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捨て悪役令嬢は怪物にお伽噺を語る  作者: 秋澤 えで
番外編

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お伽噺が現実に変わる日

 窓の外を、鳥が飛んでいくのが見えた。

 長らく、自分はなんでも知っている人間だと思い込んでいた。しかし私は、日常の風景の中に生きるあの鳥の名も知らない。

 私が知らないことはあまりにも多すぎるということを、つい最近、ようやく、自覚した。自分がどれほど愚かであったかも。


 私は何もわかっていなかった。

 もしも私がもっと賢かったのなら、ものを知っていたなら、未来を変えられたのだろうか。

 そうでなくとも、あの小さな妹にしてやれることがもっとあったのではないだろうか。

 気もそぞろとなり、ペンを置いた。

 どこからか、子供の声が聞こえる。外は平和そのものだ。青々と名も知らぬ木々は茂り、見わけもつかない鳥たちが飛び、聞き覚えのない人々のざわめきが遠くに聞こえる気がした。


 どこを切り取っても平和で幸福な景色は、数年経とうとも見慣れなかった。

 いつも何かが欠けていた。何が欠けているかは、失ったときからわかっていた。ただ私がわかっていなかったのは、それに付随して自らのうちから湧き出る焦燥感だった。


 ラクスボルンが壊れ始めてから、3年が経った。


 かの祖国はある日、気が触れた。そうして怪物の住まう国、ダーゲンヘルムにより滅ぼされたという。

 ラクスボルン国民はことごとく逃げ出し、王侯貴族は首を落とされたという。

 ダーゲンヘルムに滅ぼされた国は、一欠片の生命もない黄泉の国の領土になる、とそう実しやかに囁かれていた。

 わが祖国は今、黄泉の国と化しているのだろうか。

 それは唐突な思い付きだった。けれど心のどこかで、いつかきっとこの日が来るだろうと予感していた。私は私の過去にけじめをつけなければならない。

 妹を守ることなく、逃げ出した自分自身に。



 ビーベル公爵家は、絵に描いたような貴族だった。

 王家に親しい血を継ぐ、由緒正しい一族で、当主は聡明で王からの信頼も厚く、その妻は家のすべてを取り仕切る優秀な人間だった。その子供もまた、品行方正で賢く、まるで非の打ちどころがなかった。

 誇り高く優秀で、お行儀の良い家。それが子供のころの私の認識で、私自身、そうあらんとした。父母からの期待、周囲からの羨望、そのすべてに応える義務があると。責務ある立場だと思いながら。不満はなかった。そうすべきと疑ってはいなかったし、思い返してもそれが正しかったと口にできる。


 期待を裏切らぬよう、努力した。努力はすべて実をつけた。学園では主席、関係のある貴族たちからは気に入られ、未来は明るかった。父母から示され、自分の力で敷いたレールは自分の家と同様に非の打ちどころがなかった。


 私は望ましい公爵家子息であったし、期待される次期当主だった。

 妹もまた、同様だった。


 自己主張は不得意だが、努力を惜しまず、直向きで純粋。勉学にも所作にも文句のつけようがなかった。まさしく、貴族令嬢の手本のようだった。早々に同い年であった王太子の妃候補となるのも当然のことで、妹はその期待に応え続け、そうしてとうとう王太子の婚約者となった。

 父母はそれを当然と思いながらも妹のことを惜しむことなく褒めた。これで王家との関係は安泰であると、そしてこの成功は妹自身の努力によって得られたものだと。

 妹はいつも、控えめに微笑んでいた。


 歳の離れた妹は人に甘えるのを得意としていなかった。可愛がろうともいつも微笑むだけで、そういう意味では子供らしさがあまりなかった。けれどそれは貞淑な貴族令嬢を思えば決して望まれぬ態度ではないし、敢えて矯正する必要もないだろうと思っていた。

 ただ一つ、普段の彼女の態度から考えると不思議なことがあった。私が図書館に用があるとき、散歩のように一緒に連れていくと彼女は悉く姿を消す。「そこで待っているように」あるいは「傍から離れないように」と口酸っぱく言いつけて、彼女はそれに神妙な顔で返事をしてみせるのに、私が本棚に目を移したほんの数妙の間に姿を消すのだ。

 どんな指示にも、二つ返事で従うのに、彼女はしょっちゅういなくなる。最初は血相を変えて探したものだが、数回繰り返すうちに彼女は大抵図書館内の奥、窓際のスペースにいる

ことが多いとわかった。どこに行ったかさえ把握できていればいい、と思いながらもやはり小さな子供には図書館は暇すぎるのだろうと思いなおし、彼女を連れて行くのはやめた。


 ビーベル公爵家は理想をそのまま体現したような一家だった。

 富も地位も権力も持ち、それにふさわしい実力も携えた私たちは、没落などという言葉と対極にいた。いたはずだった。

 落ちるのも、崩壊するのも、始まりは唐突で、その勢いは一度始まったらもう止められないのだと、そう思い知ったのは妹が公衆の面前で婚約破棄を言い渡されたときだった。

 きっとそれが、ラクスボルン崩壊の一歩目だった。




 王城のパーティーに呼ばれ出向いていった妹は、そのまま屋敷へ帰ることはなかった。

 代わりに屋敷に来たのは王城の遣いで、「ご息女は同級生である男爵令嬢に嫌がらせを行っていた」「あまつさえ殺そうとした」と、淡々と伝令文を読み上げた。

 それを聞いた父は怒髪天を突いた。



「あの子がそのようなことをするはずがない!」



 父が声を荒らげるのを見たのは、後にも先にもこの件だけであった。

 眩暈を起こし倒れた母を支え、王城まで馬を走らせる父を私はただ見送った。

 父は怒り狂ったが、私は落ち着いていた。ただ理由は父と同じだった。あの控えめな妹がそんな非合理的なことをするはずがない、と。


 一つ、気がかりだったのは伝令だった。その日の朝まで、そんな嫌疑がかけられているという噂の一つも耳の届いていなかった。にも拘わらず伝令は“疑い”ではなく既にそれが“事実”であるかのように語った。本来であればあり得るはずのないことだ。あまりにも迂闊すぎる。冤罪とわかったとしても、どれほどの影響を及ぼすのか、貴族であればわからないはずがない。


 だがその日、帰って来たのは憔悴した父一人だけだった。



「父上、いったい何が……」

「エンツィアン、よく聞け。この国はもう終わりだ。陛下も殿下も気が触れたらしい」

「……父上、いくら屋敷内といえどそのような過ぎたお言葉は、」

「シルフが投獄された」



 その瞬間時が止まったような気がした。五感が遠のき、何も聞こえなくなる。ただ父の言葉だけが頭の中に響いていた。



「……どういう、ことです。今日の今日で、投獄など。それもあの子が、」

「もはや話し合いにもならん。陛下も殿下もシルフが罪なき善良な男爵令嬢に危害を加えた、殺そうとしたと主張するばかり。そのうえ証拠の一つも出てこない。ただの証言だけだ」

「だとしても、ひとまず今夜は帰ってくるのでは。公爵令嬢ですよ。証拠もなく投獄なんて、少なくとも貴族議会に対応を報告する必要があります。それこそ、今回のケースなら議会への相談、報告もないまま処断するなど許されるはずがありません」

「駄目だ。今日議長にも会って来た。……証拠はないが証言はある。それで十分だと。議会に諮る必要もないほどに、明白だと」

「そんなはずが、」



 緑色の瞳が私を見下ろし吐き捨てた。



「この国はもう終わりだ」



 父がそう言うのなら、きっと本当に打つ手がなかったのだろう。

 けれど私はその一言で納得できるほど大人ではなかった。


 3日後には使用人の多くが解雇され、次の雇用先の紹介状を手に屋敷を去った。出入りの商人を呼びつけ調度品の多くを金に換え、隣国にあった伝手を駆使し荷馬車や屋敷の手配をした。

 西の国への亡命は驚くほどスムーズに進んでいた。まるでこんな日が来ることをわかっていたのではないかと掴みかかりたくなるほどに。けれど同時に、父という人がただただ優秀で冷徹な人間であることもよく知っていた。悲しみや苦しみを表に出さぬからその感情がない、というわけではない。一家を支え、使用人を食わせその家族を養う立場である父にはそれは許されなかったはずだ。いつだってぶれず、荘重な振る舞いをしなければならない。

 妹のいない新しい生活に向けて、準備は着々と進んでいた。



 淡々と各手続きが熟される中、私は酒場に来ていた。会員制のここは密談をするにはもってこいの場所で王城に出入りする者や貴族たちからよく使われていた。人払いのされた奥の個室を使うのは久々だったが、今回ばかりはここでなければならなかった。



「なんとかならないのか。こんなこと、あっていいはずがない」

「何ともならんさ。お前の妹はあっていいはずのないことをしたんだ、エンツィアン」

「あの子がそんなことをするはずがないんだ!」

「まあ落ち着けよ」



 久しぶりに会った友人はまるで哀れなものを見るような目で私を見た。

 学園に通っていたころから繋がっていた知人の一人、王城で文官として出仕している彼は今回の件も間近でかかわっていた。



「言わんとすることはわかるぜ。あまりにも投獄が早すぎる。本来ならもっと慎重に動くはずだ。それこそ相手は彼のビーベル公爵家なんだから」

「ならなぜ」

「軽率に動いたのが他でもない王家だからだろ」



 彼はうっそりと何かを馬鹿にするように笑った。持っているグラスの中で琥珀色の液体が揺れる。



「軽率に殿下が、その取り巻きが公爵令嬢を糾弾した。……彼らはまだ子供だ。間違いはある。だが本来ならそう諫めるはずの大人たちがそれを肯定した。幼い殿下の過ちを陛下が容認した。これは子どもの間違いではなく王家の決定になった。この状況で誰がどう、ひっくり返せる。誰が王家の顔に泥を塗れる」

「……真実があれば」

「本当にそう思うか? いやお前は馬鹿じゃない。どうにもならないことくらいわかってるだろ。だから公爵閣下も匙を投げた。……公爵家は国から逃げるらしいな」



 なぜそれを、という馬鹿なことは聞かない。使用人の解雇に家財の処分。これだけ大きく人や物が動いていれば隠すことなどできるはずもない。



「……公爵家はラクスボルンに見切りをつけた。まともな調査もせず、証拠もなく、およそ独断で国民を罰するような王家に仕えることはできない。王家も、それに諂う上層部にも、もはや何も期待できない。腐ってる」

「……かの優等生をそこまで言わしめるか」

「もはやこの国で失うものは何もないのでね。……お前はこれでいいと思うのか。仕える価値があると思うのか」

「価値はあるさ。そこに仕えていれば食いっぱぐれることがない。何を期待してる。正義感か、潔癖か。そんなものもてはやされるのは空想の中だけだ。お前だってよくよく知ってるはずさ。貴族がうまく生きていくには、どうしたらいいか。正義感も、公正も、ただ謳い見せるだけでいい。心根にそれが染み付いていればアッという間に没落する。そうだろう。媚び、諂う、それの何が悪い。たとえ君主が暗愚であろうと従うしかない。それを正すのは側近や後継者の役割だ。俺たちの仕事じゃないし、そんなことに口出しする権限も立場もない」



 歌うように彼は堂々と言い放った。他所では決して口に出すことのない貴族たちの本音。二人きりであることに加えアルコールが口を軽くさせる。



「そもそも、お前の妹は本当に無実なのか。動機としては十分あり得るだろう。王太子の婚約者である令嬢が、嫉妬に狂い王太子を慕う他の令嬢に危害を加える。……まあ軽率だが、相手はまだ学生の子供だ。行き過ぎた嫉妬。十分納得できる」

「納得できるはずがない。あの子はそんなに考え足らずじゃない。……そして嫉妬などするほど殿下に興味があるようには見えなかった。所詮は政略結婚だ。第2夫人や愛人だってできる可能性もあることはわかっていただろう。それを嫉妬など、」

「お前みたいに生真面目な子だったんだろうな。嫉妬じゃないとして、じゃあ次にあり得るのは真面目さ故の焦り、とか。婚約者は婚約者、結局結婚してるわけじゃない。そんな中王太子と仲良くしている令嬢がいれば焦るだろう。親の期待に応えられないかもしれない、家の役に立てないかもしれない。……悩みに悩んで最悪の方法を、みたいな」



 せせら笑うようにグラスを傾ける彼の様子に歯噛みする。まるでゴシップ記事を酒の肴にするように下卑た憶測を披露する彼の横っ面を張りたくなった。



「…………もう、助けられないとして、最後に一度会うことはできないのか。金を積めば処刑前に話ができたようなケースもあっただろう」



 高貴な身分の者が罪に問われたときは、通常自宅に軟禁されることになる。罪が確定するまでは逃げ出さぬよう監視下に置きながらも自宅で過ごすことができる。そこから移送され投獄されるのであれば、親族等からの差し入れや面会は許されていたはずだ。



「今回はあらゆる点で非常識で例のないことが続いているが、せめてそれだけでも、」

「金を積めばできるかもな」

「じゃあ、」

「王家の顔に泥を塗る可能性のあるその金を、いったい誰が受け取る。誰が許可できる。百歩譲って、公爵家が全面的に令嬢の罪を認めて、粛々と処刑を受け入れるって言うならそういう可能性もあるだろうが」



 彼が今、どんな顔をしているかわからなかった。ただ笑っているのだろう、ということだけはわかった。



「お前、罪を犯したのは妹だって、嘘でも口にできるのか」



「お前、こうやって誰かを頼ろうとするのやめろ。最後くらい清々しく発ってくれよ。……もう誰もお前の話を聞いたりしない。公爵家の身分も捨てて国外へ逃げるなら、お前自身の価値なんてないんだ。無駄に足掻いてるのを他人に見せるくらいなら、どれだけ泥塗られても汚名を着せられても気高く背を向けてくれよ」



 その言葉を残して彼は夜の中へと消えていった。

 怒りや悔しさ、悲しさが綯交ぜになる。

 私は何もできない。

 彼女を救い出すことも、最後の別れを告げることも、無実だと信じていると伝えることもできない。挙句の果てには足掻く姿はみっともないから見せるなと忠告される始末。


 誰に怒ればいい。誰を恨めばいい。

 虚言を吐き、周囲を操り、妹をはめた下賤な成り上がりの男爵令嬢か。

 まともな調査もせず妹を罰し処刑しようとする王や王太子、国の上層部か。

 上の決定に疑問を抱かず諾々と従う貴族たちか。

 早々に妹の奪還を諦め次に向けて粛々と動く父か。

 否、最も腹立たしいのは、高慢であり優秀であるという自負を持ちながら、今この時彼女を救い出す手立ての一つも用意できない愚鈍な自分自身だった。

 父にすら何もできないと諦めたのに、未だ足掻こうとする自分自身が、まるで無力さの言い訳のために奔走しているようで吐き気がした。


 グラスに残っていたうまくもない液体を喉に流し込んだ。


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