閑話・《慈雨の呼び手》ベアトリクスマッマ
荘厳なる教会の中。
女神像の前に跪くベアトリクス・レーゲンの心は、悲しみに満たされていた。
どれだけ祈ろうとも、拭い去れない闇がある。そしてその闇が、世界を包もうとしていた。
「聖女様。お時間です」
「……今、行きますわ」
従者の声に、ベアトリクスは重い頭を上げる。
彼女が教会の外に出た途端、無数の視線が純白の祭服に突き刺さった。
「ベアトリクス様だ……」
「聖女様……」
「なんて美しいんだ……」
教会前の広場には、大勢の人間が集められていた。
誰もが疲弊し、傷ついている。薄汚れた包帯に、乾いていない血が滲んでいる者もいた。
彼らは皆、魔物の攻撃によって住んでいた場所を追われた難民だ。
今までの暮らしを失い、これからどうなるのかさえわからない。
それでも、ベアトリクスが暗い表情をするわけにはいかなかった。
人々を不安にさせないために、無理やり微笑を作る。
無数の人々が彼女の名前を、縋るように呼んでいる。
応じる言葉は、ただ一つ。ベアトリクスが、聖女と呼ばれる所以である奇跡。
「女神サンルーチェよ、私に衆生を救う力を。――――恵みの慈雨」
空は青く晴れ渡り、薄い白雲がいくらか浮かんでいる。雨が降るような要素は一つもない。
にも関わらず、ベアトリクスが天を仰いだ途端、空から雨の如きものが降り注いだ。
それは冷たくもなく、濡れもせず、そもそも水でもない。
うすく黄金色に輝く光の粒が、難民たちの体に吸い込まれてゆく。
光のシャワーを浴びた傷が、たちまち癒えてゆく。手足に活力が戻ってゆく。
割れんばかりの歓声が青空に響き渡った。ベアトリクスを讃える声が合唱となる。
その光景を、聖女は微笑みを浮かべながら見つめていた。
心は少しも浮き上がらなかった。
ベアトリクスがどれだけ奇跡を起こし、難民の傷を癒しても、何の解決にもならない。
魔物が、《常闇の魔王》オスクロルドが在る限り、この世界で明日を保証された者は一人としていないのだから。
(何が、聖女。無力すぎて、自分が嫌になる……)
傷ついた人々のために、自分が本当に力になれることはないか。
そう自問し続けていたベアトリクス。彼女が女神からの託宣によって勇士に選ばれたのは、それからすぐのことだ。
拒否などするはずがない。
元よりサンルーチェに仕える者であり、何より、魔物と戦うことは人々を救済に繋がるのだ。
異世界から来た勇者がどんな人物かは知らないが、高潔で誇り高いことを、ベアトリクスは望んだ。
風の噂では、勇者と勇士が恋愛関係になっている神殿も少なくないと聞く。
現場には、現場にしかわからない事情があるものだ。強く否定はしない。
(色恋に……興味がないとは言いませんが、私にはやるべきことがありますわ)
人々を守り、魔物を倒し、いずれは魔王を。それこそ、勇士が何よりも優先すべきことのはずだ。
そのために、ベアトリクスは神殿―――第十三支部に行くのだ。
神殿に向かう前日、ベアトリクスは教会が運営している孤児院に赴いた。かつて、孤児だった彼女が育った場所だ。
週に一度、忙しくても月に一度は顔を見せていたが、勇士として戦うとなればそうもいくまい。
長い別れの前に、弟たち、妹たちに会いに来たのだ。
「ベアトリクスさま、ケガしないでね」
「ええ、気を付けますわ。あなたも風邪をひかないようにね」
「ぼく、さみしいよ……」
「大丈夫ですわよ。どこへ行こうとも、私はみんなのことを想っていますもの」
目に涙を浮かべる子供たちの頭を撫でてやる。
彼らが大人になるまでには、魔物が存在しない世界にしなければならない。
決意を新たにして、ベアトリクス・レーゲンは神殿へと向かった。
半年後。とある日の昼頃。
《慈雨の呼び手》ベアトリクスは、勇者の部屋にいた。
豪奢な大型のベッドの上で、純白の祭服を脱ぎ捨て、娼婦のようなビスチェを着て。
豊満と言っていい胸には、この神殿の勇者である日向光一を掻き抱いていた。
「んああ~……俺疲れたよぉ、ベアト~」
「お仕事がんばりましたね光一さん♡ ご褒美にナデナデしてあげますわ♡」
演技でもなんでもなく、ベアトリクスは緩み切った表情で、顔面を胸に押し付けてくる勇者の頭を撫でていた。
まだ昼間、他の勇士たちが戦場に出ているが、ベアトリクスは待機。
倉庫の整理を三十分ほど手伝うという労働をした光一の疲れを癒すという、彼女にとってはとてつもないご褒美を楽しんでいた。
マリカやフレアがいたら、こうも独り占めできない。
「ベアト……ママぁ……」
気分が乗ってきたようで、光一が甘えた声を漏らす。
ベアトリクスは胸がきゅんと疼くのを感じた。
自分の故郷を離れ、この異世界にやってきたのだ。温もりが恋しいこともあるだろう。
「うふふ……いいですわよ、光一さん。私のこと、ママだと思って……いーっぱい甘えてください♡」
神殿に来てから一週間ほどで、ベアトリクスは光一を愛するようになった。
最初は軽薄な態度や、好色さに呆れることもあったが……とにかく、今のベアトリクスは光一を愛していた。
彼女が戦うのは、光一のためだ。勇士として、光一の傍に居続けるためだ。
光一の寵愛を受けることだけが、ベアトリクスの生きる理由だった。
(この時間が、いつまでも続けば良いのに)
ベアトリクスは、何の引っかかりも感じず、本気でそれを願っていた。
それはつまり、魔物との戦いが永遠に続くということだ。
力の無い誰かが、永遠に苦しみ続けるということだ。
身寄りのない子供たちが、永遠に増え続けるということだ。
ベアトリクスの瞳には、傷ついた難民も、幼い弟妹達も、もはや映ってはいない。
かつて抱いていた信念も何もかも忘れて、甘い愛に溺れていた。
「――――おーい。もしもーし。なあ、起きなってば」
「……んぅ」
懐かしい夢を見ていた。
そこを誰かに起こされて、ベアトリクスは少々不機嫌に瞼を開いた。
そして、目の前にいる人物の顔を見て、最悪の寝覚めを体験した。
狩谷太悟。この神殿の厄介者だ。
最近では竜を模した兜や、黒い刀と斧で武装して、一端の勇士気取りでいる。
どうやら戦場から帰って来たばかりらしく、血と汗の臭いがした。
「……気安く声をかけないでもらえますか? 耳が腐りますので」
「そいつは悪かったね。でも、寝てる間にずぶ濡れになるよりいいだろ」
太悟が上の方を指さす。
周囲を建物に囲まれた中庭の、四角く区切られた空はどんよりと曇り、今にも雨が振り出してきそうだった。
ベアトリクスはベンチに腰かけたまま居眠りしていたのだ。
眠る前まではそこそこ晴れていたが、今は気温も低くなっている。たしかに、このまま船を漕いでいたら風邪でもひいていたかもしれない。
感謝の念よりもまず、借りを作った嫌悪感が先に来て、ベアトリクスは太悟を睨みつけた。
「ありがとう、なんて言うとでも?」
太悟が苦笑する。
「思ってないよ。余計なお世話ってやつだ。まあ、戦場に出てくれる気になってくれたら、それに越したことないけど」
「おもしろい冗談ですわね」
ベアトリクスはにこりともせず言った。
眠り続ける光一の世話や、彼を起こす方法を探すという重要な仕事があるのだ。出撃などしている暇はない。
かつて愛していたすべてよりも、ベアトリクスはたった一人の勇者が大事だった。
「気が変わったならいつでも言ってくれ。歓迎するよ。………なんか、寝言でママがどうの言ってたけど、ホームシックか何か?」
どうやら、夢の内容が頭から漏れていたらしい。
太悟の問いに、ベアトリクスはふふんと鼻を鳴らした。自分と光一の絆について語る機会は、いくらあっても良いのだ。
「ホームシックなんてとんでもない。光一さんが、はじめて私のことをママと呼んでくれた日のことを、夢で見たのですわ」
「マ……はあ?」
太悟がぽかんと口を開ける。
自分たちの強い絆に恐れをなしたのだと勘違いして、ベアトリクスは自信満々に語り続けた。
「ママ、ママと甘える光一さんが愛おしくて私もつい強く抱きしめてしまって。ナデナデしていたら下の方がムクムクと硬くなってきて、私はそこをスリスリと」
「ストップ……ストップ! わかった、もういい!」
青ざめた顔で口元を押さえる太悟と、頬を赤く染めてくねくねと揺れるベアトリクス。
見た目にも心情的にも、正反対な状態の二人だった。
「………言っておきますが、あなたが私のことをママなどと呼んだらタダじゃおきませんから」
「まあ人それぞれ性癖ってもんがあるし……」などと呟いていた太悟に、ベアトリクスは一転して射抜くような視線を向け、釘を刺した。
自分をそう呼んで良いのは、光一だけだ。二人の絆の証であり、愛情の印なのだ。
忌まわしい勇者代理が気安く呼んで、穢して良いものではない。
まさか、と太悟は薄笑いを浮かべながら言った。
「赤の他人を母親扱いなんてできるかよ。僕は……本物の母親を置いて、この世界に来たんだから」
その声には、罪悪感が色濃く滲んでいた。
それを察した、かつてのベアトリクスならどうしていただろうか。
太悟の心の負担を和らげるべく、言葉を尽くすか。あるいは、向き合わせることで昇華させていたかもしれない。
しかし、今のベアトリクスはどちらも選ばなかった。
獲物を見つけた獣のように目を光らせ、
「なんとまあ、親不孝なこと。お母さんに悪いとは思いませんの? ふふふ……あなたが受けるすべての苦しみは、当然の報いだと知りなさいな」
煮詰めた蜂蜜のように、どろりとした悪意をたっぷりと乗せて、そう言い放った。
太悟が何とも言えない顔で押し黙ると、ベアトリクスは自分の勝利を確信した。
近頃は、何をやっても反応が薄かったり受け流されていたから良い気分だった。
「…………そうだな。その通りだ」
やがて、その言葉だけ呟くように言ってから、太悟は中庭から立ち去った。
少し力を失ったように見えるその背中を見ても、ベアトリクスは昏い喜びしか感じなかった。
「なかなかの手応えでしたわね。今度からこっちの方向で責めてみようかしら。マリカたちにも教えてあげましょう」
くすくすと、邪悪な笑声が辺りに満ちる。
人の心を抉り、その血を啜る楽しみを、聖女と呼ばれていた女は覚えてしまっていた。
それからすぐに、彼女を聖女たらしめていた恵みの慈雨が使えなくなったが、戦場にも出ず、人々を癒すこともないベアトリクスは気付いていなかった。




