外伝・風が吹く故郷1
「姉さん、あの青い旗はなあに?」
よく晴れたある日、グリンカ山の中腹にある家の前で、エアリア族のプリスタ・ウェントゥは、姉のレンカとともに父であるホシガラの帰りを待っていた。
母親は彼女が物心つく前に病で亡くなり、風守である父は狩りや警備でよく留守にしていた。
三歳年上のレンカは面倒見がよく、幼いプリスタにとっては母代わりの存在だった。
二人で洗濯物を干していたところ、家の屋根に立っている大きな旗が目に留まったのだ。
風に煽られはためくそれは、空にも負けない鮮やかな青。
「あれか? あれは、導旗というんだよ」
「導旗?」
「うん、私も前に父さんに教えてもらったんだ」
村を守護する風守が、嵐の夜でも自分の家に帰れるように、屋根に旗を立てておくのだという。
色は厳密に決められているわけではなく、各家でそれぞれ違う。
「私と、同じ色だね」
プリスタは、自分の翼を広げながら言った。
飛行はまだ練習中で、父や姉に教えてもらっている。
「そうだな。プリスタと……母さんの色だ」
父と同じ、白い翼のレンカが笑う。
なんだか嬉しくなって、プリスタはくるくると回った。
その時、びゅうと風が吹く。木の葉が舞い、旗がばたばたと音を立てて踊った。
「あの旗がある限り、ここが帰ってくる場所なんだ。父さんも、私も、お前もな」
ふと、陽光を遮って影が差す。
その影は、大きな翼を持った人の形をしていた。
「お父さん!」
姉とともに空を見上げていたプリスタは、降りてきた父に駆け寄った。
大柄で逞しい体に抱きつくと、大きな手で頭を撫でてくれる。父の、堅く温かい手が、プリスタは大好きだった。
レンカも笑いながら混じってくる。
幼い頃の、幸せな記憶。何も悩みなどなかった、平和な日々。
それから十年後。
《常闇の魔王》オスクロルドの侵攻により、村の周囲に魔物が出現。
救援の勇士が来るまで、ホシガラは人々の盾となって立ち向かい、戦死した。
その後、勇士として選ばれたプリスタは村を出て、レンカは風守として村に残った。
それ以来、プリスタは一度も、村に帰らなかった。
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風の強い日であった。
年間を通して無風の日などないニード村の住民でさえ怯えるような、強い風が吹いていた。
いや、皆が怯えているのは、風にではない。風を起こしている者に、だ。
千人の亡霊が泣き叫んでいるかのような風音に乗って、笑声が轟く。
「はははははははは! どうした、かかってこい人間ども!」
それは一見、緑の鱗を持つ蛇に見えた。
ただし、とんでもなく巨大な。人間どころか、牛すら一呑みにできるだろう。
通常の蛇が持つ二つの目の代わりに、眉間部分に大きな単眼が備わっている。首には風車に似た四枚の翼があり、それが絶え間なく回転していた。
一目風竜。
村を突如として襲ったドラゴンによって、常駐していた勇士たちは瞬く間に蹴散らされた。
風に吹き飛ばされ、あるいは口から吐く空気の砲弾を叩きつけられて、力無く地に伏している。
だが、立ち向かう者がいなくなったわけではない。
有翼のエアリア族ですら飛ぶことを躊躇う空に、白翼の女戦士が舞い上がる。
「やめろっ! 魔物め、私が相手だ!!」
レンカ・ウェントゥ。
二十を僅かに越えたばかりだが、亡き父に負けぬ腕前の風守であった。
「無理だ、レンカ! 勇士でなければ……」
吹き荒れる風の中、飛ばされぬよう地に這いつくばりながら、他の風守が叫ぶ。
空で戦うために訓練を積んだ彼らでも、この状況はあまりにも厳しかった。
「私は風守だ! 村を蹂躙されて、黙っていられるか!」
だが、レンカは怯まない。恐れもしない。
空でうねる一目風竜に向かって、矢のごとく真っ直ぐに飛んで行く。
「父がそうしたように、私がこの村を守るっ!」
気合一閃。レンカの双翼から射出される、六枚の羽根。
光線と見紛う速度で飛ぶそれらは、岩を貫通し、鉄鈑さえ穿つ。
だが、どれだけの威力を持っていようと、どんな思いが込められていようと、この世界の人間には覆せないルールがあった。
レンカが放った必殺の羽根。その六枚は―――荒れ狂う悪竜には届かない。
長い体を覆う鱗に触れた途端、すべての力を失って地上に落下した。
魔物は、異世界の勇者から加護を分け与えられた勇士にしか、倒すことができない。
それこそが、《常闇の魔王》オスクロルドがこの世界に押し付けたルール。
「……!!」
レンカの顔が歪む。
わかり切っていた結果ではあった。ただ、今にも胸を引き裂かんばかりの怒り、その一割も魔物に伝えられなかったことが悔しい。
そして、その思いに囚われていたことが、さらに悪い結果を生んだ。
一目風竜が、戯れとばかりに軽く振った尾の一撃。
避けられなかったレンカは、羽虫のように空から叩き落された。
「がっ……」
地面を跳ね転がりながら、レンカは自身の骨が砕ける、おぞましい音を聞いた。
風の音、魔物の哄笑が、遠くに聞こえる。
立ち上がろうとして腕に込めた力は、全身を貫く激痛により霧散した。
風守として、村を守らなければ。
かつて、父が命を賭して守った村を。
自分が生まれ育った、愛する村を。
そして、そして………
「――――」
レンカの意識が途絶える前、彼女が口にしたその名前は誰に聞こえることもなく、吹き荒れる風に攫われていった。
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飛行している時とは違う、転送独特の浮遊感。
それが無くなってからも、《渡り鳥》プリスタ・ウェントゥは、固く閉じた瞼を開くことができなかった。
一、二。固唾を飲む。
三、四。覚悟を決める。
五、六。往生際悪く、ゆっくりと目を開ける。
視界に、広大な麦畑が広がっていた。
まだ熟していない、青々とした穂。緑色の海ーーー本物の海は、もっともっと広かったけれどーーーのように広大な麦畑、その畦道に、プリスタは立っていた。
畑の向こうには、威風堂々と聳えるグリンカ山。その麓には、ニード村を囲む防壁が見えた。
何度も何度も、見飽きる程に見たことがある景色。まだ飛べないくらい幼い頃はそれが好きで、父に肩車をせがんでまで見た景色だ、というのを思い出す。
その頃からほとんど変わっていない。思い出を絵として描いたかのような故郷が、そこにあった。
ざあ、と麦畑を撫で付けて、風が駆け抜けてゆく。背負った青い翼が揺れるのを感じながら、プリスタは息を吸った。
胸に、言葉にできない痺れが広がってゆく。
(ああ。私、帰ってきたんだ)
改めて、プリスタはそう自覚した。
三年。それだけの時間が、まるで何十年にも思える。
「おう、これは見事な畑だな!!」
まるで銅鑼をぶっ叩いたかのような声量と、どすどすと喧しい足音。
青い翼のプリスタとは対照的に、赤い鎧に身を包んだ巨漢が、彼女の隣に並ぶ。
《太陽騎士》ダン・ブライトとはそこそこ長い付き合いではあるが、改善して欲しい部分は両手の指を折っても数え切れない。
切れ長の目をさらに細めて、プリスタはダンを睨みつけた。
「ダン……耳元で叫ぶのはやめて」
「む、すまん。いやしかし、お前はあまり里の話をせんからな。どんなものかと思っていたが、いい場所ではないか」
――――お前など、もう家族じゃない。
三年前、別れの日。向き合えなかった姉の言葉が、耳朶に蘇る。
それはプリスタの心底に深く深く食い込んで、決して消えることのない言葉だった。
これからも、きっと。
「何もない、田舎の村よ」
そう、心にもないことを、やっとの思いで吐き出す。
これだから里帰りなど嫌だったのだ。勇者がせっかくだからと言うので、断れなかったが……
せめて任務に専念すれば、余計なことを考えずに済むのだろうか。
「………荒れてるわね」
改めて辺りを見回し、プリスタは呟いた。
その言葉を向ける先は、目の前に広がる麦畑だった。
少し視線を左右に動かすだけでも、元気いっぱいに伸びる雑草が、あちこちに見て取れた。
つまり、人の手が入っていないということだ。現に、周辺には一人も村人がいない。
麦も、薙ぎ倒されているだけならまだ良い方で、畑にぽっかりと穴が開いて、土が見えている所さえあった。
魔物が荒らしているのだろう。
連中は食事を必要としないが、人間への嫌がらせには余念がない。
「今は、村を守る勇士がおらんからな。畑は大事だが……やはり、命には代えられん」
ダンが苦々しく言う。
風を操る竜によって駐在していた勇士が倒されたことで、新たに派遣されたのがプリスタとダンの二人だった。
村の防衛、そして最終的には、竜の討伐。それが今回の任務である。
「なあに、竜など何するものぞ! 百頭並ぼうが、この槌で砕いてみせよう!!」
太い声を轟かせ、ダンが聖火槌ブレイブトーチを太陽に向けて掲げる。
その姿は実に頼もしいが、やはり声は馬鹿でかい。
「ダン、音量を下げて。さもないと永久にオフに―――」
プリスタは耳が良い。たとえ傍で誰かが怒鳴っていても、他の音を聞き逃さないくらいには。
たとえば、麦畑の方で上がった、誰かの悲鳴だとか。
「ダン」
「おう!」
それ以上の言葉は必要ない。
プリスタは地面を蹴って空に舞い上がり、ダンは走り出した。




