勇者のお仕事8
―――ブォオオオオオオッ!!
咆哮。同時に、バーンフォークの蹄が地を蹴る。
迫る巨体は、フィンに与えられる死、そのものだった。
「フィン、危ないっ!!」
燃える角が、少年の小さな体を貫く直前。横合いから走ってきたルドナが、フィンを抱えて跳んだ。
大地を揺るがす轟音とともに、巨大な質量が通り過ぎてゆく。
「し、司祭さま……」
「くっ、う……」
フィンは、自分を抱き締めている女司祭の顔が、苦痛に歪んでいるのを見た。
間一髪の回避。だが、失われる筈だった命を救った代償を、バーンフォークは取り立てて行った。
祭服の裾が無惨にも破け、その下……ルドナの足が、赤く火傷を負っている。燃える角が掠めたのだ。
「大丈夫かい、フィン……立って、逃げるんだ」
ルドナが呻くように言う。
彼女を魔物の前に置いていきたくない、と同時に、フィンは足が竦んで動けなかった。
そうしている間にも、バーンフォークが振り返り、次なる攻撃を仕掛けようとしていた。
その口が開く。喉奥に、ちろちろと火が揺らめいている。
火を吐こうとしている、というのは、誰の目にも明らかだった。
「わ、あぁぁあああ……」
「フィン……っ!」
フィンの小さな体を、ルドナが背中で庇う。
けれども、バーンフォークが口から吹き出した炎は、二人の人間を焼き殺して余るほどの強さがあった。
♯♯♯♯
――――いけませんよ、ルドナ。みんなと仲良くしませんと。
そう言って、自分を諫めるベアトリクスの姿を、ルドナは今でも思い出すことができる。
二人は同じ時期に孤児院に入った、言わば幼馴染であった。
性格はまったく対照的。粗暴で男勝りがルドナなら、ベアトリクスは清楚で礼儀正しい少女だった。
聞けば貴族の生まれというのだから、貧しい村育ちのルドナは、彼女のことが大いに気に食わなかった。
最初はろくに会話もしなかったし、向こうから話しかけても相手にもしなかったのだ。
それよりも、ルドナは孤児院における自分の地位を築くのに忙しかった。
子供の社会は、どこまで言っても声の大きさと腕っぷし。舐められてたまるかと男相手にも喧嘩を吹っ掛け、ぶちのめす。
そんな時、間に入ってくるのがベアトリクスだった。
そんなことをしてはいけませんよと、どれだけルドナが脅し殴る素振りをしても、一歩も退かない。
怖くないわけではない。それは、揺れる瞳を見ればわかった。
かまわず殴り倒すのは簡単だったろう。けれど、ルドナには何故かそれができず、最後には矛を収めさせられたのだ。
そんなことをしている内に、やがて、ルドナの暴力沙汰は鳴りを潜めるようになった。
性格が変わったわけではない。ただ、なんとなく、自分のしていることがくだらないと思うようになっただけだ。
ベアトリクスとも、少しずつだが話すようになっていた。ただ綺麗な顔をしているだけではない骨のある女であることを、ルドナは理解していた。
そして、二人が十八歳になった頃。ルドナとベアトリクスは、孤児院を出て行くことになった。
ベアトリクスは、奇跡を呼ぶ資質があることがわかり、大きい街の教会で修行を受ける。
ルドナも気の強さと腕っぷしが買われ、別の街の傭兵団に誘われていた。
別れの日の朝。二人は握手を交わした。
「それじゃあな、お嬢様。お前のことだから心配はしちゃいないが、うまくやんなよ」
「ふふふ。あなたこそ、野蛮人さん。大怪我なんてしないように、気を付けて……また会いましょう」
互いに笑顔を向け合う。
別れの寂しさはある。だがそれ以上に、いずれ再会した時、成長した自分を見せたいという気持ちがあった。
それからの数年間、ルドナは周囲の期待以上にその腕を上げ、頭角を現してゆく。
剣や槍、体術は男にも負けず、そのリーダーシップが認められ、隊を率いることもあった。
その時期こそが、間違いなくルドナにとって黄金期と言えるだろう。
《常闇の魔王》オスクロルドが放つ魔物の襲来が、終止符を打つまでは。
この世界の人間には、傷つけることすらできない。
そんな怪物に襲われた村を守るため、傭兵団は勇敢に立ち向かった。
異世界の勇者が率いる勇士たちが駆け付けるまでに大勢の仲間が死に、ルドナ自身も片足が引き千切られる重傷を負った。
壊滅状態に陥った傭兵団は、そのまま解散。
ルドナも足はくっついたが、前のように素早く動くことはできない。
黄金の輝きは消え失せ、ルドナの手には、何も残らなかった。
絶望。その言葉の意味を、真に理解させられた。
失意のまま、ルドナは孤児院に戻った。何かを求めてではなく、他に行く当てもなかったからだ。
ベアトリクスと再会したのは、その時だった。恵みの慈雨を呼ぶ聖女、そう讃える声は、ルドナの耳にも届いていた。
二人は再会を喜び合い、その夜は積もる話をした。
「評判は聞いてるよ、ベアトリクス。大したもんじゃないか、聖女様だなんて……はは、あたしはこのザマだ」
もはや思い通りにならない足を撫でながら自嘲するルドナに、ベアトリクスは微笑みを返した。
「その身を犠牲にしてでも、人々を守ったのでしょう。もう野蛮人だなんて呼べませんわね。私は、あなたを誇りに思いますわ」
「………だけど、こんな体じゃもう何も守れないさ」
「ルドナ。生きているというのは、私が使えるどんな奇跡よりも素晴らしいことですわ。命があるなら、できることはいくらでもあるのです」
ベアトリクスは女神に選ばれ、神殿の勇士団に入ることが決まっていた。
そうなれば、そう頻繁には孤児院に帰って来れないだろう。
だからその間、ルドナに孤児院を守ってほしい。いつか魔王を滅ぼし、世界に平和が戻る、その日まで。
そんなベアトリクスの頼みを、ルドナが断るはずがなかった。
孤児院は彼女にとってもう一つの故郷であり、そして何より……親友の頼みだ。
「わかったよ、ベアトリクス。あんたの戦いが終わるまで、ここは任せておきな。絶対に守り切ってみせるよ」
慣れない勉強をし、サンルーチェ教の女司祭となったルドナは、その言葉の通り、孤児院を守り続けた。
院長を務めていた老司祭が病気で亡くなってからは、経営にも頭を悩ませた。
神殿に行ったきり便りもないベアトリクスの身を案じながら、忙しい日々を過ごす。
家族を失い傷つきながらも必死に生きる子供たちのため、親友との約束を守るため。
ルドナは孤児院を守り続けた。だがそれも――――今、終わりを迎えようとしている。
フィンを庇うルドナは、背中に猛烈な熱さを感じていた。
バーンフォークの吐く炎が迫ってきている。
運が良ければフィンは助かるかもしれない。だが、ルドナは死ぬだろう。
(悪いね、ベアトリクス。あたしはここで終わりみたいだ)
心残りはある。
今ここにいるフィン。他の子供たち。
せめて最後に一目、ベアトリクスに会いたかった。
様々な思いが、ルドナの頭の中を駆け巡る。
ああ、そしてせめて、生きたまま焼かれる苦痛が長続きしないで欲しい。
ルドナが、そう願ってから――――いくら待っても、その時は来なかった。
直前まで感じていた熱も、何時の間にか消えてしまっていた。
おそるおそる振り返ったルドナの目に映る、後ろ姿。
各所に鋭い棘を生やす、鋼色をした竜骨の鎧。
円盤状の刃を備えた異形の戦斧、腰に佩いた剣。
勇者、狩谷太悟がそこにいた。




