懐古と懺悔と喜びの記録 Ⅴ
王政府に対する告発文は、結局職員全員で話し合い合意の上で送った。勢いでヘッジホッグにああ言ってしまったものの、一晩経つと頭が冷えじわじわと臆病風に吹かれ始めていた。幸いだったのは、職員すべてが思いつめた顔をしながらも覚悟を決めてくれたことだろう。ささやかな抵抗として、筆跡のわからないよう数人がかりで文書を作成した。
手紙は二枚。
王政府へのもの、そして公爵家に対して。
無意味であることはわかっていた。
公爵家の屋敷に、今はもう誰もいない。
主人もなく荒れた屋敷はいずれ廃屋となり、崩れていくだけ。誰も帰らず、顧みることもない。そこに手紙を届けたところで読む者などいない。
けれど皆、妹を失った彼の青年のことを思わずにはいられなかった。
既に西へと逃げた彼の行方など、一般人である私たちでは知りえない。一家そろって姿を消した彼らに真実を届ける方法を誰も持ってはいなかった。
しかし、けれどもし、公爵家の誰かがあの屋敷に戻ってくることがあるのなら、その郵便受けを覗くことだろう。
そんな日がいつか来るのか、誰も知らないわからない。
今更送り付けるのはただの自己満足だ。
けれどきっと、あの青年にはどうか知ってほしかった。
「あなたの妹は無実だ。彼女はただ、物語を愛した善良な少女だった」
荒れた庭を掻き分け侵入する私を咎める者は誰もいない。
植物で覆われていた郵便受けから蔦をちぎり取り、辛うじて開いた口に手紙を滑り込ませた。
私の声は誰の鼓膜を震わせることもなく夜の静けさに溶けていった。
いつかあの青年がこの屋敷へ戻って来た時、どうか真実を知ってくれるようにと、ただ願った。
**********
「さあ?身に覚えはありませんが。」
「そんなことがあったんですね。知りませんでした。」
「手紙?この図書館からですか?」
「告発文……どんな内容なんですか?この図書館が何か重要な秘密を握るとは思いませんが。」
「ご利用になられないのなら、お引き取りを。ここは本を読む場所ですよ。」
すっかり板についた作り笑顔を浮かべると、王政府の遣いは苦虫を噛み潰した様子で出て行った。
告発文を送ってすぐ、王政府からは反応があった。やはり図書館の人間からの手紙だというのはわかったらしい。数人の遣いが図書館にやってきて職員に話を聞いていった。あえて個別に聞いて回ったようだが、あいにく職員全員がグルである。誰一人それらしいことは漏らさずしらを切り通した。既に職員が書いたのだとばれているのだから今更遅いと言えば遅いが、ささやかな抵抗だ。まさか騙されてくれたとは思っていないが、ひとまず危機は去った。
「……これから、どうなるんでしょうね。」
「さあ?運が良ければ御咎めなし。運が悪ければクビ。最悪図書館が潰されるだろう。」
「館長は、本当に良かったんですか?」
「良かった。確かにここにいられなくなったら辛い。それでも黙り続けてるよりかはずっと良い。」
それは確かな本心だった。どんな結果になっても後悔だけはしないだろう。私は私たちのしたことに誇りを持てる。
「にしても、とりあえず告発文送ったが、王政府はどうするんだろうな。」
「ですよね……何も考えていませんでしたが。嘘を吐いたのはコピエーネ嬢なんでしょうけど、今更虚言って発覚してもどうしようもないですし。」
ヘッジホッグのいうことは私も一度は考えたことだった。
シェルシエルがここいた、というのは間違いようもない事実。となると嘘をついていたのはカンナだ。どんな目的があったのかわからないが、今カンナは王太子からの寵愛を受け、世間からは完全に妃の扱いだ。実際、彼女がシェルシエルに成り代わるように妃になるのかは知らないが、少なくとも殿上人の一員となりつつある彼女が引きずり降ろされる、ということはないだろう。もし認めることになれば、一人の少女に踊らされた王政府の面子は丸つぶれだ。
「……どう転ぶかはわからない。でも私たちが告発してもしなくても、どこかでボロが出てたかもしれないな。」
「政府は今、告発文のこと以外にもいろいろ調べて回ってるみたいです。ただ、王政府が国民に事実を隠し通したとしても、コピエーネ嬢はお城の中で針の筵に座ることになりますよね。」
突き通すには拙すぎた嘘だった。ほころびが一つ見つかれば、疑いは広がり、嘘は浮き彫りになっていく。少し考えれば、少し先を考えればわかることだ。にも関わらず、カンナは嘘をついてまでのし上がった。友人の一人を消し去ってまで。
高いリスクを負い、友人を失ってまで彼女が手にいれたかったものは何なのだろうか。
「あの子は、何がしたかったんでしょうね……。」
すぐにばれる嘘をついて得たものは、得たかったものとは。のし上がっても自分の立場はすぐに揺らぐことはわかるのに。何もかもをなげうって手に入れたものは、泡のように手の上で消える。罪だけをその手に残して。
「これから、どうなるんだろうなあ……、」
この図書館も。職員たちも。この国も。嘘つきな彼女も。
数日先の未来でさえ霧に隠されまるで見えなかった。
シェルシエルと名乗った少女がこの国を追われて、二年たつか経たないかというころだった。じわじわと水が侵食するようにラクスボルンには混乱が静かに広がっていった。
王族がいない。
初めに口にしたのは誰であっただろうか。そして言われてみれば、とでも言うように王族の不在が疑われ始めた。いつからだ。いつから王は、王太子は、その姿を国民の前に露わにしていない。いつから大臣たちの顔ぶれが変化した。いつから王の言葉を彼らが代弁するようになった。
煙のようにぼんやりとした不安を伴った噂はみるみる肥大化し、そう時間も経たぬうちに噂は事実へと変化した。
ラクスボルンはダーゲンヘルムの怪物の逆鱗に触れた。怒る怪物は、王族を、関係者を喰らい尽くし、そして根城へと帰って行った、と。
そんな馬鹿な、と笑い飛ばす者は誰もいない。ダーゲンヘルムの怪物はとうの昔にお伽噺ではなくなっている。そしてラクスボルンの王たちがいなくなったことがその証拠だ。喰われたかどうかは別にして、少なくとも爵位をもつ権力者たちは怪物の遣いにより、王の亡骸を見せられたと言う。
本来であれば何事だと国民が城に押し寄せてもおかしくない、いやそれが自然だろう。だが国民は噂をするばかりで、誰一人怒号を飛ばす者も泣き叫ぶ者もなく静まり返っている。それはおそらく、ダーゲンヘルムの怪物によるものだろう。逆鱗に触れた、と言われているがラクスボルンという国がダーゲンヘルムに何をしようとしたか、知る者は誰もいない。ゆえに恐れるのだ。自分たちの一挙一動が、怪物の怒りに触れるのではないか、と。たとえ虫の羽音だとしても。
ラクスボルンの国民は、騒ぐことなく、喚くことなく、静かに国を捨てていった。
王亡き後、急ごしらえの王政府は揺らいでいた。傾いでいた。そんな政府を誰が信用しようか。見切りをつけた者から順番に、荷物をまとめてそそくさと隣国へと逃げていった。輸出入で盛んに使用されていた産業用の列車は国外へと逃げるラクスボルン国民で常にいっぱいだった。ぐらつく王政府には、彼らを制止する力すらも残っていなかった。
「フィアーバさん……、」
「ああ、わかってる。今までありがとう。」
それはこの王立図書館も同じだった。
後ろめたそうに辞表を差し出した職員のつむじを、苦笑いしながら眺めた。これで何人目であっただろうか。いや、もうきっとこの図書館に残っている人間を数えた方が早いだろう。
「これからどこへ?」
「僕は、北へいきます。西の方はもういっぱいいっぱいみたいで、列車も機能してないみたいですから。」
「……そうか、そっちでも元気でやれ。」
最初に辞めたのは妻子を持つ司書だった。もうすぐ四人目の子が生まれる、と言っていた彼がこの国に見切りをつけるのが早かった。だがそれは父親として英断だっただろう。この国にもはや展望はない。廃れるだけの土地で、子どもを育てる理由はない。
一人、また一人と辞めていった。だが職員が減ったところで仕事に忙殺される、ということもない。
本や物語は、余裕があってこそ好まれるものだ。文字で腹は膨れない。
常に閑古鳥が鳴いている在り様。「開館中」という札を扉の前に出していても、扉が開かれない日もざらではなくなっていた。
「フィアーバさんは、いつまでここにいるつもりですか?」
「……いつまでも。」
「……もうここも、国も、崩壊します。生きるためには、他所へ移った方が、」
「ありがとう。でも私はここから去るつもりはないよ。君が気に病むことはない。」
彼はしばし逡巡した後、また一つ深く頭を下げて出て行った。
私がここから去ることは決してない。理想では飯は食えぬと言われようとも、未練がましいと言われようとも。たとえこの国が崩れ行こうとも、誰もいない、不毛の地となろうとも。
私は喜んで、この楽園とともに心中しよう。
誰が見捨てようと、時が忘れ去ろうとも、私だけはこの楽園を手放さない。美しいあの昼下がりの記憶を抱えたまま、文字の海に溺れてしまおう。
「館長、」
「……ヘッジホッグ、君は良いのか。」
どんなに来館者がいなくとも、彼女はきっちりと時間通りに出勤して退勤する。ほとんど仕事はないがそれをいいことに痛んだ本の修繕に精を出していた。山積みになった本はここ数カ月の成果だった。直したところで、もう誰も手に取ることがないかもしれないのに。
「逃げなくても良いのか?」
「館長こそ、逃げなくていいんですか?」
「質問を質問で返すな。……君はまだ若い。どこに行ってもやり直しがきくだろう。」
「もう若くもないですよ。30超えてます。私が若いなら10も離れてない館長だって若いでしょう。」
呆れるようにため息を吐く彼女に些か驚くが、よく考えれば長い付き合いだ。いつまでも口うるさく、気を抜くことを知らない新人のような気難しさのせいでその齢を忘れていた。何かと器用であれこれと作業する彼女は贔屓目ナシに要領が良いと言える。どこに行っても、きっと重宝される人材だ。
「私はこの図書館で生き、そして死んでいく。図書館を墓場にするなんてロマンがあるだろう?」
「……奇遇ですね。私もそのつもりです。」
「真似するな。」
「真似してません。……行く当てはありません。司書以外にしたいこともありません。なら最後まで私はここで働いていたいんです。」
ページを一つ一つ破れや汚れがないか確かめていく彼女に、冗談やからかいの色は浮かんでいなかった。苦虫を噛み潰すような顔を、私はきっとしているだろう。それはこれからをゴミ箱に捨てようとする彼女に対する苛立ちと、自分と同じことを考えてくれる同志である喜びが入り混じったものだった。
「ここにいても、死ぬだけだ。」
「人はいつか死にます。なら好きなことして死んでいくことが、最大の幸せでしょう。」
随分、達観している、とも思ったがこのご時世ならそれも当然か、と彼女を見る。
「食べ物がないと死んでしまいます。飲み物がないと死んでしまいます。でも私は、本がないときっと死んでしまいます。他の人が本や物語は所詮嗜好品と捨ててしまおうと、誰からも理解を得られなくとも、それは私に必要なものなんです。」
私はただ、首肯した。
息をすることができても、心臓を動かせていても、物語がなければ私たちの心は死んでしまうだろうから。
**********
相も変わらず閑古鳥が鳴いていた。一つとして名前の書かれていない昨日の貸し出しカードをしまう。穏やかで、静かすぎる、良い陽気の昼下がりだった。光に照らされて舞う埃を意味もなくふう、と吹いた。だが穏やかさは荒い足音にかき消される。見れば顔色を悪くしたヘッジホッグが早歩きでこちらに向かって来ていた。走ってはいけない、という規範を律儀に守っているのだろう。生真面目すぎる彼女にデジャビュを感じる。ああ、以前にもこんなことがなかっただろうか。走らずに速足に歩く彼女の妙な真面目さは全く変わっていない。
緊急事態か、とも思うがすでに緊急事態が数カ月続いているこの図書館に今更どんなことが襲うのだろうか。一瞬、王政府の命令で潰されるのかとも思ったが、この時勢で一図書館に構っている暇があるとは思えない。そもそも王政府が今も機能しているかどうかすら、定かではない。既に城内もぬけの空、なんてこともあり得る。
「館長っ!」
声が高い、と注意しようとしたが、来館者が誰もいないことを思い出し口を噤んだ。
「どうした?顔が青いを通り越して真っ白になっているが。」
「と、図書館の前に、馬車が……!」
「落ち着けヘッジホッグ。馬車とは、どこの馬車だ。王政府か?」
顔は白く、微かに身体が震えていた。尋常でない様子に背中をさすって落ち着かせる。
ビーベル家の馬車が止められていた時も動揺していたが、ここまでではなかった。王政府かとも思うが、ここまで怯えを見せることはないだろう。胸がざわつき嫌な汗が流れた。
「王政府じゃ、ありません、ラクスボルンでは……、」
「どこだ。どこかの貴族か、それとも他国か?」
焦点が合わず震える瞳孔が私を見た。
「ダーゲンヘルム、ダーゲンヘルムの紋ですっ……!」
怪物が、訪れた。
『公爵令嬢はダーゲンヘルムの怪物に食べられた。』
『王国兵たちの侵攻はまさに百鬼夜行というに相応しく、ダーゲンヘルムに攻められた国は一欠けの生命もない、黄泉の国の領土となってしまう』
『ラクスボルンはダーゲンヘルムの怪物の逆鱗に触れた。怒る怪物は、王族を、関係者を喰らい尽くし、そして根城へと帰って行った。』
「開館中」と書かれた札を裏返し「閉館中」にして扉の前に置いておく。
館内を走り回り職員をカウンター前に集める。並んだ職員の数は10人を切っていた。皆一様に、異様な空気を感じ取り顔色が悪い。きっと私自身、顔面蒼白なのだろう。穏やかな昼下がりなど、もうどこにもなかった。
「みんな聞いてくれ。数分もしないうちに、ダーゲンヘルムの人間がこの扉を叩くだろう。」
ダーゲンヘルム、という言葉に職員たちがざわつく。未だ、はっきりしないため明言はしないが、ダーゲンヘルム王国関係者だろう。でもなければその紋を負うとは思えない。
ぱん、と一つ手を打てばシンとする。
「心せよ。数カ月ぶりの来館者だ。もてなすぞ。」
大きな木の扉が、控えめなノック音を響かせた。
*********
私は一人の男のあとを追いながら、内心拍子抜けしていた。
扉の先にいたのは、ヘッジホッグが言ったようにダーゲンヘルム王国の紋を付けた数人の騎士、後ろにつく女性、それから質の良い服を着た若い男だった。先頭に立つ若い男は靦然とし、口の端で申し訳程度の笑みを浮かべた。
「ここは、ラクスボルン王国王立図書館でよかったか?」
「……ええ、その通りです。見ての通りすでにさびれていますが。私はラクスボルン王立図書館館長のフィアーバ・パラディーゾ。こんな図書館に何の御用ですか?」
警戒しているのが筒抜けだったのか、先程よりも愉快そうに男は笑った。いや、もしかしたら腹の底にある私の怯えに気づいて笑っていたのかもしれない。
「ああ、このさびれた図書館に用がある。見る限り、ラクスボルンにはもうほとんど民は残っていないな。来館者もささやかだろう。……これはあくまでも提案だが、この図書館を、ダーゲンヘルムに移さないか?かつてラクスボルンに住み、ここに通った者の話を聞く限り、このまま朽ち果てさせるには惜しい。もちろん、ここの職員も含めて。どうだ、悪い話ではないだろう。」
饒舌な男に眉を顰めた。提案、と男は言っているが口ぶりからしてこちらに拒否権など最初からないのだろう。内容としては、願ったり叶ったりだ。私はこの図書館を潰さずに済む。それが本当の話であれば。この男から漂う翩々たる胡散臭げな態度がどうにも承諾に歯止めをかける。
「……それは、こちらとしてもうれしい『提案』です。しかしその前に、貴方はいったい、」
「おっと、名乗り忘れていたか、すまない。」
すまない、と言いつつ欠片も悪びれた様子は見せない。悪戯をする悪餓鬼のよう口角を釣り上げ、赤い双眸を三日月にした。
「私は第28代国王ファーベル・ダーゲンヘルム。ダーゲンヘルム王国の現王だ。」
ダーゲンヘルムの、怪物。声にならずただ動かされた私の唇を見て、怪物は嗤った。
**************
呆然とする私たちを横目に、ダーゲンヘルムの怪物は悠々と館内へと歩を進めた。騎士の一人が少し申し訳なさそうに声を掛けてきたところで正気が戻り、慌てて怪物の背を追った。
びくびくしながら怪物のあとを歩いていたが、ずらりと並ぶ本をただ悠然と見て回る彼は驚くほど普通だった。
『ダーゲンヘルム王は深い闇をでさえも飲み込む暗い髪を持ち、血を硝子に流し込んだような仄暗い赤い目を持った男』
なるほど、目の前の男はその特徴と合致しているが、どうにも嚙み合わない。ダーゲンヘルムの怪物と言えば、名を聞いただけで誰もが震え上がる恐怖の権化だ。徒に人を喰らい、国を亡ぼす。何千年も生き続ける化け物。だが目の前の男はどうだろう。未だその顔には幼さが残り、見ようによっては青年と言っても間違いではないだろう。ゆったりと歩きながら本棚を眺める姿は静かで荒々しさの片鱗も見かけられない。暴れるわけでも、誰かを傷つけるでもなく、ダーゲンヘルムの怪物を名乗る男は歩き回っていた。その様子は、まるで本当にこの図書館をダーゲンヘルムに移そうとしているようで。
「……なぜ、こんな人も来ないような図書館をダーゲンヘルムへ?」
恐る恐る問うた言葉は、無視されるかと思いきやあっさりと受け止められた。
「さっき言った通りだ。うちの図書館で働いてる司書がラクスボルンの出身なんだ。ラクスボルンの現状を聞いて、心配したのがこの図書館のことだった。」
「司書……?」
「ああ、ダーゲンヘルムは書籍の管理や物語の伝承に力を注いでいる、文化の国だ。たとえ他国と言えど、消え去りゆく図書館をみすみす看過することはできない。」
ああ、さっきから頭が追いつかない。
この男が本当にダーゲンヘルムの怪物なのだろうか。あの麗しき公爵令嬢を喰らい、ラクスボルン上層部を殺し、滅亡まで追いやった国の首領なのだろうか。
怪物の国、黄泉の国とささやかれてきたダーゲンヘルムが文化の国、とは初耳だ。今まで一度だって聞いたことがない。しかし彼から語られるダーゲンヘルムの話に興味をそそられる。聞けば聞くほどそんな国に住んでみたいと思えてしまう。気づけば彼の言うことを信じていて、図書館移動計画について具体的に話してさえいた。
「フィアーバ、ここは随分専門書や実用書が多いようだな。」
「ええ、ラクスボルン王政府は実用書ばかりを集め、物語などは役に立たないものとしてほとんど棚に入れることができませんでした。」
「ふん、つまらん。役に立つ立たんの問題ではなかろうに。」
「まったくです。……ささやかながら、図書館の奥には物語のための棚があります。」
「物語のための?」
なぜわざわざ言ったのか。私が勝手に作り続けてきた楽園。会って間もない怪しげで隣国の王を、怪物を名乗る男にこんな大切な場所のことについて話しているのか。それはきっと、彼の中に同類の匂いを感じたからだろう。私と同じように、心から物語を愛するそれを。
今度は私が彼の前を歩く。図書館の奥の奥。少し埃臭い実用書の本棚をすり抜けた、その先。高い窓から暖かい日の光が降り注ぎ、カラフルな背表紙が照らされる。整然と並ぶ物語の海に降り注ぐ日の光。
私は息を飲んだ。
他の場所とは隔絶された世界。朗らかな日が注ぎ、色鮮やかな背表紙が囲む。一人の美しい女性が本を手に取り、滑らかに視線を滑らせていた。
失われたはずの楽園が、そこにはあった。
「シルフ、」
言葉を失う私など知らぬように、ダーゲンヘルム王は彼女に声を掛けた。
「陛下、」
鈴を転がすような声。
ああ、間違いない。彼女だった。
友人に裏切られ、濡れ衣を着せられ、怪物に喰い殺されたはずの公爵令嬢、シルフ・ビーベル。
図書館をこっそり訪れ、奥の奥で本を読みふける、物語を愛してやまない少女、シェルシエル。
ラクスボルン出身で図書館に通っていた、ダーゲンヘルムに住む司書。
数年越しに探求者は楽園へと舞い戻ったのだ。
「おかえり、シェルシエル。」
彼女は幼さの残る顔に、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
ご閲覧ありがとうございました!
ラクスボルン王立図書館館長編はこれにて終了になります。
そのうちまた番外編を書くかもしれませんが、一度完結マークを付けさせてもらいます
本当にありがとうございました!!




