39 祈りの特権
イバルリ環境大臣が要請した増員のおかげで作業のスピードが倍になり、ある程度池にあったゴミは片付けられた。そこまで広くも深くもない池だったことが幸いし、日が傾く前に終了となった。
「皆様ありがとうございます! お疲れ様でした!」
リネッタがとびきりの笑顔で言えば、全員が達成感で満たされて、彼女と同じように笑顔になった。
手伝いに来てくれた一般市民たちはバロンにサインを求めたり握手を求めたりとすっかりファン仕草をしている。ここにいる市民の人々は、まだリネッタがどのような身分なのかは知らずにいるようだ。しかし余計な混乱を生むわけにもいかないため、リネッタたちは黙ったままでバロンが囲まれる様子を眺めつつ控えていた。
「リク……結局最後まで付き合わせてごめんなさい」
隣で腕巻くりを戻すリクに、リネッタは申し訳なく声をかけた。しかしリクは眉尻の下がった穏やかな表情のまま軽く首を横に振る。
「いえ、手伝わない方が失礼ですから。予定に戻ってここから別行動としましょう。僕は一度帰って着替えてきますね」
ひどい匂いですから、と困ったように笑って、リネッタもつい自分の服についた匂いを確認して眉を顰めた。リクがそんな仕草に対して少し声に出して笑うと、それじゃあ、と微笑んでその場を後にした。
ならば自分たちも…と、リネッタがマテオに目配せをしていたら、イバルリ環境大臣がリネッタに近寄って声をかけた。
「リネッタ様、改めて礼を申し上げます。我々が本来は率先してやらねばならないところを指示していただき、誠にありがとうございました」
「いえ…! こちらこそ、出しゃばったことをしてしまい、予定を狂わせてしまいました。ご迷惑だったでしょうに、迅速に増員の手配など、対応していただき言葉もありません」
二人して深く頭を下げることとなり、お互い謙遜し合った。
「……本来は、貴女様のように、ひたすら目の前の問題を迅速に解決していくことが大事だというのに」
イバルリ環境大臣はまるで独り言のようにくぐもった声で言った。自責の念と後悔に似た表情を浮かべている。
「優先順位をつける聖女様に従い、この場所を後手に回していたことを改めて恥じました。公園使用者の秩序の乱れも、近隣の方が悩む異臭騒ぎも、この取り組みをしたことで初めて大きな問題と気づきました。もっと早く動いていればと思わされます」
「……優先順位、というのは、どういうことでしょう」
頭を下げるイバルリ環境大臣に対してリネッタが問う。イバルリ環境大臣は愚かなことだとでも言いたげに、乾いた笑いを漏らして続けた。
「聖女様は我々が浄化の要請をした際に、こちらが提示した順序とは違う優先順位をつけていらしていたのです。なんでも、その方が王子殿下が喜ぶだろうから、と、おっしゃっていたのですが……当の殿下が指示したわけでもなく聖女様の独断だったようで、正直我々には理解が及ばず…。しかし彼女のお力は唯一無二ですから、下手にこちらも口出しができなかったのです。本来浄化作業も、もっと早くに王都全域を巡る予定でしたが、個人的な用事とやらで思うように進まず、問題を放置してしまう結果になってしまったのです」
イバルリ環境大臣の言葉を聞いて、リネッタの表情が僅かにしかめられた。
「それはつまり、ベアトリス様が原因で汚染水問題を片付けられない、ということでしょうか」
リネッタの包み隠さない要約に、聖女への不敬をあらわにすることを恐れたイバルリ環境大臣が言い淀むが、相手がシルビオの婚約者としてベアトリスと争っている立場であるリネッタであることから、「そうとも、言えますかな……」と肯定するに至った。
「けれど、今日がきっかけで聖女様頼りもやめられますね」
打って変わってニコリと花やぐような笑顔を浮かべたリネッタは、少し強めの語気でそう言った。
笑顔に安心したかと思いきや、トゲを感じたイバルリ環境大臣は、苦笑で返事をするにとどまる。そんな彼の戸惑いをいいことに、リネッタは続けた。
「たしかにベアトリス様のご判断が皆様を惑わせ、この池のように問題を大きくする要因となったでしょう。しかし彼女がいなくても、聖女様のような特別な力がない一般市民でも、こうして問題の軽減ができました。そうですね?」
「……え、ええ……そうですな…」
「イバルリ環境大臣様。私は貴方様のご息女であられるロマリア様のことを尊敬しております。そんな彼女が誇れるような立派なお父上として職務を全うされることを私も期待しております」
「……!」
リネッタは一国の姫であり、現時点では次期ルナーラ王妃の筆頭である。
歳が30程離れていたとしても、イバルリ環境大臣はリネッタのまっすぐな視線に気圧され、口をつぐんだ。
「そーよ、お父様。誰かの顔色を窺うような真似はやめてちょうだいっていつも言ってるじゃない」
「え!? ロ、ロマリア…!?」
イバルリ環境大臣とリネッタが口を大きく開けて意外な登場に驚いていると、ロマリアの名前を聞きつけたバロンが人の隙間をさっさと抜けて「ロマリア〜!」と大型犬のように抱きついた。
ロマリアはなんでもないように、余裕の笑みを浮かべながらバロンの後頭部を一撫でした。
「ロマリア様は、なぜこちらに……」
「バロンと約束をして待っていたのだけれど、ここでの処理を終わらせてからって伝言をもらったから来たの」
約束、と聞いてリネッタの顔色が青くなるが、すぐさま「いいのいいの」と謝ろうとするリネッタをロマリアは制した。
「それよりも、あの子が先ほどからアナタに話しかけたそうにしていたから聞いてあげて」
「え…?」
ロマリアがくいっと顎で指し示した先を見ると、背の高い女性と目が合い、女性は突然注目されたことに驚いてかビクリと肩を跳ねさせた。
「あ……」
リネッタはその女性の顔を覚えていた。
ロマリアが父と旦那を両腕に掴んで踵を返すと、リネッタは逆に女性の方へと足を踏み出した。
「こんにちは、お花屋さんの店員さんですよね?」
「おっ、おぼえて……」
背の高い女性は、数年前、シルビオの好きな花の名前を知りたくて立ち寄った花屋の店員だった。
そして、婚約者騒動が引き起こした一般市民による正門前のデモ隊に参加していた一人でもあった。
女性がどこか怯えた視線でリネッタを見るのはそのためだったが、リネッタは華やかな笑顔で彼女に顔を向けるので、だんだんと恐怖心が薄れたようだった。
そして今度は、罪悪感に見舞われて表情を暗くし、影を落とした。
「………子供が、前に間違って、この池に落ちて……」
女性は少し低い抑えた声色で語り始める。
「その時に、病気をもらったのか、いまだに寝込んでしまっていて……」
「………」
子供を思い出してか、悲しげに瞳を揺らしてさらに背を丸める女性。リネッタは彼女の表情を捉えたまま、そんな背中に手を回して温度を分け与える。
「そんなこともあって、聖女様が十分に活動できていないのは、婚約騒動のせいだと、思っていて……それで、わたし、あの時抗議に参加して……」
そこでリネッタは初めてこの女性が正門前の集団の一部であったことを思い出す。声をあげている人々の後ろで、怯えた目つきをしていながらも何かを訴えようとこちらを射抜く視線をしていた。確かに、花屋に似ていると思っていた。
「改めてこの池の惨状を正式に報告すれば、聖女様が動いてくれるんじゃないかと思って、こちらに来たんです。そしたら……貴女が頑張ってくれていて…わたし、二度も貴女の行動や言葉に救われているのに、何もできないどころか傷つけるような真似をしてしまって……っ」
女性は眉間に皺を寄せ、堪えるように堪えるようにしながらも不甲斐なさを拭えず、涙が溢れた。
「……どんな立場の人であれど、それぞれがどういった事情を抱えて生きているかなんて、自分の目で見なければわかりません」
けれど、とリネッタは続ける。
「貴女が……ご自分の目で私を見て、頑張っているのだと、信頼してくれるのだと思ってくれたのなら、これ以上嬉しいことはありません。間違ったことをしたわけではなく、全て貴女の中の善意と正義が生んだ行動なのですから、ご自分を責めないでください」
「……!」
「息子さんの容体は快方に向かっているのですか…?」
「…は、はい、前よりは……でも、まだ時間はかかりそうです…」
「困ったことがあればいつでも王宮の方に訪ねてください。それと……再浄化の水が市民の皆様に早く巡るように、私も尽力いたしますから」
再浄化の水の普及を実現させるには、ベアトリスの力を取り戻すことが鍵になる。
リネッタの言葉を受けて明るい表情を取り戻した女性が、感謝を持って頷くのを笑顔で受け止めると、リネッタは再度、これから自分はどう動けばいいのかということを考え始めた。
「姫様、そろそろ」
「うん」
マテオが声をかけ、それじゃあと手を振ると、女性はその手に触れるくらいの距離で「あの」と手を伸ばして言う。
「お、お詫びになるかはわかりませんが、ひ……姫様が気になっていた白い花……いつでもお包みします。ぜひまた、いらしてください」
白い花とは、シルビオが好きだと言っていた花のことだ。リネッタの頬がほんのりと赤らむ。
「ありがとう!」
そして花のような笑顔を向けて、リネッタは公園を後にした。
***
シルビオは聖堂の裏門から入り、聖堂長に話を通して聖堂入出用の鍵を受け取り、ベアトリスの部屋の前に立つと小さくため息をこぼした。
リンリンと可憐な音を鳴らすドアベルを響かせると、少しの間を空けてからゆっくりと扉が開かれた。
扉の隙間からシルビオの姿を確認すると、打って変わって勢いよく開かれる。
「シルビオ…!!」
ベアトリスが惜しみなく強くシルビオに抱きつき、シルビオは行き場のない両手を泳がせた。シルビオの背後には騎士が二人控えているのだが、彼らの存在など眼中にないようだ。
「もう、もう会えないのかと思っていたの。来てくれて嬉しい。でもどうして?」
シルビオの肩に手を置き、潤んだ瞳で覗き込むベアトリスは、シルビオから見れば親に置いてかれた子供のような寂しさを想像させた。
「…ベアトの力が取り戻せるように、何か力になれることがあればと思って」
それを指示したのはリネッタなのだということは当然伏せて、シルビオは答える。
シルビオが自主的に自分を心配してくれたのだと考えたベアトリスは、ぽろっと涙をこぼしながらも満面の笑みを浮かべて「嬉しい…!」と喜びを噛み締めた。
「部屋に入ってお茶にしましょう。ゆっくりしていける?」
「ゆっくりはできないかな…この後も予定があるから」
「でもお茶を飲む時間くらいはあるでしょう?」
「そうだね。ベアトの現状も色々知っておきたいし」
ウキウキとしたベアトリスに手を引かれて、シルビオが部屋に入る。彼に付き従って当然のように騎士たちも入室しようとしたが、「二人はダメよ」とベアトリスが声で制した。
「聖女の部屋は限られた人しか入室できない決まりなの。騎士は外で控えてちょうだい」
「………かしこまりました」
聖女の重みは格別である。幼い頃からの仲であるということもあり危険はないだろうと判断したシルビオも、これ以上彼女のストレスになるようなことは避けたく、口を挟まずに従わせた。
思い通りになったことで再び笑顔を取り戻しシルビオの方を振り返るベアトリス。
「どのお茶を淹れようかしら」
という声を残して、扉は固く閉ざされた。




