懐古と懺悔と喜びの記録 Ⅳ
聞けば聞くほど、調べれば調べるほどにおかしな話だった。
カンナが階段から落とされたという時間、シルフはこの図書館にいた。にも拘わらず、カンナはシルフに突き落とされたと証言している。しかもカンナはあまり怪我をしていない、軽傷だと。本当にカンナは階段から落とされたのか。シルフにカンナを殺そうとするだけの理由があったのか。カンナは嘘をついてシルフを嵌める理由があったのだろうか。
あれほど仲が良かったはずなのに。
カンナはシルフからいじめを受けていた。そして今回の事件につながったという。そんなことがあるのだろうか。ここで、笑いあっていたあれは、嘘だったのだろうか。笑顔の下に少女たちは何かを隠していたのだろうか。
見たままのものなんてこの世にはほとんどない。毒林檎だって、見た目は美しい赤色をしている。
少女たちにとって、どこまでが嘘だったのだろう。いつから嘘だったのだろう。
さらに不自然なのが刑執行までのそのスピードだ。なぜ死罪の次に重い刑である国外追放がここまで早く、たったの10日で行われたのか。
明らかに、何らかの意思の元に、この国に何かが起きていた。
そして同時になぜヘッジホッグが何も言わずただ沈黙を貫き通していたのかも理解する。どう考えても不自然なことの次第は何者かの意思があり、下手に私たち図書館職員が口を出せば、どうなるか分かったものではない。少なくとも、この図書館も職員も、無事では済まないだろう。
私は黙っていたヘッジホッグを詰った。だが私がもし、早々にそのことを知ったなら、私は彼女を、シェルシエルを守るために証言ができただろうか。
きっと私は何もできなかった。たった一人の、愛らしく物語を心から愛する少女と、長年ともに働き同じ道を志した同僚、部下、その家族、そして愛する私の住処であるこの図書館をと、一つの秤に乗せたのだ。ああなんて悲しく虚しいことだろうか。いくら私が懊悩しようと、天秤は無情にも少女の方へ傾きはしない。
私は森の入り口に立ち尽くした。
何もかもを投げ捨てて少女を救いに行けるほど、私は若くなかった。私は彼女に近くなかった。私は力がなかった。私は勇気がなかった。
化け物の住むと言われる国の森に踏み込む勇気も、彼女の名を呼ぶ勇気も持ち合わせていない。黒々とした森が嘲笑うように揺れた。
矮小で保守的で打算的な私は、少女を救うヒーローになんてなれない。
彼女を飲み込んだ森が目の前にあって、彼女がまだ生きているかもしれないと思いながらも、足を踏み入れることができない。彼女をこんな目に遭わせたであろう国の上層部を訴えることもできない。
物語を私は愛していた、それでも私は物語の住人にはなれない現実世界の人間だったのだ。冒険譚のために、安寧を捨てられない。本当に、嫌になる。それに比べて彼女は真逆だ。私が勝手に思っているだけであるけれど。突然楽園に現れた物語を愛する少女。そして友人に裏切られて突然姿を消した。彼女はきっと物語の主人公だった。ヒロインは、彼女だった。
ヒーローに立候補することすらできない私は、一歩たりとも森に足を踏み入れることなく、踵を返した。彼女を見捨てる代わりに、私が、ヘッジホッグが守った美しい箱庭へ戻るために。
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じりじりと、足元から身を焼かれ続けるような日々だった。毎日毎日、依然と変わらぬ日々を、変わらぬ業務を行っていたが、着実に私の精神はすり減って行った。無意識のうちに、図書館の奥の奥で少女たちの姿を探してしまう自分に嫌気がさす。それは私だけではなく図書館職員の全員がそうだった。誰も直接は口に出さないが、全員が彼女を見殺しにしているのだという自責の念を抱いているだろう。そして皆の心の天秤が、少女の方に傾かなかったことも想像に難くない。
しばらくして流行り出した『可哀想な少女が成り上がる』物語や彼の少女の語るお伽噺も、私たちの罪悪感に拍車をかけた。
誰もカンナのことを怒ったり恨んだりはしていない。私たちが彼女たちの事情を露も知らないことは重々承知なのだ。何か理由があったのかもしれない、と考えている。そんなことよりも見殺しにしたという罪が重く自分自身にのしかかっていた。
カンナもまた、事件後一度たりともここを訪れてはいない。
同じく、カンナが語ったことにより出版された物語が、図書館の奥の奥、楽園に配置されることもなかった。
みな、少女一人のために何もかもを投げ出せるほど青くなかった。だがすっぱりと諦められないほどには夢見がちだった。
「館長、」
最近かけ始めた眼鏡は隈を隠す為だろうか、顔色の良くないヘッジホッグからコーヒーを受け取った。ここのところ、彼女の淹れるコーヒーは苦くてたまらなかったが、ため息を飲み込みどんよりとしたよどみを腹に下すにはちょうど良かった。
「これはただの世間話ですが……公爵家は西の国に亡命したようです。」
「……そうか。」
西の国はダーゲンヘルムの真逆に位置する、ラクスボルンと同じ程度の大きさの国だ。ラクスボルンと交易もあり汽車も通っている。亡命するには妥当だろう。爵位を捨てようとも、その財産も気位も失われることはほとんどない。
外とあまり交流を持たず、お貴族様のパーティにも出席しない私は、公爵家当主の顔などまるで知らないし、どういった事業をしているのかも興味がない。ただ唯一、おぼろげながら記憶に残る青年の顔を思い出した。
私たちが見殺しにしたせいで、公爵家はこの国を追われた。そんなことはどうでも良い。どこの貴族がいなくなろうと私たちには関係のない話だ。だがあの青年はどうだろう。無表情で表情筋などないような鉄面皮で妹と話し、私たちに形式ばった礼を言った彼は、額に汗を浮かべていた。つんと澄ましていながらも、必死に妹を探していたことがうかがえたのを、今でも記憶している。
彼は何も知らないのだろうか。妹の好きなものも知らなかった彼は、この事件の真実も知らなかったのだろうか。
閉館後、気づけば私は公爵家の屋敷の側に足を運んでいた。広大な敷地をぐるりと高い柵が囲っている。広い庭のその先に白亜の屋敷があった。あれからすでに数ケ月たち、公爵家は以前の見る影もなく荒れていた。手入れのされていない庭は草木が好き勝手に繁茂し、屋敷はまるで生気がなく、既に死んでしまっていて、ただ朽ち果てるのを待つのみのようだった。
栄華を誇ったビーベル公爵家。没する過程はシャボン玉がはじけるように一瞬で、その理由はあまりにも惨めなものだった。
思いのままに訪れてみたものの、今更できることなどあるはずもない。
私は何をしようと思いここへ来たのだろうか。真実をここで叫び、見捨てたことを懺悔する。そうしようとしたのかもしれないが、そんなことできるはずもない。それはただの私の自慰行為だ。何も救わず、何も変えられない。私の心が浅ましくも、ほんの少しだけ軽くなる。それだけの悍ましいこと。
公爵家はただ一人の娘を失い、地位も失い、領地も失った。
彼らは、真実を知っていたのだろうか。
国外追放された娘の無実を最後まで信じていたのか、それとも数多の人々と同じように、彼女の罪を疑わず、恥だとでも思っていたのだろうか。今となっては確認のしようもない。
家族の関係性やあり方なんて、赤の他人の私にはわからない。兄妹の仲が良かったのか。どんな話をしていたのか。親子の関係はどうだったのだろうか。どこまでわかりあっていたのだろうか。兄が妹を心配しているように見えたのは私の補正かもしれない。もしかしたら妹自身ではなく体裁を心配していたのかもしれない。
何もわからず何もできない。
少女を助けられなかった夜のように、また踵を返した。
私は登場人物にすらなれない、どこまでも臆病な読者だった。
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仕事終わり、いつものように書類を片付けていると一枚の紙が差し出される。
「……これは?」
「受理してください、館長。」
随分と失礼な物言いだと、不細工な顔になっているヘッジホッグを椅子から見上げた。鼻が赤くなっていようが目元が腫れていようが私事、そう顔がものをいうような職場でもないため自己責任だと放っておいたが、一日この顔を晒し続けていたと思うといっそ哀れにも思える。
辞表、と書かれた紙をじ、と見た後受け取るでもなく彼女を見る。
「理由は?」
「もう、耐えられません……。見て見ぬふりをしてきましたが、無理でした。」
そう言いながら嗚咽が混じり、ぼたぼたと涙を零すヘッジホッグにギョッとした。慌てて立ち上がり近くにあったタオルをその顔に押し付ける。気の利いた言葉の一つも見つからずひたすらタオルを押し付けるだけの自分にあきれ果てた。だが目の前で泣きだす人間、それもいい年をした大人に対する対応なんて知るわけがない。
「や、辞めてどうするつもりだ?できることなんて何もないだろう?」
「これ、を……告発文として送ろうと、思っています。」
渡された手紙を許可を取ってから開く。そこにはシルフ・ビーベルのアリバイがあったことを示す文があった。無意識に眉を寄せる。
「……これを出してどうする?君がこれを出したとわかれば、どうなるか。」
「皆さんには迷惑は、おかけしません。ここを辞めてから、出します。」
「そういう問題じゃない。」
既にシェルシエル、シルフ・ビーベルが国外追放されてから数カ月たっている。もはや今更ことの顛末を疑う者はいない。にも関わらず今になって掘り返せば、王政府からすれば目の上のたんこぶになることは間違いない。今、カンナが王城内でどのような立ち位置にいるかは分からないが、聞く限り王太子からの寵愛は受けているのだろう。それを中傷するようなことになれば、物理的に首を飛ばされてもおかしくない。
何より、これはあまりにも遅すぎた。これによって、シェルシエルが救われるわけではない。彼女はもうどこにもいない。疑いが晴れたとしても、彼女は救われない。
この告発文は、懺悔の象徴であり、自己満足のもの以外の何ものでもないのだ。
「……この手紙は私が預かることにする。」
「館長っ、私が勝手にすることです、しらを切り通していただければ、」
「馬鹿なことを言うな。こんなもの出しても何も変わらない。それどころか内容からして図書館職員なのは明白。匿名で出せば図書館員全員が罰せられかねない。いや、君が名前を書いたとしてもその事実を知る者が職員にいると疑われ消されかねない。」
「それは……、」
「ヘッジホッグ、この件は君の我が儘で済む問題じゃない。この図書館全員の問題だ。」
「…………、」
唇を噛み俯く彼女。きっとあれこれと考え続け、この辞表と告発文を書いたのだろう。良心に耐え切れず、秘密を抱え込んでいられなくなって。数ケ月の間、一人で。
「図書館全体の問題。ならば図書館全員で話し合うべきだ。」
「えっ……、」
「悩み苦しんでいるのが君だけだと思わない方が良い。一人で格好つけないでくれ。」
ぽかんと口を開ける彼女があまりにもらしくなくて、笑いをこらえぐしゃぐしゃと髪をかき交ぜた。
「私たちは皆一蓮托生。同じ罪を負う共犯者だ。」
一か八か、動いてみるのも悪くない。
「明日は会議だな。告発文だって何人かで書けば誰が書いたかなんてわからない。」
図書館の関係者とわかるだろうが、誰とはわからない。
運が悪ければ図書館職員全員が罰せられ、図書館自体が閉館に追い込まれる可能性もある。運が良ければ誰だかわからないため、騒ぎにしないように黙殺しつつこれ以上不利なことが起きないように事件を洗い直すだろう。
勇気のない私はきっと彼女が何も言わなかったら、何の行動も起こさなかっただろう。間違いなく。心にしこりを残しながらも、時の流れと共に緩やかにそれは小さくなり、いずれ遥か彼方の記憶の一点のシミとなる。老いてから、ああそんなこともあった、と思い出すその程度だろう。
いつから私は、そんなつまらなく、逃げてばかりの人間になっただろうか。物語の中の英雄に自身の姿を投影しなくなったのはいつのころだろうか。
部下に尻を叩かれてようやく腰を上げる私のなんとみっともないことか。
英雄になれるわけじゃない。物語の姫が救えるわけでもない。
誰も何もなしえない。誰も何も救えない。
ただの懺悔で、何の意味もない。馬鹿馬鹿しい自己満足。
それでもこのまま見て見ぬふりをして沈黙を貫いては、きっと私たちは悪役になってしまう。それではだめだ。それでは。
姫を救うのは王子だ。ならば私たちはせめて姫の周りにいる鳥のように鼠のように。
「情けなくて済まない。言ってくれてありがとう、ヘッジホッグ。」
私はこの職場を、人々に夢を見させ知識を与える図書館を心から愛してる。手放したくはない。何よりも大切なもの。館長として、一利用者として守らなくてはならないもの。
私の作った楽園。理想郷。
高い窓から日が降り注いで、立ち並ぶ本棚を、色とりどりな背表紙を照らす。少しだけ埃臭くて、古い紙とインクの匂いで肺が満たされる。本を手に取ってページを開けば一瞬で違う世界に行ける。
美しく、完璧な場所。いや完璧だったはずの場所。それはもう完璧でなくなってしまった。
いくら図書館を守っても。蔵書たちを守っても。
そこに心から楽しんでくれる、本を愛してくれる読み手がいなくては、何の意味もない。
この図書館は、愛する本のために、本を愛するすべての人のために。
ご閲覧ありがとうございました!




