お伽噺が現実に変わる日 Ⅱ
屋敷の中はものの数日がらりと雰囲気が変わった。
使用人たちはいなくなり、家財道具は運び出された。屋敷の中に飾られていた花はなくなり、何も置かれていない飾り棚が所在なさげに佇んでいる。
家の者は誰も物に執着しない。家具も宝飾品も最低限だけ手元に残し、あとはすべて売り払った。敢えて次の引っ越し先へ持っていく必要はない。金に換えてあちらで新しいものを買いそろえれば良い。そこについては誰も異論はなく、次々と手放した。今や屋敷は空の入れ物のようで、生活感のない張りぼてのようだった。
人気のない廊下を歩く。そこに、寂しいという感情はない。ただ静かであるというだけで。
扉の前で足を止める。ふと、自分は今までに何回この戸を叩いたのだろうと考えた。
そしてきっと、もう二度と叩くことはないのだろう、と。
ノックをすることなくドアノブに手を掛けた。
物に執着しない家族が、唯一、手を付けずそのままにしていた部屋がある。そうしようと誰かが言ったわけではなく、ただなんとなしに、誰も手放そうとも、何か持っていこうともしなかった部屋。
生活感のない部屋だった。整然と片付けられた棚、何も置かれていない机。年頃の娘に相応しくないほどに、その部屋は遊びがなかった。可愛らしい雑貨が置かれるでもなく、こだわりの家具や装飾品が置いてあるでもない。ただそこで生活するためだけの部屋だった。
誰かがこの部屋を見たとしてこの部屋の主人が誰だかわかるだろうか。そして私自身、何をもってこの部屋を妹の部屋だと判断できるだろう。
ぐるりと見渡して、ため息すらでない。
可愛がっているつもりだった。優秀で勤勉な子だと誇りに思ってすらいた。けれど自分はその気持ちのどれほどを彼女に伝えただろうか。いや口にした記憶すら怪しかった。聡明な子だった。何も言わずともわかっていると思っていた。だがわかっていないのは私の方だった。
私はあの子の何を知っていただろうか。
彼女が何かを好きだと言ったことがあっただろうか。何が好きかと彼女に問うたことがあっただろうか。
彼女のことを深く知ろうとしたことがあっただろうか。
成績が良く真面目。従順で控えめで勤勉。そんなことは外部の人間でも知っている。
私は兄として、家族として彼女の何を知っていると言えるだろう。
整然とした部屋で一人、立ち尽くした。
この部屋に、何か彼女を示すものがあったとして、私はそれを彼女らしいと納得するのだろうか。彼女の好きなもののひとつ、知りもしないくせに。
もしかしたら、この部屋と私は似ているかもしれない。この部屋は、ただ彼女が公爵令嬢として生活するための部屋だった。そして私はただ同じ親から生まれ、同じ屋敷で過ごすだけの人間だったのかもしれない。彼女にとっては、ただ環境の一つであったかのように。何も望まれないように。
この部屋はここへ置いていく。手放すことも、持っていくこともできず、ここへ置いていく。おそらく父も母も同じように考えている。
けれどどうしても、割り切れず、私はこうして部屋を訪れた。
引き出しの棚を開けると、いくつかの宝飾品の入ったケースを見つけた。
多少の後ろめたさを覚えながらも、私は見覚えのあった髪飾りを抜き取った。
小さな頭に着けられた、緑色のリボンの髪飾り。
気に入っていていつも着けていたのか、それとも興味すらなくいつも着けていたのか、わからない。
ただこれだけは、彼女がここで暮らしていたという確かな証明のように思えた。
この髪飾りをつける子は、もういない。
妹は国外追放されることとなった。
怪物の棲まう国、ダーゲンヘルムの森へ。
すっかり日の落ちた夜。カーテンの隙間からはうっすらと月明りが差し込んでいた。馬小屋の中には数頭の馬を残し、あとは空になっている。明日には発つおかげで屋敷の中はおよそもぬけの殻だ。廊下を歩けど、使用人も一人としていない。寝静まった屋敷の中、足音を立てぬように、けれど急ぎながら進んだ。
最低限の資金は持っている。ダーゲンヘルムの森への抜け道も、どこに身柄も放棄されるかも把握している。
私は生れて初めて、自分の意思で愚行を犯す。それが愚かであると知りながら、そのリスクの高さを知りながら、それでも自分で選択した。
国外追放されたシルフを連れ戻す。
ダーゲンヘルムの森へ入った者は食い殺されるという馬鹿馬鹿しい法螺話がある。ダーゲンヘルムの森へ国外追放されるということは、ダーゲンヘルムの怪物に食い殺される、と。つまりは処刑されるということだ。知人に確認したところ、一晩放置し、それから兵士が殺害するのだが、世間では「ダーゲンヘルムの怪物に食い殺されたのだろう」とうわさされるという。
効率が悪いと思っていたが、それに感謝する日が来るとは思わなかった。
ダーゲンヘルムの怪物など、いるはずがない。放置されたシルフを助け出し、それから西の国へ逃げれば良いのだ。
夜が明けて誰もいないのであればダーゲンヘルムの怪物に食い殺されたということにすればいい。適当な動物の血でも撒いておけばいいだろう。
妹が死んでいるということにすれば、西の国へ連れて逃げたとしても追ってくることはないだろう。
大丈夫だ。遅くなった。けれど間に合う。
どうせ私たちはこの国のすべて捨てたのだ。地位も、名誉も。あとはただ逃げるだけ。
そんな私たちが、国から捨てられた少女一人連れて帰ることに、いったいどんな不都合があるだろう。どうせ殺されるのだ。誰かに連れ去られるのだって、何も、何一つとして問題はないはずだ。
国を出れば公爵家などという肩書は無意味になる。以前と同じ生活にはならない。それでも、生きていける。今度こそあの子のことをちゃんと見よう。彼女が、何を好きで、何が嫌いなのか。何を望んで、何を望まないのか。
彼女を見よう、話を聞こう、言葉で伝えよう。
今からでも、きっと間に合う。
愚行であろうと、みっともなかろうと、今足掻かずしていつ私は必死になる。
ただ淡々と生きてきた。
公爵家の子息として、貴族として、誇り高く、賢く立ち回って来た。安定した幸福へ至れる道をただ信じ、努力してきた。けれどその末に今があるというなら、信じた道のなんと無意味であることだろうか。
守りたい妹一人、守ることすらままならない幸福の道など。
愚かでいい、見苦しくていい。ただこの夜を何もせず、明日には逃げ出すとしたならば、きっと私は生涯忘れることなく後悔し続けることだろう。
ただ一人の妹を見殺しにした兄として。
大丈夫だ。私ならできる。
「エンツィアン、何をしている」
心臓が凍り付いた気がした。
静寂に包まれた屋敷に冷たく厳めしい声が響いた。寝ているはずの父がそこにいた。
一瞬で状況を把握し、駆け出す。
あの父相手にまともに説得ができるはずがない。父は既に諦めたのだ。ここで私がリスクを冒し足掻くことを良しとはしない。ただ合理主義であるがゆえに、私が妹を連れて帰ればそのまま西の国へ連れていく判断をするに違いないと踏んでいた。少なくとも妹を兵士に引き渡すことはせず、知らぬ存ぜぬ、もはやこの国とは関係ないと白を切りとおし、そのまま西の国へともに逃げるだろう、と。
だがここで止められることは全くの想定外であった。
玄関まで走り出し、扉に縋る。しかしすぐに異常に気付く。扉のノブには鎖がかけられ、仰々しい南京錠で施錠されていた。
「なぜ……!?」
「なぜ、とは。玄関を封鎖してあるのはお前の様子がおかしかったからだ。馬小屋に鞍が置いていないのはお前が勝手にどこかへ行かないようにするためだ」
「なっ……」
「……お前があの子を迎えに行かせないためだ」
「どうしてっ」
「なんだ、今日のお前は質問が多いな。そして何よりそんなことを聞いてどうする。いや、私が教えてやらねば理由すらわからぬのか」
ランプを手に持った父は、悠然と扉の前に立った。
すべて見透かされていた。そのうえ先手を打たれもはやなすすべもない。
なぜ止めるか、そんなことは知っていた。
「父上、あの子を迎えに行かせてください! わかっているでしょう、あの子は何もしていない! 冤罪だ! だがそれを彼らは認めない、ならばもう正攻法は取れません。あの子はもう殺されてしまいます! ならばもう攫ってしまって、あの子も西へ連れて行きましょう! ダーゲンヘルムの怪物でもなんでも、それに殺されてしまったのだろうと彼らは納得せざるを得ないでしょう」
焦り捲し立てる私に父は深々とため息を吐き、ランプを床へと置いた。
一刻も早く説得し、迎えに行かせてほしいという思いと、もはや父には説得の余地がないという諦めがせめぎ合った。
「どこで、何を聞いたか知らないが、およそ現実的ではない。あの子はダーゲンヘルムの森へ連れていかれたのだろう。あの子はきっと、殺される」
「兵士から聞きました。ダーゲンヘルムの森へは一晩放置され、翌朝様子を見に行った兵士が殺すのだと。今ならばあの子は生きています。あの子を救えるんです……!」
「それが事実である、証拠は? お前が兵士に騙されているのではないか。朝までは生きている、と嘯き、お前が来るのを待っているとは考えられないか」
「そ、れは」
思わず言葉に詰まる。それは考えていた。想定していたにも関わらず見ないふりをしていた。そう考えてしまうと、決して妹を迎えに行けないとわかっていたから。
「何より、お前までダーゲンヘルムの森へ行くことは許さない。あの森へ入れば、ただでは済まない。私たちにお前まで失わせるつもりか?」
「ただの森でしょう! ダーゲンヘルムの怪物なんて父上も信じているんですか? 怪物なんてものはいない、非現実的だ。あの子も私も怪物に殺されるようなことは、」
「エンツィアン、いるんだ」
「は?」
「ダーゲンヘルムの怪物は、いる」
思わず耳を疑った。
父は、冗談を言うタイプではない。現実主義で、夢物語とは縁遠い合理主義者。そんな彼が、怪物などという与太話を本気にしている。
「今まで何人も、あの森へ入っては姿を消した。戻ってきたとしても怪我を負い、誰もが“怪物に会った”と譫言のように口にした」
月明りのせいではない。顔色を悪くした父は強い口調で言った。
頭を殴られたような気分だった。あり得るはずがない。怪物なんてお伽噺の世界にしかいないはずだ。何かを見間違えただけ、怪物を見たと言うように脅されているだけ。そうでなければおかしい。そう考えるのが普通だ。
まるで森の中に入ればお伽噺に飲み込まれてしまうような、そんなことあるはずがない。
なのになぜ、私は、笑い飛ばすことさえできないのか。
風に揺れる庭の木が、差し込む月明りを遮った。
「エンツィアン、あの子は怪物に食われる。もはや助からん」
「父上っ……!」
「私たちに、お前まで失わせる気か……!」
骨ばった両手が強く私の肩を掴んだ。記憶の中にある父の手より幾分か薄く、手首は痩せ、否が応でもその姿に老いを感じざるを得なかった。
「だが、私はあの子を失いたくはっ……」
「お前は悪くない。すべては彼の男爵令嬢が、目の曇った王家が悪いのだ。そしてあの子を助けに行かせなかった私が」
私は、父の手を振りほどけなかった。
夢物語のように、颯爽と捕えられた妹を助けに行くことはできなかった。
そうできるほど、私は夢見がちではなかったし、今自分の手の中にあるものを蔑ろにできるほど、愚かではなかった。
月明りは、朝日とともに姿を消した。
恐怖を煽るような風も、陰も消えうせて、ただ晴れやかな朝が来た。




