第二十五話 殿下と愛人
え……私!? とエルフリードの怒りを含んだ呼びかけに大きく戸惑うユーミリアだが、彼女は顔を上げない。それどころか、彼に返事も返さずにただひたすら座り込んだまま無言を貫いた。
ユーミリアは帽子についている広いつばを信用したのだ。上から見ても、しゃがんでいる二人のどちらが自分かなんて解らないだろうと彼女は打算する。ユーミリアはエルフリードの呼び掛けを無視した。
そんなユーミリアの殿下に対する応対に驚いたのは、彼女の隣で同じように無言で佇むアリーサ。彼女は驚愕の表情を浮かべると、目を細め、横目で彼女をいぶかしんだ。
殿下の声掛けを軽く無視するユーミリアの事がアリーサは信じられず、彼女は強くユーミリアを目で非難した。
だが、アリーサの“早く返事をしなさいよ!”という強い念を込めた視線もユーミリアには届かなかったのだろうか。彼女の力強い目線に気付いたユーミリアだったが、なおも殿下の疑問に答える気配がない。
いや、本当は届いたのだが彼女はわざとアリーサの目線に肩をすくめ、意図が理解が出来ないふりをしたのだ。
ユーミリアは目で訴える。
何言ってるのかわかんない。
と。
だんだんと顔の筋力を緩め、無表情に変わるアリーサ。
そんな無の境地を曝け出すアリーサのこめかみに浮かび上がるのは一筋の血管。
それを視界に捉えたユーミリアは、そっとアリーサから目を反らすのだった。
「……ユーミリア。」
そんな殺伐とした空気の中、ゆっくりとした低い男性の声が辺りに響く。エルフリードが再度彼女に呼びかけたのだ。
下に座りこむ麦わら帽の農婦、改め淑女達が庭いじりに没頭しすぎるあまり、自分の声が届かなかったのだろうかと、彼は今一度ユーミリアに呼びかけたのだった。
そして、そんな彼が手を伸ばす先にはアリーサ。
それを見たユーミリアはつばの下で小さくガッツポーズをする。
が、次の瞬間、エルフリードに手首をとられて力づくで立ち上がらせられたのはユーミリア。
「フェ……フェイント!?」
と、ユーミリアは思わず声を張り上げてしまった。そして引きずり出される彼女の視界には、親友の嬉しそうな横顔がチラリと写る。
もちろん、アリーサの表情は“暖かな笑顔”ではなく、“冷ややかな嘲笑”だったのだが。
それでもユーミリアは親友にすがろうと、エルフリードに掴まれていない方の手をアリーサに伸ばす。
だがアリーサは肩を竦めるばかりで取り合ってもくれず、ユーミリアのもう片方の手はいとも簡単に、再び伸ばされたエルフリードの手によって絡めとられてしまうのだった。
両方の手首をがっちりと固められたユーミリアは、エルフリードの前に成すすべもなく立ち尽くす。
だが微かな抵抗から、それでも彼女は顔を上げずにつばで彼との隔たりを確保しようとしていた。
そんな彼女の態度にエルフリードは苛立ちを隠せないのだろうか、腹の底から唸るように声を絞り出す。
「……ユーミリア。逃げようとしても無駄だ。」
彼の声は低くそれでいて枯れており、声の質と言葉の内容が相まって異質な雰囲気を生み出す。その恐ろしさにユーミリアは思わず体をびくりとさせた。
彼女はゆっくりと唾を一つ飲み込む。
名前を呼ばれる程度では気づかなかったが、彼の声は彼女の記憶の中のそれと全く異なっていた。
「殿……下?」
ユーミリアは思わず顔を上げ、声の主を確認する。
だが彼女の目に映るのはやはり、良く見知っている端正な顔立ちの、小さい頃からずっと目で追ってきた彼だった。
ユーミリアは彼の目を見つめたまま、ゆっくりと肩を撫で下ろす。
だが彼女が安堵のため息を漏らすのも束の間、ユーミリアは彼に違和感を感じ、首を傾げた。
目の前に居る彼は、彼のようで彼ではなく……。
ユーミリアはじっと彼を見つめ、その要因に気付いて再び息を飲んだ。
エルフリードから“光”が消えていたのだ。
彼の髪の色は相変わらずゴールドだし、見た目も華やかで、美少年らしくキラキラはしていた。
だが彼からいつも感じていた“暖かな光”の様な物を、今のエルフリードからは感じ取れなかったのだ。混乱する彼女を余所に、彼は優しい笑顔をユーミリアに向ける。
「ひさしぶり、ユーミリア。君はいつも綺麗だね。」
そんな彼の口からこぼれ出るのは自分に対する讃辞。
ユーミリアは久しぶりに聞く彼からの甘い言葉に、思わず胸を締め付けられてしまっていた。
そんな追い打ちを掛けられた彼女は、エルフリードに返す言葉が見つからない。
ユーミリアは顔を真っ赤にし、彼を見上げたまま口を閉じた。
言葉なく至近距離で見つめ合う二人。
だがそんな彼女に、エルフリードは今度は冷たい口調で言葉を続ける。
「で、君は誰のために着飾ってここで待っているのだい?」
そう彼女を責めるエルフリードの口元は歪んでいた。
目はまだ笑ったままであり、それがさらに彼の表情を歪ませていた。
「“誰”……。」
エルフリードの冷たい表情に、ユーミリアはつい口ごもってしまう。
「僕の従兄弟かな? ……まさか叔父上だなんて言わないよね? 年が離れすぎてるよ。」
「え……? ち……違いますわ!!」
ユーミリアは大きく首をふる。
彼女は気付いたのだ、自分が誰かの愛人になってこの場所を提供されているとエルフリードが勘違いをしている事に。
だがそんな彼女の返事を受けても、エルフリードは冷酷な表情を崩さない。
「へえ。じゃあ、陛下? そうだよね。僕の申し出を断っといて、僕より下の者を選ぶわけないよね。……まさか、父親に盗られるとは思わなかったけど。」
「盗られる? 断った?」
聞き慣れない言葉に、ユーミリアは戸惑いを隠せなかった。
だがエルフリードの言葉をなぞるだけで、彼女は何も返す事が出来ない。
「そうだろ? マルコスと組んで何をするつもりかと思えば、まさかあっちに収まるとはな。驚きだよ。それに……。」
「違います!!」
ユーミリアはエルフリード言葉に口を挟むと、必死な表情で彼に縋ろうとした。
だが一瞬はたじろいだ彼だったが、すぐに気を取り直したのかエルフリードはまたしても敵意を顕にして彼女を攻撃してくる。
「……俺を裏切っておいて、俺の不興を買うことがそんなに怖いか? でも、安心しろ。君は俺より格のある“陛下”に守って貰えるではないか。……まあ、俺が陛下になった時は、可哀想な運命を辿るしかないだろうがな。」
エルフリードの力が増し、ユーミリアの手首が次第に締め付けられていく。
そんな彼にユーミリアは必死で訴えた。
「私、陛下の愛人ではありません! 誰の愛人でもありません!! ここにはアリーサ様の相談相手としてやって来たのですわ!!」
例え不敬罪に問われようとも、ここできちんと言葉を伝えておかなければ殿下が壊れてしまいそうな気が彼女にはしたのだ。
そんなユーミリアの言葉を受け、エルフリードは目を見開く。
だが暫くしてようやく彼女の言葉の意味を理解したのか、彼の手から力が抜けて行くのをユーミリアは肌で感じた。
そしてユーミリアはエルフリードの誤解を解くべく、さらに言葉を紡ぐ。
「私、エルフリード様の誘いを断ったつもりもありません。……解らなかったんです。あの手紙が、アリーサ様に来たのか私に来たのか。」
「……だが……君に手紙を渡したと聞いたが?」
エルフリードは探るようにユーミリアの表情を窺った。
「でっでも、たまたま私が受け取っただけなのかと思ったんですの。だから、あの日……お茶会の日、アリーサ様と二人で登城したのです。どちらに渡したのか聞くために。もちろん、前以て確認しようと手紙を書いたりしたのですが、お返事がなくて……。」
「……へえ。俺のせいだと言いたいのか? それに嘘まで吐くとは、良い度胸だな。実際には手紙をもって現れたのは、アリーサ1人だったそうだが?」
「あれは……その……。」
「あの!!」
その時、急に立ち上がったアリーサが二人の話に割り込むようにして声をあげた。
そんなアリーサをエルフリードは目を細めて見下ろす。
「……君、こちらから声をかけるまで、話をしてはならないと習わなかったかい?」
エルフリードは冷たく彼女に言い放った。だが、彼の声色は先程の様な感情的な冷酷さは感じられず、何者をも有無を言わさず従わせるような無機質な物言い。
アリーサは思わず肩を震わせたが、彼女は負けることなく強くエルフリードを見据えると言葉を放つ。
「私、あなた様の愛人なのでしょうか?」
「……。」
思案しているのか、彼女の言葉を受けたエルフリードはじっとアリーサの目を見たまま動かなかった。
「ここって、愛人のための場所だったのですか?」
そんなエルフリードの態度に、アリーサはさらに質問をたたみかける。
「……今さら何を言う。喜んで受け入れたそうじゃないか、殿下の愛人という名誉を。それに大金も手にしたはずだろう? この期に及んで気づかないふりをして、慰謝料でも踏んだ来る気か?」
ユーミリアの杞憂を余所に、エルフリードはそんな彼女にばっさりと切り捨てるように言葉を投げかけた。
「……へえ、そうなの。私、殿下の愛人だったんだ……。」
アリーサがぽつりと呟く。
ユーミリアは慌てて彼女に目を向けるも、アリーサの表情からは感情は読みとれなかった。
「そうだと、何度も言っているであろう。」
エルフリードが睨む。
「私、用事を思い出しましたの。帰っても宜しい? お二人は積もる話がまだ沢山あるでしょう?」
アリーサはそう言うと颯爽とドレスを翻すのだった。




