つらら城の花嫁 1
ふわり、ふわりと、雪が降ってくる。辺り一面に広がる、銀世界。
イクサ帝国の北端にあたるこの地方では、永遠に付き合うことになる景色である。
《氷砕き》スルロフにとっても見慣れたもので、勇士として他の土地を訪れた時は、雪の無い世界に驚いたものだ。
街から少し離れた、林の中。疎らに生えた、槍のような針葉樹樹林に囲まれながら、スルロフは仲間たちとともに魔物退治に勤しんでいた。
「うっひゃあ、怖えーっ!」
と、林の奥から駆けてくるのは、赤と黄色の派手な髪をした少年だ。首から下には、魔法使いらしい青い落ち着いた色のコートを着ている。
彼の名は、《花火士》リザン―――その背中を、足元の雪を蹴散らして追いかける巨影。
白熊であった。
頭部や前足に氷の装甲を身に着けた、アイスベルガーと呼ばれる魔物。
この辺りでは、一番の大物と言えるだろう。
雪を蹴散らし、木々を容易く薙ぎ倒して迫るアイスベルガーに、リザンは時折振り返りながら、指先から光弾を発射している。
それは魔物の顔や肩に当たっては弾けて、色とりどりの光をまき散らす。
花火玉と本人が呼んでいる魔法であり、本来は色と音で人を楽しませる曲芸の類なのだという。
それ故か殺傷力はやや低く、何発受けてもアイスベルガーにダメージは無い。
「クリマルさんっ! 頼みますっ!」
リザンがそう叫べば、どこからともなく声が返る。
「……でかい声を出さなくても、聞こえている」
木陰から岩陰へ、岩陰から木陰へ。足跡すら残さず、跳び移る人影。
途端に、アイスベルガーが動きを止める。
走るため前足を振り上げた姿勢のまま、何が起こっているかもわからず、混乱して吠える。
雲間から僅かに通る陽光が、気まぐれのように映し出すは空間に走る細い線。不可思議の正体は、毛よりも細く、そして強靭無比な糸。
ーーーグォオオオッ!?
糸に絡め取られたアイスベルガーの背中の上に立つ、痩せぎすの男。
黒と黄の忍び装束を纏う《闇蜘蛛》クリマルは、つまらなさそうに息を吐く。
「うるさくてかなわん。スルロフ、さっさと仕留めろ」
「ああ」と、スルロフは長い柄を握り締めた。
ウォーピック。重い頭と、鋭い先端を持つそれは、彼を≪氷砕き≫たらしめる武器だ。
底に滑り止めスパイクの生えたブーツで雪を踏み締め、スルロフは猛牛の力強さで駆け出した。
船の錨と同等の重さのウォーピックを、すいと振り上げる。こ
れこそ、一番威力の出る使い方だが。
(動く相手に当てるとなると、一苦労だな)
リザンが誘導し、クリマルが拘束する。
これらの手順が無ければ、唾を吐き散らし、血走った目で睨んでくるアイスベルガーの頭を正確に狙うのは難しかっただろう。
仲間たちへの感謝と、魔物への僅かな申し訳なさとともに、スルロフはウォーピックを力一杯振り下ろした。
鋭い先端が、額を覆う装甲を紙のように貫きーーーそれでもなお余りある力が、熊そのものな頭部を完全に粉砕した。
「ひょー、さっすがスルロフさん。今日も今日とて豪快ですなあ」
両手を頭の後ろにやりながら、リザンが歩み寄ってくる。
明るい少年だ。高名な軍用魔法使いの家に生まれ、しかし花火で人を楽しませる道を選んだが故に疎まれたという来歴など考えられないほどに。
「リザンが気を散らしてくれたからだ」
「……そして、僕の糸があればこそ、だろう」
スルロフの言葉尻を取るかのように、自身の功績を主張する声は、すく後ろから聞こえた。
目元の開いた覆面から覗く、赤い瞳と暗灰色の髪。
海を越えた遠い島国からやって来たクリマルの過去は、本人が語ろうとはしない。
たった一筋で巨岩を吊り上げて千切れない糸には、技を磨き上げた誇りと、微かな罪悪感が影のように纏わりついていた。
「へへっ。腕の良い兄貴たちがいて、俺は幸せもんですよ」
「まったく。お前らと来たら、僕がいなければ始まらないときたものだ……」
リザンが呑気に笑えば、クリマルが両腕を胸の前で組んで鼻を鳴らす。
彼らと組んで、日常となったその光景に、スルロフは微笑する。
「ああ、二人とも頼りにしている」
それは、心よりの言葉だった。
スルロフは、口数の多い方では無かったが、その分喋る時は大事なことを伝えるよう努めていた。
「照れますね」とリザンが頬を掻く。
「言われるまでもない……」とクリマルが呟く。
「兄さん!」
その時、後ろから聞こえる声。耳朶に馴染んだそれに、スルロフは振り返った。
癖のある白い髪。澄んだ水色の瞳。コートを着た少女が、馴鹿に牽かせたソリに乗ってやってくる。
スルロフの妹、キオだ。近くにある町の、父母が遺してくれた家に同居している。
「キオ。危ないだろう、一人で」
馴鹿の頭を撫でながら、スルロフは顔をしかめた。
定期的な駆除により周辺の魔物を減らしてはいるが、勇士でもない少女にとって危険には違いない。
「兄さんたちががんばってるから大丈夫よ」
ソリから降りたキオは、何でもないかのようににこりと笑った。
数年前、両親を流行り病で亡くしてからは長くふさぎ込んでいたが、今では何とか立ち直ってくれた。
彼女の笑顔を見ると、スルロフは心底から安心できるのだ。地元に常駐させてくれた勇者には、感謝の念が絶えない。
「よ、妹ちゃん!」
リザンが片手を上げて挨拶する。
「あっ……ッス……」
クリマルがぼそぼそと何かつぶやいた。
どうしてか、彼はキオを前にするとやたら声が小さくなるのである。
「二人もお疲れ様。お弁当持って来たの」
そう言って、キオがソリに積んでいた荷物を下ろす。
バスケットと、お茶を積めた保温容器。
「いやー、嬉しいな。妹ちゃんのご飯はうまいですからね!」
「……ざ、ッス……」
「ふふ、ちゃんとみんなが好きなの入れたのよ」
わいわいと盛り上がる三人を、スルロフは目を細めて眺めていた。
出会って以来、皆仲良くやっている。リザンは、大地を染める雪化粧に驚きながらも、雪掻きなど元気に取り組んでいる。
クリマルはしばらくは寒さにぶつぶつと文句を言っていたが、今はなんとなく馴染んでおり、たまに暖炉の前で猫を撫でている姿が目撃されている。キオの前で挙動不審になる理由は、未だに謎である。
妹と、仲間の勇士たち。これが、今のスルロフの家族だった。
(悪い気分ではないな)
ただ生きることすら多大な努力が必要な世界にあって、幸せがあるとするならば、その一つは家族と過ごせることだろう。幸運なことに、スルロフはそれに恵まれていた。
―――ただし、そんなものは薄氷のように容易く踏み割られてしまう世界なのだけれど。
始まりは、ずしん、と揺れる地面だった。
「きゃっ!?」と倒れかけたキオを、クリマルが抱き止める。
「な、なんだあ?」
目を丸くしたリザンが辺りを見渡す。
「地震か……?」
そう言ったスルロフは、しかし違和感を拭い去ることができなかった。
この辺りは地震の少ない地域である。スルロフが生まれて二十年と少し、起きたのは片手で数えられる回数だ。
そして、背筋を這い回る悪寒。両親が息を引き取った夜にも、同じものを感じた。
「おい。なんだ、あれ」
キオを支えていたクリマルが、震えた指で示す方を見る。
林から、やや離れた丘。そこから、氷柱が突き出していた。
氷柱そのものは、この地方では珍しくもなんともない。朝になれば、屋根から無数に生えてくる。
だが。
それが綺麗な直角にて構成されており、なおかつそこらの家屋よりも遥かに大きいとしたら。
それは、確実に異常事態だ。
「こいつは、たまげた……」
呻くリザンの視線の先で、氷柱が成長してゆく。
あっという間に見上げる程の高さとなり、根元から先端にかけて、棘のごとく大小の氷柱が生えてくる。
自然現象の野放図さは、そこには無い。一寸の狂いもない左右対称のデザインは、明らかに何らかの意志が働いていた。
「氷の……城?」
スルロフは、思わずそう口走った。寒いはずなのに、汗が止まらない。
一見、美しくすらあるその氷柱群。だが、その奥から感じるのは、言い様の無い禍々しさ。
後に、つらら城と呼ばれるようになるその建造物の出現こそが、スルロフを苦しめる悪夢の始まりだった。




