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捨て悪役令嬢は怪物にお伽噺を語る  作者: 秋澤 えで
番外編

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お伽噺が現実に変わる日 Ⅳ

 あの日と同じように、扉の前に立っていた。私の部屋ではない、妹の部屋。あの日と違うのは、私が一人でないということだけだ。頼りになるのかならないのか、意味があるのかないのかよくわからない同行者は勝手に歩き回ることもなく、まっすぐ私と共にここへ来た。



「開けないのか」

「……開けるさ」

「怖いのか」

「…………情けないことに」

「開けてやろうか」



 猫のような目をしていると思った。



「……不要だ。私が開ける。そのために来たんだ」

「そうか」



 こちらに興味があるように見えるのに、その目はガラス玉のようにすら見える。

 ただの今はその無機質さがどこか心強かった。


 ノブに手をかけ扉を開ける。玄関よりも、ずっと軽く開いた。

 廊下と同様、埃の匂いがした。

 閉められたままのカーテンは色褪せ、整えられたままのベッドの上にはうっすらと埃が積もっていた。

 扉を開けたは良いものの、足を踏み入れる勇気が出ず呆然としている私の脇を、男がスルリと通り抜けた。そして勝手に部屋の中へと入ると奥の窓のカーテンを開け放った。



「おい! 何勝手に、」

「いいのか」

「何がだ!」

「このままでいいのか」



 背に太陽を背負い、男の表情は見えない。けれど先ほど同様つるりとした顔をしているのだろうということはわかった。怒鳴ってしまった私に対し、平坦にただ問うその声に毒気を抜かれる。



「…………窓を、開けてくれないか」

「そうしよう」



 男は窓を開け放った。涼し気な風が部屋の中へと舞い込む。埃が経つと同時に、不快な黴臭さを攫って行った。

 止まったままの時が、今この瞬間動きだした気がした。

 もう彼女はいないという現実が、確かにここにあるのだと。

 ふと、男が困ったような顔をしていることに気が付いた。

 男は私に歩み寄ると手を引き、小さなベッドに座らせた。



「なぜ、泣いている」

「……泣いて、いたか。みっともないところを」

「みっともなくはない、おそらく」



 大人は泣いてはいけないだとか、男は男らしくあるべきだとかは、いつ誰が決めたかもわからん価値観だ、と男はまるで子供のようなたどたどしさでそう言った。彼は彼なりに、私を励まそうとしているらしかった。



「話を、聞いてくれないか」

「何か気がまぎれる話でもするのか」

「いいや、彼女の、妹の話を聞いてほしい」

「……辛いのではないか」

「辛いなどと私が言える立場じゃない。……ただ私は向き合わなければならない。それを手伝ってほしい」

「どう手伝う」

「ただ聞いていてくれ。もう彼女の話をする者も、聞く者もいないんだ。……観光案内料だと思って付き合ってくれ」

「……わからんがわかった。既に終わったことを、誰の得にもならぬというのに自分を責め立てる者には覚えがある。それで解決できることのあるのだろう」



 男はずるずると近くにあった椅子を引き摺って私の前に座った。どうすればいいかわからないが、とりあえず座った、という顔はますます猫のようだった。ただこちらに興味津々というような下世話な視線を向けないだけで今はありがたかった。



「妹はもういないのか」

「いない。ありもしない罪で、処刑された」

「冤罪だったと」

「ああ、あの子がするはずもない、くだらないものだった。けれど誰も信じなかった。誰もがあの子の後ろ指を指し、王家の見解にただ従い、彼女を処刑した」

「死んだのか」



 あんまりな言葉に場違いにも笑ってしまった。悪意はないのはもうわかっている。ただ言葉選びが絶望的だ。



「おそらくは。国外追放という体で、殺された」

「国外追放という体?」

「……観光客でも知っているだろう、ダーゲンヘルムの怪物の話を」



 もはや与太話でないのは明らかな、怪物の物語。

 怪物に目をつけられたこの国、ラクスボルンは人ひとりいない、死んだ国と化した。いったいなぜそんなことになったのか、とうに部外者となった私のあずかり知れぬことだ。

 けれどここにはもう、王も、貴族も、民もいない。



「ダーゲンヘルムの国境にあたる森。そこに捨てられた。国外追放という体で捨て、そうして怪物に食われるのを待つ。……もっとも、怪物に食われずとも翌朝まで生きていたら兵士が殺すことになっていたらしいが」

「実質的には死刑ということか」

「……ああ」



 深く深く、ため息を吐いた。背を丸め、項垂れる。そうでもしなければ、口から何もかもが飛び出してしまう気がした。何もかも吐き出して、何もかも捨てたくなる。けれどそれは捨ててはならないものだとわかっていた。

 少しずつ、糸が紡がれるように、唇の隙間から形にならない思いが零れていく。



「助けたかった、あの子を。連れて帰りたかった、無実のあの子を」

「……助けられなかったか」

「助けられなかった。父に止められた。私まで死ぬかもしれないと。私は、ダーゲンヘルムの怪物など、信じていなかった。けれど父は彼の怪物を恐れ、その存在を確信していた。娘も息子も、失わせるつもりかと」

「だからお前は助けに行かなかったのか」

「そうだ。あの子を見捨てた。本当は助けたかった。守りたかった。だが私は、父も母も守りたかった。妹と同じように。……そして私は選んだんだ」

「妹ではなく、父と母と共にあることを?」

「そうだ。そうしてあの子を見捨てた。私たちは逃げた。あの子が死ぬことをわかって。だが同時に思わずにはいられない。もしかしたらあの夜、私が父を振り切って助けに行けていたなら、あの子は今も生きていたかもしれない。ラクスボルンとは関係のない国で、慎ましく生きて行けたかもしれない」



 もしもを夢想することすら、罪深い。もし自分に勇気があれば、もしあの日父を振り切っていれば、もっと彼女と話ができた。もっと彼女を知ることができた。失ってから大切なものに気が付くなど、あまりにも陳腐で笑うことすらできない。そんなことも、私は知らなかったのだ。



「……君には、家族はいるか」

「いないでもなかった」



 表情も変えずあっさりと返す男に一瞬戸惑う。その言葉からして、もう家族は誰もいないということなのだろうが、違和感のある言い回しだった。けれど男は気にした風もなく促す。



「私のことは気にしないで良い。気にするほど彼らに興味もない」

「…………君は、家族ことをどれくらい知っている?」

「どのくらい、とは?」

「好きな食べ物、好きな場所、趣味、その人を、その人たらしめるようなものを」



 男は髭も生えていないつるりとした顎を愉快そうに撫でた。



「金、権力、美酒、そんなものだ。…………すまないが相手が悪かったな。あんたの理想とは違うだろうよ」



 なんせこんなところへ来るような人間だ、と自嘲する。理想、その一言で切り捨てられても良かった。けれど彼の声色に否定的な色はなく、猫のような目を向けて私に話の続きを催促した。



「私は、あの子の何も知らなかった。好きなものも、嫌いなものも。なんの我儘も言わない子だった。……だが私は尋ねたことすらきっとなかっただろう。思い出そうとしても、何も浮かばない。あの子はいつも、行儀よく傍にいるだけだった」



 手のかからない良い子だった。我儘も言わず、反発もせず、ただ期待には応える。まさしく非の打ちどころのない子だった。けれど思えば、彼女が子供らしく自由気ままに、安心してすごすことのできる環境を用意できなかったのは私たちだったのだ。好きなものを主張しない彼女に尋ねるでもなく、何も反発しない彼女の心を慮るでもなく、彼女に甘えていた。

 あの子の助けになることも、支えになることも、きっとできてはいなかった。



「この部屋、何もないだろう。私たちが片付けたんじゃない。あの子がいた頃からここはこうだった。最も長く過ごす私室ですら、彼女が自由になれる場所ではなかった。あの子はただ模範的であり続けた。私たちが期待だけして、あの子に歩み寄ろうともしなかったせいで」



 整然として、生活感なく、ただここで寝起きしていただけ。そんな部屋だ。まるでこの部屋はドールハウスのようだった。


 橙色に染まりかけた日が、窓から差し込む。

 終わりの時間だ。

 するりとまた、涙が転がり落ちた。その涙の理由は自分にもわからなかった。



「……もう、行かなくては。観光に来たのに、つまらない話をして悪かった」

「いいや構わないさ。私にはわからない話が多かったが、興味深かった」



 男はすっと立ち上がると引き摺って来た椅子をさっと元の場所に戻した。



「それで、これだけでよかったのか。件の妹君の形見を持っていったり、思い出の品を取りに来たわけではないのか」

「ああ、すべてもう3年前の私たちが置いていったものだ。今更持ちに来るものはない。……私はただ、受け止めきれなかった現実に向き合いに来ただけなんだ。君と話ができて良かった。一人だったなら、また私は逃げていたかもしれない」

「後悔するのが目的だったのか」

「何に後悔したのか、自分が何をしたのか、何ができなかったのか。それに向き合い、決して忘れないように抱えていくのが目的だった。これからの私にできるのは、ただ忘れぬだけだ。国が忘れようと、王が忘れようと、私だけは忘れない。あの子の、家族として」

「…………」



 男は初めてなんの返事も相槌もしなかった。橙色に染まった日を背負いながら、黙ってこちらを見つめていた。




 屋敷から出て、その扉に鍵を閉めた時、何かをここに封印するようだと感じた。そして

もう二度と、私はここへ来ることはないと心のどこかで確信した。

 もう誰も、この扉を開ける者はいない。



「…………」

「どうした。ここはもうあんたの帰る場所じゃあない」

「……そうだな」

「誰もここへは、帰らない」



 男はすっと身を引いて、門へと向かっていった。

 見物が終わったために解散するのかと思ったが、男はしばらく先で立ち止まり私を見ていた。まるでついて来いと言わんばかりに。

 鉛のように重たい足を地面から引きはがし、男のあとを追う。


 すまない。

 何に対する謝罪か、もうわからなかった。けれど許されずとも謝りたいと、そう願ってしまう何かがあった。



「あんたは凡人なんだな」



 脈絡なくそうぶつけた男に苦笑いする。人からそのように称されたことはない。だが自然とその言葉を受け止めることはできた。



「そうだ、つまらぬ凡夫さ」

「平凡で、善良な人間だ」



 男は踊るように足取り軽く歩を進める。揺れる長い黒髪は黒猫の尻尾のようだった。機嫌よくゆらゆらと揺れ、誘う。



「ただ後悔に浸り、嘆き暮らすしかないお前にもできることはある」

「……私に、何ができる」

「祈り、紡げ」

 静かな美しい言葉だった。こちらを振り返り、日を背負う姿はいっそ神々しく見えてもいいはずなのに、どうしてか魔王のようにしか見えなかった。



「何を祈り、紡げばいい」

「願いを祈り、紡げばいい。無責任でいい。正しくなくていい。お伽噺でいい、現実でなくていい。自らのために願い、紡げばいい」



 歌でも歌うように機嫌よく吊り上がった口が忙しく動く。



「さあ妹を捨てた悪しき兄よ。父母を裏切れなかった哀れな息子よ。自責と後悔に溺れる善き人よ。お前は今、何を望む」



 まるで裁きを与える者のようだった。何もかもを見通す悪魔のようだった。

 けれどもし、無様に願い、紡ぐことが許されるなら、私は何を祈るだろう。



「私はただ、あの子の幸福なお伽噺を」



 口から紡がれたのは拙く、児戯のような言葉だった。お伽噺など、子供の情操教育でしか凡そ使われることのないものだ。成人した男が、家を背負う当主である私が、願いを乗せて口にするにはあまりにも幼かった。


 カっと顔が熱くなる。

 けれど男は、嘲りの表情など微塵も浮かべていなかった。屋敷で私に言葉の続きを促していたように、私のことを見つめ、続きを求めた。



「幸福なお伽噺、どんな話だ」

「……あるはずがない。こんなことを願ってはいけない」

「あるはずないものを叶えるのが物語だ。願ってはいけないことなどない。祈り願うことの何が罪深いだろう」

「もし、あの子が生きていて、怪物に食われることなく、どこかへ逃げていてくれたら」



 暗い森の中。薄汚れた彼女が檻の中に入れられている。心もとない月明りに照らされる。そうするとどこからともなく、狩人が現れる。檻の中に入れられた彼女を憐れんだ狩人は、彼女を連れ出し、誰も知らない国へ逃げる。


 不要だと思い続けていた自身の想像力が、あまりにも貧相でもどかしくなる。

 あの子の幸福を祈り、あの子が穏やかに暮らせるような世界を紡ぐ。



「誰も知らない国で、あの子は誰かに強制されることもなく、自由に暮らすんだ。貴族としても責務も、家名も血も関係ない、自由な場所で。好きなものを好きだと言い、嫌いなものを嫌いだと言う。……誰かを愛し、愛され、何より自分自身を大切に思えるように、あの子は変わっていくんだ」



 足取りは軽く、跳ねるように。美しく長い髪が揺れ、緑色のリボンが嫋やかに舞う。花が咲くような笑みを浮かべ、そこで出会った善良な人々と、言葉を交わし、心を通わせる。苦しいことも、辛いこともないように、美しく甘いものだけを食むように。



「……そうして、息苦しかった不自由な暮らしも、忘れてくれればいい」



 どうかこの国ことも、私のことも忘れて、とその言葉は嗚咽に紛れて地面を濡らした。

 私のような臆病者に、祈ることが許されるのであれば。跪かずにはいられない。祈り、願い、物語に乞う。



「それが、お前の願いか」

「ああ、今更ながら、私が、願うのなら。なにももはや叶わぬ夢と自覚しながら、厚顔にもその夢を口にするなら。どうか彼女に、幸福な今を、明日を」



 なんと身勝手で、悍ましいことだろう。捨てた者がこのように、祈るなど。

 けれど、それでも。



「構わん。良いだろう、その夢は叶う」

「は……?」

「お前が紡いだお伽噺の中で、かの憐れな公爵令嬢は幸福な日々を送ることだろう」



 は、と声とも吐息ともわからぬ音が開いたままの口から出た。

 虚無だ。すべては自分の妄想でしかない。

 自らを慰めるためのだけの物語が、救いとなり得るか。幼子のままごとにすら劣るこのお伽噺が。


 はたと顔をあげた。夕日を背負い、男は笑う。

 私は一度でもこの男に対し、家が公爵家であることを口にしただろうか。

 滲み潤む橙色の視界の中で、弧を描く口元がいやにはっきりと見えた。



「だがそうさなあ、今のままだと座りが悪い。暗い森の中歩き回る狩人などいまい。では夜中の森を彷徨う者こそふさわしい。……ダーゲンヘルムの怪物は、檻に入れられた公爵令嬢を見つけた。興味をひかれた怪物は、檻を壊し、捨てられた少女を抱え根城へと帰っていく」



 男から目が離せなかった。

 この男は、先ほどまで自分と話をしていた男なのだろうか。飄々とし、どこか幼さの残る話方をしていた男。だが今は男の言葉の一つ一つが、天から降るようだった。小柄であるはずの身体は日を背負い異様に長く影を作る。影は私の影を飲み込んだ。



「国に捨てられた少女は、貴族の身分などに拘泥はしなかった。怪物に怯えながらも、少女は願いを口にした」

「ねが、い」



 もはやそのお伽噺はただの妄想ではなくなっていた。

 確かな温度を持って、その物語は、あるいは記憶は、ここに語られる。



「本を愛した少女は、物語と共にあることを望んだ」

「……それは」

「そうして公爵令嬢はラクスボルンの願い通り、ダーゲンヘルムの怪物に食い殺された。残ったのは物語を愛しながらも、自分の愛し方も知らぬ、少女ただ一人」



 男はわらう。



「シルフと名乗った捨てられた娘は、ダーゲンヘルムで本に囲まれながら、末永く暮らしたとさ」

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― 新着の感想 ―
この回、何度も読んでしまうくらい好きです。 ずっと、シルフの家族のことが気になっていました。 彼らがどう何を考え思っていたのか。 少なくともシルフに悪感情があったわけではなかった、家族としての情は確か…
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