時の状況がふと思い出された。
セラは子供たちの先頭に立っていた。大人たちは、セラがリネッタたちを引きつれることをじっと見守っていた。いや、見守っていたというよりも、当然であるような眼差しで見つめていた。
「私がいないと町の人に助けてもらえない。私はここに必要。他にも言葉を喋れる子供はいるけど、みんなラルのように幼い。危ない」
「……」
集落の人たちはセラに依存し、そしてセラもまたこの環境に依存してしまっている。
リネッタにはコモロ国がどのくらい凄惨な場所か理解しかねるが、セラやこの集落の人々の眼差しから苦労が窺えた。ラルの純真な瞳は、幼いゆえなのだと気づく。
「ラルはそのまま生活してほしい。もう少し言葉を覚えて大人も町に出れるようになったら、私からラルのところに行く」
「……そうか、わかった」
この地域の環境が良くないことは明白だ。それでもセラの決意や現状を捻じ曲げてまで連れて行く権利はない。
「長い時間お邪魔してすまなかった。そろそろ日も暮れるし、俺たちは城に戻る。ラルにセラが元気であったことも伝えよう」
「ありがとう……!」
シルビオの号令とともに、リネッタもテントから出るため立ち上がる。
「必ずまたここに来るからね」
と言って、優しくセラと触れ合っていた手を離した。
セラは6人の姿が見えなくなるまで手を振ってくれていた。
無事セラとの話し合いが終わった様子を見た集落の人々も、リネッタたちはひとまず信頼がおけるのだろうと判断したのか、帰りの視線はほとんどなかった。
「まずはこの場所を少しでも綺麗にしましょう」
麓の町に戻る頃、すっかり空が紫色に染まっていた。
リネッタの提案に、シルビオも頷いた。
「元々あの場所の浄化は優先地域扱いだったから異論はない。ただ、予想よりも酷かった。王都の公園なんかよりも真っ先に来るべきだった」
漏れ聞こえる噂程度では把握しきれないのだと改めて思い知ったシルビオは、額に拳をあてて頭を悩ませていた。しかしリネッタが小さく首を振る。
「酷さでいえば確かにあの場所が一番だったかもしれないけれど、公園の水場だって酷かったわ。それに、聖女の力はあくまでルナーラ王国のもの。残酷な話だけれど、ルナーラ王国の人を優先するのは当然のことよ」
「……そうだね」
「人の命に優先順位なんてつけたくないのだけれどね」
コモロ国の人々のことを考えながら、リネッタはぼんやりと、自分の身分についても思いを馳せた。
今はまだ、完全なルナーラ王国民ではない。ソレイユ王国の姫という立場だけが今自分を守ってくれている。部外者であるという点においては、セラやラルと変わらないのかもしれない、と。
だからこそ、聖女がやらないことは自分が解決するべきなのかもしれない、とも。
「この目で見た以上、軽視はできない。流行病と思われるものが集落でも観測されている以上、河川の汚染を通じてこの町、ひいては王都の方にまで広がっていることは事実だろう」
「そうね」
「難民を移動させるべきか、一度川を堰き止める方がいいのか……」
悩むシルビオの隣で、リネッタが一度マテオに視線を向ける。目が合ったマテオはなぜこちらを?と一度首を傾げたが、少しして何かを思い出し表情を明るくする。
「改めて環境大臣の方へ連絡して、まずはあの場所の清掃作業を人力で行いましょう。公園の件をきっかけに手順は共有できるはずだわ。人員に関してはコモロ国の人たちにも手伝ってもらいましょう。自分たちの手でやり方を覚えてもらうためにもね」
「伝令は俺の方でやりますね」
マテオが得意げに言った。
「ありがとう。……それと」
リネッタは一度、ため息を吐いてから、シルビオに懇願の視線を向けて言った。
「この清掃作業の場に、ベアトリス様を必ず連れてきてください」




