閑話・《流れの女剣士》マリカの苦悩 後
「くそっ!」
明るい笑い声が飛び交う酒場の隅で、マリカは杯の底をテーブルに叩きつけた。
その音も、ただでさえの騒がしさに飲み込まれ、苛立ちに油を注ぐ。
(うまくいかない。何もかもが)
やりきれなくなって、マリカは頭を抱えた。
光一が倒れてから、何一つ状況が良くならない。
出来る限りの伝手を使って治療法を探し求めたが、時間が無為に過ぎるだけだった。
サンルーチェ教の大治療院、呪術師による祈祷、希少な秘薬。
どれも、何の効果も無かった。これだけ試せば一つくらいはと、そんな甘い考えはあっさりと打ち砕かれてしまった。
「これも、すべてあの代理のせいだ。すべて……!」
具体的に何がというのは、たとえ酒が入っていなくとも思い浮かばない。
狩谷太悟の存在は、忌々しいと同時に鬱憤をぶつける良い的でもあった。
泣き落としでどうにか神殿の維持装置として確保して以来、彼個人についてはまったく興味がなかったし、正直なところ顔すらあまり覚えていない。
光一と同じ世界から来ているくせに、何もかも光一には劣る。
マリカの狩谷太悟に対する評価は、そんなものだった。
杯の中をぐいと飲み干して、マリカが二杯目を注文しようとした、その時。
「――――なあ、お前ら。最強の勇士って誰だと思う?」
そんな会話が聞こえてきたのは、酒場の中央にある大テーブル。
勇士と思わしき、武装した男女の一団が談笑していた。
懐かしい光景だ。かつては第十三支部の勇士たちも、出撃の後はこうして皆で酒を酌み交わしたものだ。
今は各々好き勝手にさせているが、その分纏まって何かをするということは無くなった気がする。
いずれ光一が目覚めたら、その時は盛大に祝うとしよう。
「まあ、まず《剣の女王》アレクサンドラ様は外せないわね。あの凛々しいお姿……見ただけで……私は……」
女剣士が恍惚の表情を浮かべる。
「俺は《太陽騎士》ダンを推そう。強さだけでなく、人柄も気持ちの良い男だぞ」
鎧に身を包んだ戦士が、フォークで肉を刺しながら言う。
「それなら僕は《皇帝の盾》コマンダント・シュタールかな。何度か同じ戦場で戦ったけど、彼が膝を突くところなんて見たことがないよ」
「何言っとる。最強は《練氣剣仙》シバに決まっとるやろ!」
「お前、同じカグラ国だからだろう……いや、強いけどな」
マリカは会ったこともない、天上人のような勇士たちの名前が並ぶ。
下品とは知りつつも、自分たちの名前が出ないかと期待して、つい聞き耳を立ててしまうのだ。
「わはははは! おめえら、流行ってもんを知らなくていけねえ!」
弦楽器を担ぎ、言い出しっぺである吟遊詩人と思わしき男が、偉そうに胸を張る。
「何よアンタ。アレクサンドラ様になんか文句があるってーの?」
「他に目立ってる人、誰かいたかな」
「しょーがねーなー! んじゃまあ、俺様のお気にを教えてやんよ!」
立ち上がり、ジャジャーンと弦楽器を掻き鳴らす吟遊詩人。
その口から出て来た名前に、マリカは石像のように硬直した。
「――――《孤独の勇者》狩谷太悟さ!!」
おお、と一同が声を上げる。
「え……ちょっと待った、実在するの? 異世界から来た勇者が魔物と戦ってるって……私も聞いたことはあるけど」
「わしも噂は聞いたなぁ。ロッテンボグの蛇竜を倒したんやて。事実なら、えらい達者や」
どこの街を救った、どんな魔物を倒したかと。
マリカの知らない狩谷太悟の物語を、知らない勇士たちが綴る。
それは、現代の英雄たちが語る英雄譚であった。
「俺様のは噂でもなんでもねえ。この前の緊急出撃の時、この二つの目でちゃーんと見たんだ! 村を襲うトロール、そいつに立ち向かう勇者の姿をな!」
「ほう、それはすごい……お前はその時何してたんだ?」
「よっしゃ! そんじゃまあ俺様の美声で聞かせてやる! 《孤独の勇者》の雄姿をな!」
マリカの舌に血の味が広がる。我知らず、下唇を噛み破っていたらしい。
弦楽器が曲を奏で、吟遊詩人が詩を紡ぐ。
勇敢な若者が、魔物に襲われる村のために戦い、激戦の末に勝利する。そんな、ありふれた物語。
酒場にいる者たちがそれを楽しんでいる間、マリカはいっそ、自分の耳を引き千切ってしまいたくなった。
「こうして、村のみならず牧場も守られ、狩谷太悟は少年との約束を果たした。おお、《孤独の勇者》よ。その身に纏う刃金だけを共にして、君は明日も戦い続けるのか。それは神のみぞ知ることであった――――おしまい」
詩が終わる。物語に幕が下りる。
拍手の音が大波のように広がった。
「ありがとう、ありがとう。どうよ、俺様の声に聞き惚れたか?」
「お前のは別に普通だが、《孤独の勇者》の話は良かったぞ。俺達の世界のために、そんなにも命をかけて戦ってくれるとは……」
「わしも、柄に無くジーンとしたわ。会って、話をしてみたくなった」
「部屋に監禁して朝から晩までお世話したい……」
「死んだら魔物に転生して勇者に殺されたい」
感嘆に浸る勇士たちが、口々に狩谷太悟への称賛を呟く。
強きを挫き、弱きを守る。そんな戦士に否定的な感情を持つ者は、まずいない。
たった一人を除けば。
「騙されるなッ!!」
まるで、駄々をこねる子供のように。マリカは声を上げテーブルを叩き、衆目を集めた。
酒杯が倒れ、中身が床を汚す。盛り上がりに水を差され、酒場が静まり返る。
その静寂に、好意的な気配はまったくない。
「騙されるなも何も、俺様はばっちり見たんだぜ。狩谷太悟が、でっかいトロールを斬り伏せるところをよ。魔物を相手に八百長もねえだろう?」
吟遊詩人が半眼になる。
マリカは一瞬たじろいだが、溢れ出る嫌悪感に押されるまま言い返した。
「や、奴にそんなことができるはずがない! あんな根性無し……そうだ、私に叩かれてピーピー泣いていた奴が……」
狩谷太悟が剣を教えてくれと、そう頼んできた時。マリカは木剣で彼を滅多打ちにした。
立っていられたのは最初の数秒で、すぐに膝を折って虫のように丸まり、さらに叩くと怯えた鳴き声が漏れてきた。
あれこそが狩谷太悟の真の姿だ。マリカが、そうあるべきだという姿だ。
がたん。
椅子を撥ね飛ばすようにして、勇士たちが立つ。
「お前、昔グリーンメイズで見かけた顔だな。まさか、狩谷太悟の勇士か?」
「……そうだ、神殿は同じだ。だから奴のことを知っている」
光一の勇士と言いたかったが、事情を説明するには状況が複雑すぎる。
ひとまず男の戦士に答えれば、女剣士が口を挟んでくる。
「私、てっきり本人が勇士が必要ないくらい強いから、勇者だけで戦ってるんだって思ってたけど、普通に勇士がいたのね。……で、なんであんたは、勇者に戦場行かせてるの?」
「なんで、とは……」
女剣士が呆れたように溜息をつく。
「だって普通、行かせないでしょう。うちの勇者くんもそうだけど、安全な神殿にいて、勇士たちが魔物と戦えるようにしてくれるのが一番効率的だもの。それとも、あんたんとこの神殿の勇士、全員集めたよりも強いとか? だったらわかるわ」
「馬鹿な、奴にそんな力はない!」
「じゃあなんで戦場に行かせてるのよ。きちんと説明してちょうだい」
マリカの口からは、呻き声しか出なかった。
勇者代理への協力を拒んでいるのは、決して仕事をさぼっているわけではない。
あくまで第十三支部の勇者は光一であり、狩谷太悟は一時的な維持装置に過ぎないということを明確にするためだ。
ただ物置でじっとしていればいいものを、出撃しているのは当人の勝手だ。
たしかに多少は稼いでいるらしいし、それを諸々の費用に充てているのは事実だが、神殿にいさせてやっている家賃と思えば別段褒めるようなことではない。
だが、それを説明したところで、彼らに理解できるかどうか。
もしかすると不要な誤解を受けて、話が拗れる恐れがあった。
「うーん……君は勇者を貶したいようだけど、僕から見れば君の方こそそれに値すると思うよ!」
「てかなぁ。わしらが楽しくやっとるとこに、横から怒鳴ってくる。その上、口から吐くのは人の悪口じゃ、ケンカ売ってるようなもんやろ。高く買ったろか? ん?」
マリカの沈黙を、各々どう受け取ったか。
つい先程、《孤独の勇者》に向けていた称賛とは真逆の感情が、勇士たちの顔に表れていた。
ひやり。
マリカは耐え難い寒さを感じた。
魔物から向けられる敵意、殺意とは違う。人が人に向ける悪感情が、何の防壁も無しにマリカの心を直撃する。
人々から尊敬される勇士という立場になってからは、かつて流れ者の常として向けられていた侮蔑とは無関係でいられた。光一は愛してくれたし、神殿内では最初の勇士として尊敬を集められた。
であるから、マリカは仮令自分がどれだけ他人を嘲ったとしても、自分自身がその対象になることに、もう耐えられない。
結果、マリカは何一つ応戦せず、酒代を置いて逃げるように外に出た。
悔しくて悔しくて、泣きそうだった。その悔しさもすべて、狩谷太悟のせいにした。
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マリカが神殿に戻ってきたころには、太陽はもうほとんど沈みかけていた。
紫色の空を窓から眺めつつ、廊下を進んでゆく。目的地はもちろん、光一が眠る部屋だ。
光一に慰めてもらいたい。
頭を撫でて、キスをしてもらいたい。
眠っている今は当たり前に無理だが、せめて愛しい彼の体温だけ感じたかった。
日向光一。マリカがこの世で唯一愛する男。
「光一は最高の男だ。優しくて、かっこいいし……そう、優しくてかっこいいんだ」
光一の寝顔を見られると思うと、落ち込んでいた心は晴れやか、足取りも軽くなる。
その時。中庭の方から聞こえてきた音に、マリカは思わず立ち止まった。
ひゅん。
と、鋭く風を断つ音。
どうやら、誰かが素振りでもしているらしい。
(いい音だな)
マリカは素直に感心していた。
思えば、最近は鍛錬をしている者をほとんど見ない。素振りの音も久々に聞いた。
音だけでも、その者の技量がわかる。正しく体を使い、武器に充分な威力を与えている音だ。
実戦から離れてはいるものの、マリカは勇士であり、武芸者である。
強い戦士には、いたく興味を惹かれるのだ。
といって、この神殿にいるのだから仲間の中の誰かだろうが。
軽い気持ちで、マリカは中庭を覗き込んだ。
そこにいたのは、一人の少年。簡易な布の服を着て、手には円盤状の刃を持つ異形の大斧。
服の上からでも、少年がよく鍛えていることがわかった。
頑強に形成された骨格、強くしなやかな筋肉。発展途上であることは否めないが、戦士の体付きである。
ぎゅん。斧の刃が、横振りに放たれる。
そのまま勢いを殺さず体ごと回転させ、今度は頭上に持ってきた刃で唐竹割。
見るからに重量のありそうな武器を、少年は見事制御していた。
粗削り。しかし、鍛錬によって磨かれた技がたしかに光る。
どれだけの時間続けているのだろう。
少年の額や頬から、汗の粒が無数に流れ落ちる。
そう、少年の顔に………
「……狩谷、太悟?」
黒髪黒瞳。この世界のカグラ人に似ているが違う、異世界の人間の顔。
日向光一ともやはり違う、勇者代理の顔が、そこにはあった。
(あれは、誰だ?)
マリカは混乱していた。あれが、あの少年が狩谷太悟であるはずがない。
おぼろげだった記憶が、明確な映像となって頭を過ぎる。
初めて出会った時、自分が泣きついた時の、困ったような顔。
出撃してほしいと頼んでくる、必死の顔。
ぼこぼこにぶちのめして床に転がした時の、くしゃくしゃになった顔。
どれもが、中庭で演武する少年と同じで、しかし重ならない。
大斧を軽々と旋回させる少年に、弱々しさ、情けなさは微塵もない。
あれは戦士だ。まさしく勇者の名に相応しい。
マリカの理性がそう言えば、マリカの感情が強烈に拒否する。
何故なのか、明確な理由も見つからないまま。
頭がぐるぐるする。
吐き気を感じて、マリカは足早にその場から立ち去った。
光一。はやく光一に会いたい。
でなければ、狂ってしまいそうだ。
(……光一は最高だ。光一より素敵な男はいない。光一こそ世界で一番の勇者)
マリカが頭の中に並べ出したそれらの羅列を、彼女自身もどこか空虚に感じていた。




