眠れぬ夜は明かりを灯して
それは、あるはずもない記憶でした。
わたくしは一人、歩いていました。
何を目指しているのかもわからず、しかしただどこかへと向かっていました。
周囲には一つとして明かりはなく、どちらが前で、どちらが上かもわからないまま、ただ自分の足の赴く方が前と疑わず、自分の足が踏むものが下だと信じながら、真暗闇を見据えていました。
ふと、自身の足が濡れていることに気が付きました。
よくよく見れば、足もとは薄く水が張っていて、わたくしが足を動かせば波紋はどこまでも広がっていきます。なんの音もしなかったこの場所に、わたくしが水を跳ねさせる音が響くようになりました。
音が聞こえるようになるとともに、闇に目が慣れるように少しずつあたりを見ることができるようになりました。
両手を上げれば手が、俯けばつま先を見ることができます。いつもと同じワンピース。ブーツは汚れ、微かに素足まで水がしみてきていました。
「ああ、きもちがわるい」
思わず眉を顰め、足元の水たまりに手を触れました。こうもあたりが水溜まりで覆われていては、どこへ行っても濡れてしまうでしょう。触れた手を何となく眼前にかざし、息を止めました。
私の手は赤く濡れていました。
思わず踏鞴を踏んで、足元で水が跳ねます。ワンピースの端に、赤く丸いシミが飛びました。つい先ほどまで真暗闇で黒以外の色などなかったのに、花が一斉に開花するように、一面に赤が広がっていきます。
ざわざわと何かが迫ってくる気がしました。
うまく息ができなくなります。
自分がどうやって呼吸をしていたのか、どんな風に生活していたのか。そんな単純で当たり前のことが、わからなくなっていきました。
何がどこから迫ってくるのか。自分はどこへ逃げれば良いのか。何もわからないのに、わたくしはただただ怯えながらも足を止めようとはしませんでした。
じわりじわりと世界が明るくなります。
水平線の果てから朝日が昇るように、何もかも覆い尽くしていた夜を取り払うように。けれどそこになんの爽快さもありませんでした。
隠されるべきものが、無情に暴かれるように、闇の帳は上がっていきます。払われる黒を喜ぶように、水面は赤く咲いていきました。
鼻につく悪臭、鉄のような匂い。
むせ返るような、纏わりつくような生暖かい空気。
ブーツに血が、染み込んでいく。
「っ……!!」
声にならない悲鳴は誰に聞かれることもなく、血だまりに落ちました。
逃げたい。逃げてしまいたい。こんな場所など今すぐに。
どこにもいけない
「どこにもいかない」
にげられない。
「にげはしない」
どこかで音が聞こえました。
ぱしゃん。
ぱしゃん。
水が跳ねる音。
わたくし以外に誰かがいると、足にまとわりつく不快感を堪えながら走りました。
ワンピースに血が跳ねるのも、ブーツに染み込む生暖かい感触にも耐えながら、音のする方へ一心不乱に駆けました。
遠く、遠くに人影が見えました。
望んでいたものなのに、私はぴたりと足を止めました。
「は、」
先ほどまでは、自分以外の誰かに心強さを感じていたのに、今では来なければよかったという思いに支配されていました。
わたくしはあれが何か、知りません。
あれが誰か、知りません。
わたくしは、この光景を知りません。
けれど確かに、見たくないと、目を逸らしたいと思いました。
どこかで読んだ物語のワンシーンでしょうか。それとも何かで見た演目でしょうか。
そのどれもが正解に思えても、どうしてかこの非現実的な光景が本当にあったようなことに感じられて仕方がありませんでした。唾液を飲み込むと少し吐き気がしました。
それでもわたくしはふらふらと一歩ずつ人影の方へ向かいました。
ばしゃん。
ばしゃん。
何かが血だまりに落ちる音がします。
一歩近づく毎に、音は鮮明になります。
見たくない
知りたくない。
けれどわたくしは何が起きているか、よく知っているような気がしました。
ふと、再び音が消えました。
血だまりの波紋はわたくしのつま先に触れると消え、顔を上げるとはるか先に、先ほどよりもはっきりとその姿を見ることができました。
ただ一人立つ人と、その人の足元に傅く人々。
ようやく、ああこれは夢なのだ、と気が付きました。
声もなく笑うダーゲンヘルムの怪物。
何かを待つように俯く、遠い記憶の中のラクスボルンの面々。
見たくない。
聞きたくない。
恐れたくない。
あれは
「あれはわたくしの幸福の代償です」
見てもない、聞いてもいない。
ただ事実として知っています。
知ってしまっているのです。
どれだけ美しい物語に囲まれても、どれだけ素敵な人と楽しい時を過ごしても、わたくしの足元には数多の遺骸が積み重なっているのです。
この手を血に汚したことはありません。けれどそのことすらまた、罪なのです。
だからきっと今のわたくしは足だけを血に浸しているのでしょう。
わたくしは誰の首も落としてはいません。
わたくしはただ、わたくしのささやかな幸福のために、彼らを踏みつけているのです。冷たい人だったものの折り重なる柔らかな地面の上で、わたくしは幸福を食んでいます。
ばしゃん。
ばしゃん。
ばしゃん。
気が付けば音が戻って来ていました。目を逸らさず、まっすぐ見つめました。
ラクスボルンの面々は、とぷりとぷりと飲み込まれるように、ただただ赤に沈んでいきました。
穏やかな赤いさざ波が、足元へ寄っては揺れ消えます。
赤の世界で、ダーゲンヘルムの怪物だけが佇んでいました。
もう笑ってはいませんでした。
ゆっくりと、彼はこちらへ足を進めます。
その手にはいつも腰に帯びている剣がありました。わたくしが一度だって見たことのない刃は、一面に広がる赤と溶け合いそうな色をしていました。
「ああ」
口から零れ出た吐息に似た声は、この世界にあるかもわからない空気を揺らしました。
呼びかけるでもなく、ただただ譫言のように垂れ流されます。
「罪深いと、知っていました」
「恨まれると、知っていました」
「……いいえきっと、知ったつもりでいただけなのです」
変わらない足取りで、怪物はわたくしへと近づいてきます。
「わたくしは何も知らない、何も見てない聞いてない。それのなんと罪深いことでしょう。数多の屍の上の安寧は、涙が出るほど美しく、幸福です。この幸福の、罪深いこと」
ばしゃばしゃと音は大きくなり、さざ波は激しさを増します。
近づけども近づけども、怪物の表情を窺い知ることはできません。
「でもわたくし何より罪深いのは、ここでのこの光景を目にすることで、僅かでも知った気になってしまうことでしょう」
怪物は、笑わない。
「これは夢です」
目を逸らさず、まっすぐ怪物の姿を捉えた。
「優しい日々の中で、罪悪感を抱いたわたくしの、傲慢なる夢です」
何も知らない癖に知った気になる、愚かで傲慢な罪。
赤い世界は呆ける間もなく弾けるように消えていきました。
怪物は、わらわなかった。
ぐっしょりと肌着を濡らす汗にいっそ冷静になりました。
赤い世界はどこにもなく、あるのはすっかり慣れた塔の中。柔らかなベッド、取り囲むような本棚、安心できるわたくしの愛すべき世界。
もう心音はいつも通りでした。
ただいつもとは違うのは、今が真夜中ということでしょう。
いつもわたくしを優しく包み込んでくれる朝日は影も形もなく、窓からは静かな闇がこちらを覗き込んでいました。
静まり返った夜に特段恐怖は感じません。それはきっと夜に慣れていないからでしょう。普段夜に起きていることはなく、出歩くこともない。夜中の外出と言えばダーゲンヘルムへ連れてこられたあの夜くらいのことでしょう。
わたくしにとっての夜は、顔の知らぬ隣人のようなものです。
窓の外を見ていると、王城には明かりがついているのが見えました。全員が静まり返ることのない城は、まるで大きな動物のようでした。
そしてその膝下で暮らし、眠るわたくしは、この安寧がその大きな動物によってもたらされているのだと実感し、小さく感嘆の息を吐きます。
どこからか馬の蹄の音がしました。夜中に起きていることのないわたくしの知らぬ場所で、勤勉な騎士は見張りに見回りに忙しなく働いてらっしゃることでしょう。
瞼を閉じれば、なんの光源もなく、どこまでも深い闇に包まれます。
けれど耳を澄ませば風に運ばれる人の声、どこからか響く馬の足音、低く鳴く鳥の声、ざわめきさざめく森の木々。数多の音が夜の闇に息づいています。夜は思っていたよりずっと楽し気で、幼い子供たちが囁き笑う無邪気さがありました。
ふとどこからか音が近づいてきます。
さくさくと、草を踏む軽い足音。
走っては止まって、止まっては走り出す。まるで草叢から草叢へと走りながら身を隠す野兎のような音。
その音は徐々に近づいています。そうしてじっと窓の外の闇を眺めていると、木の陰から現れた双眸と視線がかち合いました。
あ、と息を飲んで、それから噴出します。
城の明かりがついていたのは夜勤の兵士がいたからではなく、皆総出でただ一人を探していたからなのだと気がついたのです。
「こんばんは、良い夜ですね」
「よもや起きているとは……良い子は寝る時間だぞ。本の続きが気になって夜更かしか」
「……ええ、そんなところです」
灯りをつけ、陛下を塔の中へと招き入れる。思えばこんな夜中に陛下と顔を合わせるのは、初めてお会いした日以来でしょう。
「こんな夜更けにお前と話すのは、お前を拾ってきた夜以来だな」
「奇遇ですね陛下。わたくしも今全く同じことを考えておりました」
あれからいろいろありましたね、なんて言えるほど、私にとってかの夜は未だ遠いものではありませんでした。運命も未来も何もかもが変わった夜。
一人の公爵令嬢が怪物に食い殺され、一人の本好きが怪物に救われた夜。
恐ろしくそして希望に満ちた公爵令嬢としての幕引きでした。
「あれからどれだけ経とうとも、あの夜の闇は色褪せません」
身分も何もかも剥がれ、この身一つで投げ出されたダーゲンヘルムで、わたくしは歩むべき未来を自分の意思で決めました。
「本当にありがとうございました」
「ははははは、もう礼を言う必要もない。それほどまでにシルフ、お前は私を楽しませた」
口が心底愉快そうな弧を描く。わたくしが手放したくないと縋った希望の象徴。
わたくしが見捨て、切り捨てた罪の象徴。
わたくしはただ微笑むことしかできません。
わたくしの選択は陛下を楽しませることができたでしょう。ですがどの選択も、手放しでよかったなどと笑えるものではありませんでした。
泥濘を進むように、一歩前へ進むたびに、足に、心に形の見えない何かが纏わりつくのです。
そうしてわたくしは今の幸福を手に入れ、守りました。
わたくしはきっとこれからも、そう足掻きながら進み続けるのでしょう。
「シルフ、どうした」
「え」
「眠いか?」
どこか的外れな心配をする陛下に思わず笑いがこぼれます。
それは私の顔を覗き込む陛下の顔が思いのほか幼く見えたから。
そしてあの夢に引きずられることなく、彼の人のことを恐ろしいと思わずにいられた安堵から。
「陛下、わたくしは一つ、嘘をつきました」
「ほお、お前がか。珍しいな」
にやにやと楽しそうにする陛下は普段のお顔と変わりません。作り笑いではなく、おかしそうな、探るようなお顔。
「ええ、実は今日この時間まで起きていたのは、本の続きが気になっていたからではありません。……怖い夢を、みたのです」
「悪夢か。存外肝が据わっているお前が恐ろしいというのだから、いったいどれほどのものか」
「いえ、目が覚めてしまえば、そう恐ろしいものではなかったのです。ただ……そうですね。雰囲気が恐ろしかっただけかもしれません」
テーブルに置いたランプは陛下の笑みをより深いものにします。妖しげなそれも、今は怖くもなんともありませんでした。
「ともあれ明日も仕事だろう。邪魔した私の言うことではないが、早く寝た方が良い」
「……どんな夢だったのか、お聞きにならないのですね」
「聞いてほしかったか?」
「……いいえ、お話しするにはあまりにつまらない夢ですので」
どんなことでも知りたがり、楽しもうとする陛下が聞いてこないのは少し意外でしたが、詳細を聞かれると困ってしまうので助かりました。
何よりその悪夢は、私たちにとってはあまりに当然の事実でした。
「ですが、なんだか目が冴えてしまいました」
「それは困った」
普段なら一度眠りにつけば朝まで目を覚ますことはないのですが、こうして起きて非日常を食んでしまうと、何事もなかったようにベッドへ戻れる気がしませんでした。
「ああ、いつまでもベッドに入らず眠ろうとしないのは悪い子がすることだ。お前にはあまり、似合わない」
陛下は「キッチン借りるぞ」と言いながらおもむろに立ち上がりました。
「え、え、陛下?」
「私はな、眠らぬ夜は多いが眠れぬ夜の経験はあまりない。故にどのようにすればお前が眠ることができるのか、私には凡そわからん。だがそんな私にも一つだけ覚えがあるのだ」
いったい何をするつもりか、と不安になりながら陛下の後ろをうろうろとついて回ります。小さな鍋に、マグカップ、慣れた様子で手に取っていく陛下にいつの間に場所を覚えていたのかと嘆息します。わたくしの思っている以上に、陛下はわたくしの様子を見ているのかもしれません。
「何か酒はあるか?」
「ええと、ブランデーとラムなら製菓用のものがありますが、」
「それで十分だ。ラムをもらおう」
迷いない手つきで牛乳を小鍋に入れ、火に掛けます。不慣れな様子もなく、心配は何もいらないとわかっていますが、それでもこの方がキッチンに立っているだけで、得も言われぬ不安感に駆られます。相手は年上で、無論子供でもないのですが、小さな子の調理を見守るような気分でハラハラとしてしまいます。
牛乳、砂糖、ブランデー、目分量で入れられた鍋からは甘やかな湯気がゆるゆると立ち上っていました。
こんな真夜中に自分が起きていて、そのうえここにいないはずの陛下がキッチンに立っている。白く甘い液体が、寒さも緊張も解くように温かい甘やかな香りを立ち上らせる。
何もかもが非現実的です。それこそ、先ほどの夢と変わらないほどに。
「ホットミルクですか」
「ああ、私の知っている数少ない、いや唯一の眠れないときの対処法だ」
「……どなたからか、教わったのですか?」
普段のわたくしであれば決してしない質問でした。陛下に投げかける質問にしてはあまりに踏み込みすぎている、と。それでも口をついて出てしまったのは、きっとここが夢とも現ともいえぬ夜だからなのでしょう。
「ずっと昔、幼いころ。それこそレオナルドと出会う前、眠れぬ私に乳母が作ったのだ」
ふつふつと白い水面が湧きたち始め、陛下はヘラで中身をゆっくりとかき混ぜました。
「幼いころの乳母など、顔も名前も覚えておらん。いつからいて、いつからいなくなったのかも。ただ眠れない夜、小さな明かりだけをつけてホットミルクを作っていた後姿だけは覚えている」
薄く笑い、手を止めました。
「栄誉から家が台頭するわけでもなく、政治に口出しをしようとしたわけでもなかった。何も残しはしなかった、何も残せもしなかった。ただ一つ、ホットミルクを私に作ったというなんの役にも立たぬ事実以外」
静かに陛下の話を聞いて、かける言葉を探しましたが、なにも見つかることはありませんでした。あまりにも今まで見たことのない姿に、彼の歩んできた道程に思いを馳せました。
幸福で、愛に満ちた幼少期ではなかったのでしょう。陛下は幼い時の話をほとんどしません。その中でただ一つ、ホットミルクを作ってくれた乳母の後姿は、彼の思い出の中でどんな形をしているのでしょうか。いっそ打算であれば良いと、恩を売りに来ていれば良いと思いたかったのでしょう。
けれど彼女は何も残さなかった。残してくれれば、何か返せるものがあったかもしれないのに。
普段の彼なら決して考えないことも、こんな眠れない夜に寄り添ってくれたことがあったのなら、そう願うこともあったかもしれないと、思ってしまいました。
ただ今こうして語り聞かせた彼はきっと、そこに慈しみに似た尊さを感じているのは確かでした。
「ではきっと、わたくしもまた、陛下がここでホットミルクを作っていただいたことを、忘れることはないのでしょう」
広い背中にそっと触れて、小さな子供をあやすようにさすりました。幼い彼が乳母の背を見ていたように、今はわたくしが、あなたの背を見ているのだと知らせるように。
「陛下も、眠れない夜、あるいは眠らない夜があったなら、いつでもここへおいでください。今度はきっと、わたくしが陛下にホットミルクをお作りいたします」
「……お前はいつも寝ているのだろう?」
「必要とあらば叩き起こしていただいていっこうにかまいません」
「ふ、それは次の夜が楽しみだな」
機嫌よさげに笑うと火を止め、マグカップに注ぎ入れました。陶器のマグカップからはゆらゆらと湯気が漂います。
「熱いから気をつけろ」
陛下に言われるまま長い袖で掌を覆ってマグカップを受け取ります。じんわりと袖越しに伝わる温もりと、鼻孔を擽る甘い香りにため息を吐きました。
二人無言で甘いマグカップを傾けていると、今夜悪夢を見ていたことなど忘れるほど、温かく穏やかでした。
ふと陛下がにやりと笑います。
「さて、眠れぬ夜に付き合う相手ができたのは良いが、次からは小さなランプ一つだけでいい」
「あっ、眩しかったでしょうか?」
「いいや。ただこれだけ明るいと、迎えが来てしまうのがどうしても早い」
どういうことか、と考える先に、塔の扉がノックされました。むろん、今までこんな夜更けに来客があったことはありません。
「夜更けに申し訳ありません、お嬢さん」
「レオナルドだ」
陛下はマグカップに残っていたホットミルクを一気に飲み干すと、楽しみでならないとでも言うようににんまりと笑った。
「小さなランプ一つだけ。それならきっとあいつも気を遣って声などかけられまいよ」
「それは、わたくしが小さな明かりをつけたまま眠っているかもしれないからですか?」
「小さな明かりをつけたまま、寝ているかもしれないからだ」
なぜ微妙に言い直されたのかわからず首をかしげると、陛下は赤い目を細めて「いずれわかるさ」と囁くように言いました。
焦れるように、再び扉がノックされます。
「シルフ、お前も飲み終わったら早くベッドへ戻るといい」
「ええ、今夜はありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみ。良い夢を」
一度だけ顔を寄せると、陛下はマグカップをテーブルへ置いて塔から出ていかれました。一瞬開けられた扉の隙間からレオナルドさんの不満そうな声が聞こえます。
わたくしも早く寝なければ、とホットミルクを飲み干しました。
ホットミルクのおかげで全身が温かくポカポカとしていました。けれどそれ以上に、顔がとにかく熱くてしょうがありません。
「挨拶のキスは口にもするものでしたでしょうか……?」
どこかぼんやりする頭で考えてから、夜が明けて頭が回るようになってからにしよう、と思い二つのマグカップをシンクへと運びました。
罰がなくとも、犯した罪を忘れることはないでしょう。誰でもない自分自身によって、罪の意識に苛まれる夜もあるでしょう。
けれどどうかそんな夜に、鉄の匂いを溶かすような、甘い香りに包まれることを許してほしい。




