勇者のお仕事9
「ルドナさん、立てますか?」
厳めしい兜の下から聞こえる声は、たしかにルドナも知る勇者のものだった。
だが、纏う雰囲気は、子供たちに笑いかけていた時とはまったく違う。
硬く鋭く、敵を前に緊張はしているが混乱はしていない。自分がすべきことを、完全に理解している。
まるで、傭兵として戦っていた、かつての自分のように。
ルドナは、自分の肌が粟立つのを感じた。
「……すまない。足をやられちまった」
「フィンは? 怪我はしていない?」
「だ、大丈夫……司祭さまが助けてくれたから……」
ルドナの胸の中で、フィンが答える。
「二人とも、そこから動かないで」
魔物を牽制しつつ、太悟が言う。
ルドナは、微塵も不安を感じなかった。太悟の声が落ち着いていたからだ。
恐怖や怯えは伝搬する。震えた声は、肩を並べる者も怖気させるのだ。
太悟が戦う人間であることは、ルドナも知っていた。
けれど、この年齢でここまでの熟成を見せるなら、彼は一体何を経験してきたのだろう。
――――ブルルルルゥッ……
バーンフォークが、苛立たしげに唸る。
燃える角を振り、蹄で地面を掻き、しかし襲いかかっては来ない。
明らかに、目の前にいる男を警戒していた。無力な人間を焼き殺すのとは、まったく話が違う、と。
そして、太悟が動く。挑発するかのように斧を旋回させながらの横歩き。
釣られて、バーンフォークも体の向きを変える。その意識に、既にルドナとフィンは存在しない。
「……よし」
畑の中から出た辺りで、太悟が足を止める。
向き合うバーンフォークは鼻息も荒く、苛立ちを隠さない。
これから起こるであろう戦いを、ルドナは見届けるつもりだった。
最後まで目を逸らさないと―――しかし、次に起こったことには、流石のルドナも目をひん剥いた。
なんと、戦斧の柄尻を深く地面に刺し、手放したのだ。
「来いよ、バーベキューにしてやる」
装甲に覆われた、鉤爪のような指を振り、太悟が挑発をかます。
それを、バーンフォークが理解したかどうか。とにも、牛の魔物は凄まじい雄叫びを上げながら、一直線に突撃する。
一踏みごとに大地を揺らす蹄、真っ赤に燃え盛る鋭い角。女子供を蹴散らそうとした時とはまるで違う力が込められていた。
「ちょっ……!」
思わず、ルドナは声を上げる。バーンフォークと太悟の体格差は、巨岩と葦程もあるのだ。
いくら太悟が優れた戦士だとして、武器も使わず如何に対処するつもりなのか?
ルドナの疑問への回答は、即座に与えられた。
太悟は―――自分の胸に向かって突き出されたバーンフォークの角を、手で掴んだのだ。
ルドナはぽかんと口を開けた。
傭兵時代、力比べで牛と組みあう団員はいたが、魔物相手では話が違う。
突進してくる相手の武器を掴むこと自体、相当な技量が必要とされるのだ。
しかし太悟は、それどころか……一歩も下がらなかった。
我が目を疑うという行為は、ルドナもそれなりの数してきたが、今回はレベルが違った。
―――ブルルルゥアッ!!
バーンフォークは鼻息荒く蹄で地面を掻き、前進しようとしている。その角で、敵を貫こうとしている。
だが、太悟は動かない。燃える角は、彼の胸に届かない。
それはあまりにも非現実的な光景で、今後の人生でこれより驚くことは無いだろうと、ルドナは確信した。
だが結局のところ、記録とは塗り替えられるものだ。ただし彼女の場合、たった一秒後のことだった。
「ふんっ」
前に、道具が入った木箱を持ち上げて移動させる時、そんな声を出したかもしれない。
他愛もない記憶を脳裏に蘇らせたルドナの目の前で、バーンフォークの巨体が、宙に浮いていた。
太悟が角を掴んだまま、持ち上げているのだ。牛の魔物は足をばたつかせるが、まるで無力な赤子のようだった。
それに飽き足らず、太悟はバーンフォークの顔面に、蹴りを叩き込んだ。
ぼぎりと鈍い音は、もしや魔物の顔面が砕ける音だろうか。巨体がくるくると回転しながら宙を舞い、重い音を立てて離れた位置に落下した。
驚きの連続、としか言えない光景を目の当たりにするルドナの胸の中で、何かが疼く。
何か、重い蓋のようなものに封じ込めていたものが呼び覚まされたかのような、そんな感覚だった。
「……フィン? 泣いてるのかい?」
ルドナの胸の中で、フィンが震えていた。涙で濡れた目は、魔物を捉えている。
怖いのかと聞くと、孤児の少年は首を横に振る。
「魔物を、魔物が……やられてる……パパ、ママ……!」
それは、感動の涙だった。
もちろん、彼のすべてを奪ったのは、バーンフォークそのものではないだろう。
だが、魔物は魔物だ。勇士として選ばれない限り、手も出せない存在だ。
それを、太悟はあんなにも容易く。
(ああ、そうか)
ルドナは、自分の感情を理解した―――スカッとしているのだ。
この孤児院にいる人間は皆、魔物によって人生を永遠に変えられた者ばかりだ。
太悟は、敵討ちをしてくれている。魔物に傷つけられた、すべての人々のために。
実際に彼がそうと意識しているのかは定かではない。
けれど、ルドナは、確かに救われていた。
一方。顔面を陥没させながらも、バーンフォークが立ち上がる。
しかし足はがくがくと震え、もう走ることはできないようだった。開いたその口の奥で、ちろちろと火が躍る。
太悟はつかつかと歩み寄ってゆく。その手には、地面に刺していた戦斧。
得物を鋭く旋回させれば、びゅうと風が起こった。
――――ブルゥォオオオオッ!!!
バーンフォークが炎を吐く。
まともに受ければ骨も残らない真紅の帯が、太悟の身を焼き尽くさんと迫る。
太悟は歩みを止めなかった。避けすらしなかった。
火炎は勇者に触れることさえなく、その目の前で散ってゆく。
風の壁。それが炎を防いでいることが、ルドナにもわかった。
一歩、二歩、三歩。まったく歩調を変えず、太悟が進む。
炎を吐き疲れたのか、バーンフォークが攻撃をやめた頃。
勇者と魔物の距離は、限りなくゼロになっていた。
角を失い、突進する力も無いバーンフォークに、もはや成す術はない。
「思い知れ」
そう言って、太悟は戦斧を振り上げる。
猛牛の断末魔が、辺りに響いた。




