懐古と懺悔と喜びの記録 Ⅱ
カウンターに座っていると、大きな扉がそう、と開けられる。伺うようにそろりと出された顔。私はいつも通り、何も気づいていないかのように手元の本に目を落とした。彼女はいつも通り、するりとわずかに開けられた扉から身体を滑り込ませ本棚に隠れるように奥へ奥へと入って行った。
「あの子、また来てましたか?」
「ああ。相変わらずこそこそと入ってくる。もうすこし堂々としててもここじゃ誰も怒ったりしないんだけど。」
少女はいつも一人、訪れては奥の奥の方へと入り込み、身を隠すように本棚の間で本を読む。
いつか、兄とはぐれ図書館の奥で一人本を読んでいた公爵家の令嬢は、予想通りあれからしばらくここへは現れなかった。おそらく、迷子になった前科から連れてきてもらえなかったのだろう。あれだけ本が好きな子なのに、残念だ。惜しい、と思っていたが、所詮本好き、本の魅力に逆らうことなどできない。
数年の間、彼女は来なかった。ただ数年ぐらいでこの図書館は変わったりしない。ここではひどくゆったりと時が流れる。相変わらずこのカウンターに館長として座り続けている私は、そろりと開けられる扉を見つけた。不自然な開けられ方に何事かと警戒したが、扉の隙間から顔を出したのは10歳前後の年のころの少女だった。珍しい、と思ったが利用者に特に話しかけるようなことはしないため、ただ視界の端に収めただけだった。確かめるように図書館内に入ってくる少女。それから、彼女は本棚の間に入って行った。ただその様子は、まぎれるように入る、というよりもどこかに向かうような確かさを感じた。
入ってくる様子は初めて来たかのように見えたのに、入り口にある地図など目もくれず中へ入って行った少女に内心首を傾げた。まあうるさくしないならそれでいいし、騒がしくするようならつまみ出すだけのこと。
ゴォオンと遠くで鐘がなる。机の上の時計の針は午後二時をさしていた。申し訳程度の見回りの時間。座り続けていたせいで固くなっていた身体を伸ばした。
静かな館内に足音を響かないよう歩き回る。スラリと並んだ本棚は何度見ても気持ちがいい。本の森と呼ぶのにふさわしく本たちが整然と置かれている。乱れている列は置きなおし、脚立が置き去りにされているのは片付ける。勝手な話だが、私はこの図書館の配置が好きだ。学術書や歴史書が並ぶ中、最後に物語の本棚にたどり着く。それだけで仕事のモチベーションが変わる。あの空間に足を踏み入れることは見回りのご褒美と言っても過言ではない。
本の森を抜ければ、切り取ったような物語の空間。高窓からは日が降り注ぎ、カラフルな背表紙がずらりと並ぶ。普段誰もいないこの時間に、一人の少女がいた。淡い色の髪の少女。綴られた文字を滑らかにたどる瞳。無意識のうちに息を止める。この感覚に覚えがあった。
記憶の奥深くから蘇る光景。そうだ。あの日のこんな陽気だった。
「シェルシエル……。」
シェルシエル、探求者と名乗った迷子の少女。記憶にある姿よりもずっと大きくなっていたけれど、間違いなく彼女であった。
思わず口から零れた名前、もちろん、彼女が気づくはずもない。それでこそ、彼女だ。
再び去来した高揚感に気づく。私の作ったこの物語のための空間は、物語を愛する者がいてこそ完成するのだと。
人目を気にするように入館してきた様子からして、きっと読書はまだ彼女にとって秘密なのだ。少しだけ粗い、貴族が着るには似つかわしくないワンピースは、彼女なりの変装なのかもしれない。
一瞬だけ声を掛けて見たくなったが思いとどまる。それは彼女にとって邪魔でしかないし、私が話しかけることによってこの完成された空間はあっさりと崩れ去ってしまうだろう。私は声を掛けることなく、見回りを終えカウンターに戻った。
「館長、どこに居たんですか?」
「ああ、奥だよ。物語の本棚のところに居たんだ。」
いつの間にか、本の搬入作業から戻ってきていた司書の彼女がコーヒーを淹れていた。ぬくぬくとした陽気にほろ苦いコーヒーの香り、これに加えて本が読めるのであればまさに至高だが匂いが移ってしまうこともあるので本は泣く泣くしまっておく。
「何か変わったことでもありました?」
「特に問題はなかったが、数年ぶりに来てくれた利用者がいて、ね。」
「他人に興味のない貴方が覚えてる、となるとよほど奇抜な利用者ですね。」
なんて言い草だ、と言いたくもなるが否定もできない。少なくとも、何年通われたとしても実用書ばかり借りていくつまらない男たちの顔などひとかけらも覚えていないのだから。
「君だって会ったことがあるはずだ。物語のところにいるよ。気になるなら邪魔しないように見てくると良い。」
「物語の……、要は館長のお気に入りですね。」
それだけで納得したように見えたが、結局どんな利用者なのか気になったのだろう。そそくさとヘッジホッグは本棚の中へと紛れて行った。図書館職員のほとんどが無類の本好き。他の場所ではあまり出会えない物語が好きな仲間がいるとなれば、興味ひかれるのも当然のことだろう。つまるところ、皆ことごとく考えることは一緒なのだ。
少しだけ冷めて適温になったころ、ヘッジホッグが血相を変えて歩いて来る。気づいていないのだろうが、走りたい気持ちを抑えて速足に歩く彼女はなかなかに滑稽だ。
「館長!あの子は、」
「思い出したか。何年か前にここで迷子になって兄に探されていた子供だよ。」
「公爵令嬢じゃないですか!」
ああそっちか、とコーヒーをすする。私にとっては本を愛してやまない少女シェルシエルのイメージが強いが、カウンターに連れてきてから彼女と対面したヘッジホッグからすれば迷子になっていたビーベル公爵令嬢というイメージなのだろう。
「図書館前に馬車はありませんでしたが、今日もお兄さんに連れてこられたのでしょうか。」
「いいや、一人だったよ。見た感じ、こっそり一人で来たみたいだ。」
「っはあ!?なんでそんなのんきなんですか!?」
上司に向かって「っはあ!?」というのは流石に無礼だろう、と思うが彼女の気持ちもわからなくはない。さりとてのんきと言われても、緊張したりしても何の意味もないだろう。
「もしこの館内で怪我でもしたら大問題ですよ!?それにここへ来る途中帰る途中で行方不明になったとあらば責任がこっちに来兼ねません!」
「あー……まああるかもしれないな。」
よくよく考えれば、彼女の存在は図書館にとって凄まじい威力を持った爆弾だ。すっかり忘れていたが、彼女は由緒正しい公爵令嬢。そのうえ馬車がないということはおそらく家には黙ってここにきているのだろう。もし万が一のことがあれば、図書館の存亡にも関わる。
「……で?」
「いえ、でって……、」
「だからと言って私たちにできることは何もないだろう?まさか追い返すつもりか?ただただ本が好きな一心で家を抜け出して本との逢瀬を数年越しに叶えたというのに。」
「そ、それは……、」
ぐ、と詰まるヘッジホッグを横目にカップを傾ける。
図書館にとって爆弾であるとはいえ、できることなどなにもないのだ。ここは王立図書館。誰であろうと、王族だろうと貧民だろうとここで本を読む権利が等しく与えられている。そしてその権利を奪う権限を私たちが持っているはずもない。
物語は誰に対しても平等で、真摯だ。それを犯すことは決してあってはならない。
「ま、好きならここへ来ればいい。それを止めることなんて一介の図書館職員にはできない。どうしても嫌だというなれば君が彼女に直接言いに行くと良い。」
「そんなのできるわけないじゃないですか……、」
「そう。できるわけない。私たちはいつも通り、私たちの業務をすればいいんだ。」
「うう……、」
何やら彼女はぶつぶつ言っているが、私たちにできることは何もない。ただ本を読む彼女にその場を提供するだけで。
しばらくして、怪我をしないようにという策なのだろう、子供用の台が物語のコーナーに置かれるようになった。
**********
それからどれほど経っただろうか。図書館の奥の奥、ひっそりと本を読みふける彼女の存在は図書館職員のほぼ全員が知るところになった。誰も話しかけることはないが、職員内では物語の姫と呼ばれるようになっていた。いつも一人物語のコーナーで本を読む少女は一度のめり込むと現実に帰って来ず、日が落ちかけて彼女も帰らなくてはならない時間になっても気が付かないこともある。そんな時は職員がそれとなく片づけを始めてみたり、カーテンを閉めてみたりして、それとなく彼女の帰宅を促すのだ。最初こそ、「公爵令嬢に万が一のことがあれば我々の責任に」というプレッシャー故の行動だったが、気が付けば皆本を愛する彼女に勝手に親近感を抱き、見守るような姿勢になっていた。本を愛してやまない幼い少女、本好きが好まないはずもなかった。
シェルシエルはいつも本を奥で読んでいるが決して借りて行きはしない。それはきっと、本を家に持ち帰り、もし見つかってしまえば図書館に来ていることがバレてしまうからだろう。
また惜しいと思う。きっと彼女なら置いてある物語を一つ残らず読んでしまえるのだろう。ただ時間がない。彼女の身分がそれを許さない。際限なくここで読み耽ることも、家に借りて帰り続きを読むことも彼女は許されない。ああ、惜しい。
彼女はいつも一人、本を愛でている。だがある日、彼女は一人ではなくなった。
図書館の奥の奥。物語の本棚の先、二人の少女が笑っていた。
ご閲覧ありがとうございました!




