40 依然と変化
リネッタとマテオは一度近くの仕立て屋に入り、服を買い替えてから散策を再開した。
今日のところはもう二箇所ほど浄化が済んでいない水場を確認し、再びイバルリ環境大臣に清掃作業ができないか、現状の詳細を記した手紙を送ることにした。
街明かりに負けない星が瞬く時間に、ようやくリネッタたちは王宮に戻った。広間に向かうことなくそのまま自分が与えられた別邸の方へ向かおうとしたら、ちょうどリクも同じ頃に門を潜って戻ってきたようで、リネッタはリクへ大きく手を振った。
「お疲れ様。何か手がかりはつかめた?」
「ひとまず寝泊まりしている屋敷を観察しましたが、出入りは特にありませんでした。中の様子までは僕一人ではわからずじまいでだったので、明日もう一度見張ってみます。それでも難しい場合は直接尋ねようかと考えています」
「最終手段ね……その時は私も一緒に行くようにするわ。その方が自然だと思うし」
「わかりました。もしその場合になったら声をかけますね。それじゃあ夜も遅いですし、リネッタ姉様もおやすみなさい」
「ええ、おやすみ」
リクは王宮内のあてがわれた部屋へ向かっていった。その背中を見送ると同時に、リネッタはリクが向かう先である王宮を見上げる。
夜空を背後にして天の中心として針を突き立てているようにシンボライズされたルナーラの王宮は、その荘厳さを静かに放っていた。
———シルビオは戻っているのかな
ベアトリスの元へと指示を出したのはリネッタ自身とはいえ、長時間ライバルの元に共に過ごす時間をプレゼントするのはやはり複雑な思いであった。他にも仕事があるだろうから、今この時間までベアトリスの元にいるということはあり得ないだろうと思いつつも、彼の姿が見えないことには確信には至らない。それが少しだけ、焦燥感をかきたてる。
二人きりにならないでほしい。独占欲を素直に言葉にしてしまえば、その浅はかさに呆れてしまう。けれど隠すことなく今の気持ちを吐露するのであれば、それが一番正しい言葉だった。
矛盾した考えに思わずため息が溢れた。
「姫様、夜風に当たり続けてたら冷え込みますよ」
「あ、うん、ありがとう」
マテオの声にハッとして、リネッタはそそくさと屋敷に戻った。
せめて今は静かに一人眠りについていることができていたら、と願うリネッタだった。
***
時を遡ること、同じ日の昼時間のことである。リネッタがベアトリスのためにとシルビオを聖堂に向かわせたその時の話だ。
聖女の部屋にシルビオ付きの騎士二人は入室できず、聖女好みに彩られた部屋にはシルビオと、聖女その人であるベアトリスの正真正銘二人きりであった。
彼女の髪色と同じく水色に塗られた木造の丸いテーブルは、脚がくるりと可愛らしい曲線を描く装飾の凝ったものであった。人の胴体一人分くらいの広さのテーブルの上には、これまた綺麗な水色のティーカップの中に、香り高い紅茶が淹れられていた。
シルビオは紅茶の色や香りを感じては、一目で「上手なんだな」と感心した。
「強引な真似をしてごめんなさい。今まで色々あって、二人っきりになれるのも久しぶりだったから」
「……前の食事会でも二人で話しただろう」
「あれは、二人っきりとは言わないわ。学生の皆さんも、それに…リネッタさんだっていたし……なにより……」
ベアトリスがうつむき、顔に影が落ちる。
学園での食事会の後を思い出して震えているのだと言うことは、シルビオもすぐに察した。
あの後、ベアトリスは誰かに刃物を向けられ、軽傷とはいえ傷を負った。
そしてその誰か、というのは現在王宮に匿われているコモロ国からの難民である少年ラルであることも、シルビオは知っている。
しかし、ベアトリスにラルの存在は明かすことはできない。なぜなら彼女の証言とラルの証言から、一連の事件にはリネッタを陥れる魂胆があったのではないのか、と疑っているからだ。
シルビオはただベアトリスの少し震える躰をそっと見守った。彼女の肩に腕を回して安心させようかと逡巡するも、自分の立場と気持ちを考えた結果、シルビオの手は彼の膝の上からは動かなかった。
その代わり、シルビオは静かにベアトリスに声をかける。
「怖かっただろう」
耳心地の良い低音域の声がベアトリスの鼓膜に届くと、ベアトリスは勢いよくシルビオの胸に飛び込んだ。テーブルの上の紅茶が揺れて少しこぼれる。
「シルビオだけなの! 私を、私を聖女じゃなくて私として見てくれるのは」
啖呵を切るようにベアトリスが言葉を続けた。
「最初は立場を与えてられて嬉しかった! でも、結局聖女じゃなくなったら今度は宙ぶらりんになって、行き場がなくなっちゃって…! リネッタさんだってそう。力がなくなってどうしようもないって言ってるのに、それでも『聖女』っていう立場を押し付けてくる。私……苦しいの……! でもこんなこと、誰にも言えない……」
ベアトリスの声色がだんだんと滲んでいく。
シルビオの手は置き場がわからないまま、とりあえず右手はこれ以上テーブルが揺れないように押さえつけている。
訪れない温もりに寂寥感を覚えたベアトリスは、もう一度鼻を啜ってゆっくりと離れた。
「昔は、私の方が頼られる立場だったけど、私から甘えてもいい?」
すがるような視線に、シルビオは否定の言葉をかけることはできずに沈黙してしまう。
しかしリネッタに託けられたように、精神が不安定なベアトリスを突き放すこともできない。
「ベアトの言うとおり、昔はベアトの優しさに俺が頼っていたから……正直、弱々しいベアトを前にするとどうすればいいかわからない」
「……」
「俺が知っているのは、昔のベアトでしかないんだということが改めてわかった」
「! それ、どういう意味? ……何が言いたいの?」
ベアトリスの表情が突き放された子供のように青ざめる。シルビオは宥めるように優しい目つきでベアトリスと向き合って続けた。
「悪い意味ではない。だが、ベアトは他の国に行き、俺はこの国で王子として育ち、一緒に過ごした日々以上の時間を費やした。俺を頼りにしてくれるのは嬉しいが、俺たちの関係性は昔とは大きく変わっているというのはベアトももうわかっていることだろう」
「わか……わかっている、けど、でもそれ以上に私たちはもっと深い繋がりがあるじゃない! だから誰にも打ち明けられないことだって、シルビオだけには言えるって……私の拠り所なんだって、思って……」
「母君にも言えないのか」
「…………言えない、言えるわけない」
否定するベアトリスの瞳は翳る。
「だが、辛い時期も共に超えて一緒に帰ってきたくらいだ、俺以上に分かち合えるものもあるんじゃないか…?」
違和感を逃さなかったシルビオが問えばベアトリスは眉を顰めて外方を向く。
「……わからない。お母様が何を考えているのか、私には……」
そして今更ながら、この部屋にベアトリスの母であるネビアが居ないことに気づいた。
あえて席を外しているのではなく、最初からいなかったのだと。
シルビオは思わず腰を上げて、部屋を見回す。ネビアが使っているであろう私物は見当たらず、痕跡もなく、前に訪れた際に見えた部屋の様子とは雰囲気が違っていた。
「この部屋で一緒に住んでいたんじゃないのか?」
「最初は一緒だったわ。でもちょっと前から寝泊まりは別なの」
「……? それなら、どちらに?」
「さあ。なんだか忙しそうだけど、詳しいことはわからないわ」
他人事のように言い切るベアトリスの声色からは、無関心すら感じられた。
「私が聖女じゃなくなったから、捨てたのよ」
小さくつぶやかれたその言葉は、まるでゴミ箱に物を投げ入れる時と同じように、静かな部屋に放り出された。
そんなことない、なんてシルビオは無責任に言えない。
二人のことは二人の間でしかわからないことであり、自分と母親の関係性を引き合いに出しても、シルビオ自身がベアトリスに言い張ったように、二人とその周りの環境には大きな違いがある。
「そんなに聖女じゃないとダメ?」
シルビオもそうなの?と言いたげな瞳で見上げるベアトリスは、昔恋焦がれた時よりも幼く見えた。
———いや、もしかしたら。今目の前にいる姿こそが本当の……。
変わってしまったのではなく、ただ、知らなかっただけなのかもしれない。シルビオは床に膝をつき、肩を落として座るベアトリスを覗き込むような形になった。
「今は一時的に力を失っているだけで、聖女である事実は揺るがない」
「一生力が戻らなかったら、その時は私は何者になるの?」
「それは、ベアト自身が決めることだ。他の誰が決めるものでもない」
「……!」
ベアトリスはもはや、誰かに意見を委ねたかった。シルビオしかいなかった。
けれどシルビオは、ベアトリス自身が思考することを望んだ。ベアトリスも、そんな意見は想像していなかったのだろう、驚いたように目を見開いている。
「……そんなの、初めて言われた」
リネッタに聖女でいろと言われた時は、重圧を言葉にされたようで苦しかった。だからシルビオに救いを求めた。シルビオに従えばいい。今までだってそうして彼の望む姿でいたかったから。
けれども、シルビオの言葉は、ベアトリスを聖女というしがらみから解放してくれる以上に、もっと広く、当てのない荒野に彼女を置いていったようにベアトリスは感じた。
温もりを与えられなかった時の寂寥感よりもずっと空虚な気持ちになった。
「俺は、ベアトの人生の責任を負うことはできない。少なくとも、今の関係では」
「……」
「だからこう言うしかない。どうか、ベアトが自分でどうしたいかを決めてくれ。それが決まったら、俺も、城のみんなも、この国の人々も、ベアトを助けるために動こう」
「それは、私が聖女だから…?」
「そうだ。だが少なくとも、俺とリネッタは、ベアトのために力になりたいと願っているよ」
「…………嘘。リネッタさんは、私のことなんか嫌いよ。私は嫌いな人のために力を貸すなんてしないもの」
呆れ顔で乾いた笑いをこぼしたベアトリスは、静かに立ち上がって窓の方に歩み寄った。
シルビオも立ち上がり彼女の背中を見守る。
「でも、ありがとう」
か細く、ベアトリスは背中を向けたままそう呟いた。
「一つだけ、お願い。もし力が戻らないまま大勢の人の前に立つ時があったら、その時は隣に居て。私を、シルビオの隣に置いて。でないと怖い……」
取り繕うことなく震えた声で懇願するベアトリスは、ドレスをぎゅっと握りしめていた。
「………わかった」
シルビオの返事を聞いて、ほっとするも、舞い上がることはない。ベアトリスはもう一度項垂れて、外の景色を眺める。
声色だけ明るくして「長々とごめんなさい!」と言った。
「予定があるのに引き止めてしまったわね。私もちょっと疲れちゃったから、今日はおしまいにしましょう」
「うん。でもベアト、何かあったらすぐに…」
「ええ連絡するから! それじゃあ……」
見送ることもなく、ベアトリスは窓のそばから動かなかった。
シルビオもその様子からベアトリスの傷心と困惑を察し、静かに部屋を立ち去った。
部屋の前には厳粛なままついてきた騎士たちが待っていた。「待たせてすまなかった」と声をかければ「とんでもないです」と姿勢を正す。
「聖堂長の元に向かう。一人ついてきてくれればいい。一人は……ベアトリスの母君について調査を頼みたい。彼女の居場所と行動について何か手がかりを掴んでくれればいい」
「では自分が調査に参ります」
「助かる」
一人の騎士はその場でシルビオたちとの行動を別にし、聖堂内で二手に分かれた。
聖堂長との確認事項や話し合いを終え、さらに元々あった政務を行ううちに、すっかり夜遅くとなった。
シルビオが王宮に帰還したのも星明かりが一番明るい時間であった。
一度部屋に戻り外で使用した衣服をメイドたちに預けると、室内着に着替えてもう一度部屋から出ようとするものだから、メイド長が「殿下どちらに?」と声をかける。
「リネッタのところに。今日のことを報告したくて」
「あら、ちょっと何時だと思っていらっしゃるのです!? リネッタ様だってご就寝済みですよ」
「え、あ……」
それもそうか、と気づいたシルビオは、改めて時計を見た。やっと自分が今どの時間にいるのかを把握した気持ちになって思わずぎょっとした。
そして、リネッタに会いに行くという予定が消えてしまい、ふう、とため息が漏れてしまった。
メイド長はそんなシルビオを見て口角がにんまりと上がる。
「……どうかしたのか……?」
「いいえいいえ〜。殿下は本当に、わかりやすいなと思いまして」
「……?」
「お休みの準備はできていますから、私も戻りますね。それでは失礼いたします」
パタン、と扉が閉まり、納得のいかない顔のままシルビオは少し首を傾げるのだった。




