閑話・狩谷太悟は勇者じゃない
昼下がりの教室。
狩谷太悟は、自分の席で頬杖を突き、窓の外を見ていた。
晴れとも曇りとも言えない空にUFOは浮かんでいないし、グラウンドにゾンビが溢れてもいない。
ほぼ百%の確率で何事もなく終わってゆく、平凡な一日だ。
「じゃ、テスト返すぞー。わかってると思うが平均点以下の奴は、先生と熱い補習だからなー」
数学の教師が、いつものように気怠げな声で告げた。クラス内のあちこちで笑い混じりの悲鳴が上がる。
太悟は、特に騒ぎはしなかった。全問正解とはいかないが、そこそこの点数を取れた確信がある。
名前を呼ばれ、前に出る。教師が差し出してきた答案用紙を受け取り、ざっと目を通す。
思った通り、そこそこだ。
「ダイちゃん、どうだった?」
隣の席の友人が聞いてくるのを、太悟は用紙をひらひらさせながら応じる。
「七十点」
「うわーフツー。ネタにもならない点数」
「うっせ。そっちは?」
「んんっ……! ど、どーせ数学なんて大人になったら使わねーし!?」
「震え声」
目を逸らす友人に、太悟は笑った。
高校に入ってからの友人関係だが、それなりに仲良くしている。
一緒に家でゲームをしたり、遊びに行ったり。こうして軽口を叩き合える、そんな仲だった。
「カズキくん百点だったんだー! すごーい!」
「……学校のテストなんて、授業受けてりゃ簡単だろ」
「ゲーッ! また赤点じゃねーか!!」
「あんた、まだおばさんにお小遣い抜きにされるわよ? 次はテスト前にあたしと勉強しましょ」
一方、恋人同士及び、友達以上恋人未満な連中がいちゃついている。
満点も赤点もダシでしかないようだ。太悟がちょっとむずむずとしたものを感じていると、傍で歯軋りの音。
友人が、惨殺されて化けて出た怨霊のような顔をしていた。
「ンギィッ……ギギギィイイ……リア充に爆発あれ……!!」
「先にお前の方が爆発四散しそうだよ」
それから、特に隕石が落ちてくることもなく、クラスで異世界転移することもなく、太悟たちは平和に放課後を迎えた。
部活をしていない二人は、帰り支度を済ませると、連れ立って教室を出る。
燃えるような夕日が世界を照らす中、サッカー部や野球部の部員たちが声を掛け合っている。これからが本番のグラウンドを横目に、友人がぼやく。
「あー! 運動部でかわいいマネージャーと熱く汗を流す人生送りたかったなー!」
「やめてよ道端で大声出すの……入ればよかったじゃん。中学までは野球やってたんでしょ?」
太悟も友人も、立派な帰宅部である。残念ながら、かわいいマネージャーは付属していない。
「きつい練習の成果が尻でベンチ温めるポジションじゃなかったら高校でも入ってたぜ。ダイちゃんは興味なかったんか?」
問われて、太悟は顔を強張らせた。
スポーツに打ち込む自分を、想像したことが無いわけではない。
だが、
「……うちは、ユニフォームとかでお金がかかる部活とかは禁止だからね」
「なんだそりゃ」
ただし、自分だけが。
その言葉を飲み込んで、太悟は苦笑を浮かべた。使い古しのスクールバッグが、軋んで音を出す。
友人もそれ以上は追及してこず、代わりに大きく溜め息をつく。
「あーあ。その辺の草むらから俺に恋する女の子が飛び出してきて、手作り弁当とかくれないかなあ」
「飛び出してきたとしても、それで始まるのはラブコメじゃなくてサイコホラーだろ」
実際、見知らぬ相手からもらった手作りの何かを口にするのは、なかなかに無謀だろう。
何が入っているかわかったものじゃなくて怖い……というのは、太悟がもらったことがないからだろうか。
「てか、なんでそんなに彼女欲しいんだよ」
「ああん? じゃーチミは欲しくないとでもゆーのかね? 青春に一輪の花を飾りたくないと?」
「いや、そりゃ……興味ないわけじゃないけど」
「いいか? 恋人ってもんは、親とか兄弟とかとはぜんぜん違うんだよ」
大仰な身振り手振りを加えて、友人が熱く語りだす。
自転車通学の生徒が、何事かと二度見三度見しながら走り去っていった。
「赤の他人が、行くとこまで行きゃ結婚して新しい家族になるんだぜ。そんなもん、特別な相手じゃないとできないだろ」
友人がこちらを向く。夕陽を受けたその顔は、真剣だった。
「俺は目からビーム出なくてもいいし、空も飛べなくていい。たった一人にとっての、一番特別な人間になりてえ」
友人と別れた太悟は、マンションにある自宅に帰って来ていた。
特別な人間になりたい―――その言葉が、何時までも頭の中に居座っている。
解錠し、ドアを開ける。出迎えたのは、冷え冷えとした闇。
家の中には、誰もいなかった。
「………」
溜息をつきながら、太悟は靴を脱ぎ、明かりを点けてリビングに入った。
食卓の上に、無造作に投げられた千円札。
それが、今夜の太悟の食事だ。
「今頃は、兄貴のお祝い、か……」
手に取った千円札をひらひらとさせて、太悟は独り言ちた。
志望している大学に受かったから兄と、それに狂喜した母は、仕事から早めに帰った父と合流し、どこぞで祝賀会を開いている。
そこに、太悟の席は存在しない。いつものことだが。
(駅まで行って、ハンバーガーでも食うか。余ったお金で……そうだ、新刊出てたっけ)
特に怒ることもなく、太悟は私服に着替え、再度家を出た。
駅近くのファーストフード店で夕食をとり、ついでに本屋に寄って帰る。
八時近くになるが、祝賀会はまだまだ盛り上がっているらしい。家族は、誰も帰ってはいなかった。
玄関に入ってすぐ左、自分の部屋に入る。ちなみに、向かいには兄の部屋がある。
ベッドと勉強机、本棚と備え付けのクローゼットと、面白みのない室内。表彰状の類は一切ない。
さっさと宿題を片付けて、ベッドの上に寝転ぶ。
先程買った漫画のページを、ぺらぺらとめくる。好きな作品のはずなのに、惰性で目を通しているかのような倦怠感があった。
皆が大好き、ファンタジックな物語。
明るく元気で人を惹き付ける勇者が、仲間とともに努力を重ねて敵に勝利する。
(僕とは大違いだな)
苦笑いとともに、太悟は本を閉じた。
大抵の漫画やアニメ、ゲームの主人公の周りには、彼もしくは彼女を慕って人が集まる。メタ的な話をすれば、そうでなければ文字通り話にならないからだろう。
しかし実際、目に見える結果を出す人間は、多くの人々に好かれるに違いない。
(たとえば、兄貴のような)
勉強もスポーツも人並み以上にできる兄を、両親は殊更可愛がっている。
一方で、おまけについてきた別段取り柄のない次男にかける手間を省くのは、当然の成り行きだった。
虐待やネグレクトを受けているわけではない。こうして部屋もあるし、食べさせてもらえている。
けれど、母親に弁当を作ってもらったことはないし、父親とキャッチボールをしたこともない。
両親の影響を受けてか、兄もさして弟を気にかけてはいなかった。飽きっぽいため、最新のゲームでもすぐお下がりをもらえるのは良いことだろうか。
何もかもが最低限。親の義務として、とりあえず生かされている。
それが狩谷太悟だ。
(……それでも、昔はもう少し期待してたっけ)
小学生の頃。家族の冷ややかさに耐えかねて、太悟はちょっとした家出をした。
拙い書置きを食卓に置いて、家からさほど離れていない河川敷の橋の下で、夜中の九時まで過ごしたのだ。
心配して探しに来てくれた家族と抱き合い、愛情を再確認し、新たな明日を迎える。今にして思えば、漫画の読み過ぎだった。
作戦は失敗に終わった。
そもそも太悟が家出したことに誰も気付いていなかったのだから、お話にもならない。
書置きはゴミと間違えられて捨てられていた。
それからも、いろんなことをやった。
家のことを手伝ったり、勉強もがんばった。けれど、どれもこれもうまくいかない。
無関心という関係は何も変わらないまま、現在まで続いている。
(……まあ、生きていられるだけ良い方だ、きっと)
世の中、もっと恵まれない人間は大勢いる。
例えば内戦などが起きている国では、太悟の悩みなど吹けば飛ぶ埃のようなものだ。
拘束されているわけではなく、学校にも通えている。道を歩いていて銃弾が飛んでくる心配をする必要もない。
ああ、素晴らしきかな、人生。
(だけど僕は、特別じゃない)
せめて血の繋がった家族にとって、特別な存在でありたい。それは、贅沢な悩みなのだろうか。
家族に大切に思ってもらうために、特別な何かが必要なのだとしたら、平凡なる太悟にはどうしようもない。
だからきっと、太悟は永遠に、特別にはなれない。
「………」
傍にあった漫画を手に取る。運命に導かれた勇者が、世界を救う物語。
勇者。そんな特別な人間になれば、愛してくれる誰かもいるだろうか。
馬鹿な、と太悟は苦笑した。もう、そんな妄想に縋るような年齢ではない。
(二年になれば、バイトができるようになる。それでお金貯めて、自立して………)
「――――狩谷太悟。あなたには、勇者の素質があります」
それは幻聴でも何でもなく、しっかりとした声として、太悟の耳朶を叩いた。
聞いたことのない声。心臓が跳ねる。
すぐさま飛び起き、ベッドの上から転げ落ちた太悟の目に映ったのは、女神だった。
女神としか、言いようがなかった。
美しい金髪を腰まで伸ばし、透き通った青い瞳でこちらを見つめてくる。
憂いを帯びたその貌は、神々しいまでに美しい。
純白の衣装に身を包んだ彼女は、その背に光り輝く翼を背負っていた。
太悟は息を呑んだ。ドッキリの類である可能性は、まったく頭に無かった。
この存在をそんなことに雇おうと言うのなら、何億、何兆という額を提示しても不可能だろう。
彼女が超越者であることを、太悟は、太悟の魂は疑っていない。
雲一つない青空。
雄大なる大地。
どこまでも続く大海原。
それらを目にした時のような、何とも言えない畏敬の念が湧き上がってくる。
あと、下に伸ばした爪先が、床についていない。
種も仕掛けもなく浮遊している。
「ゆ……勇者? 僕が……」
困惑したまま、太悟が言葉を絞り出した。
女神は頷き、語り出した。
「私の名はサンルーチェ。私の世界は今、魔王が放った恐るべき魔物たちによって攻撃されています。奴らを倒すためには、異世界の人間……あなたの力が必要なのです」
必要。その言葉に、太悟の胸が高鳴った。
試しに頬を抓る。痛いし、目が覚める気配もない。
これは、夢ではない。
困惑する太悟に、女神は語る。
地球を離れ、自らが治める世界で勇者になってほしいと。
「どうか、お願いします。勇者となって戦士たちを率い、我々の世界を救ってください……」
創作において、異世界への転移を―――逃げる、と評する者もいる。
だが、実際にそのチャンスを与えられた時。心が動かないことがあるだろうか?
それに。
(世界を救ったら……みんな少しは、僕のことを見てくれるのかな)
そして太悟は、平和で退屈で、何もない日常から飛び出した。
狩谷家の人間が、次男の失踪に気付いたのは翌日。学校から電話がかかってきてからのことだった。




