懐古と懺悔と喜びの記録 Ⅰ
ある少女がいた。声を掛けるまで食い入るようにその身体に見合わぬ本を抱え込むように読み続けていた。
少女はいつも一人、訪れては奥の奥の方へと入り込み、身を隠すように本棚の間で本を読んでいた。
ある日少女は読書仲間を得た。同じ年頃の、小さな少女。二人はいつもニコニコと、物語を話し、感想を言い合っていた。そこは朗らかで、神聖さすら感じられる空間だった。
そして少女はここへ来なくなった。ぱったりと。同時に、とある話題がこの国を駆け巡った。
「ミハイル第一王子の婚約者、公爵令嬢のシルフ・ビーベルは嫉妬に狂い男爵令嬢を殺そうとした。」
「シルフ・ビーベルは公衆の面前で弾劾され婚約破棄を言い渡された。」
「悪の公爵令嬢は、国外追放された。」
何年も何年も、人の眼を盗むように訪れていた少女はここを去った。少女は、この国を去った。
『シェルシエル』、自らを探求者と名乗った少女は、ありもしない罪を掛けられ、酌量の余地もなくこの地を、この世を去った。
それから間もなく、王が亡くなった。王だけではなく、王城関係者たちは悉く亡くなった。なぜ亡くなったのか、一国民でしかない私たちには知るすべもない。ただ噂があった。
「ダーゲンヘルムの化け物が訪れたのだ。」と。
『ダーゲンヘルムの怪物』という物語のままに、この国はそれからしばらく、緩やかな崩壊の一途を辿っていた。王族がいなくなった。商人がいなくなった。農民がいなくなった。徐々に徐々に、国民は他国へと流出していく。いつしか、ラクスボルンの王都はもぬけの殻となり、もはや国という体制を辛うじて保てているかいないかという状態だった。
国にも国民にも余裕がなくなった。ゆえに、ここを訪れる者も、もうほとんどいなくなっていた。職員も次々と去り、残るは古株や失うもののない職員、それから本を愛してやまない職員だけ。
そんな終末のある日。ある女性が私たちの前に姿を現した。
これはとある王立図書館の、懐古と懺悔と希望の記録である。
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その日は穏やかな陽気だった。高い窓から入る日光で館内は暖かく、一部の利用者は本を開いたまま机に突っ伏していた。光のせいで舞う埃がやたらと目に付く。意味もなくそれをふぅ、と吹き飛ばすとその先に顔色を悪くした司書のイヴ・ヘッジホッグが早歩きでこちらに向かっているのが見えた。走ってはいけない、という規範を律儀に守っているのだろうが、それを見ただけでも緊急事態であることが知れた。
「何かあったのか?」
「か、館長。こちらにこれくらいの女の子は来ていませんか……!?」
これくらい、と彼女は自身の腿当たりに掌を彷徨わせた。はて、居ただろうか、と記憶をひっくり返すが、そもそもの話、彼女のいう少女が言った通りの身長であればカウンターにいた私の視界に入っていない可能性がある。
「……見ていないが、どうしたんだ?」
「迷子、迷子です。ここを訪れていた青年の妹らしいのですが、気が付いたら姿が見えなくなった、と……、」
よくある話だ。保護者が本に夢中になり子供への注意がおろそかになる。本に興味もない遊びたい盛りの子供は親の眼から逃れて遊びに行ってしまうのだ。しかしそれはよくあること。それほどの問題でもない。
「……そんな急ぎの事態なのか?」
「急ぎです!その兄妹がどうも貴族の子たちみたいで……。家名は名乗っていませんが、おそらくそれなりの位だと思います。」
「面倒な……、」
思わず余計な仕事を増やすなと舌打ちをしたくなる。家名を名乗らない、というのは名乗ってもこちらが知らない程度の家か、この程度のことでも失態や大きな事件に発展しかねないような高貴な家だ。そして彼女の反応からして後者だろう。
「その子の名前は?」
「ファーストネームは”シルフ”だそうです。」
「子どもならおそらく外だろうが……。」
「ええ、兄の方は中庭を探しています。私も外を探してくるので、館長は、」
「わかった。私は中を探そう。」
「お願いします!」
せかせかと出口に向かうヘッジホッグを見送り、私も椅子から立ち上がった。せっかくの読書日和だというのに余計な仕事を、と思いながらも、もし迷子の妹に万が一のことがあれば図書館の責任になりかねない。そうなれば王立であるここはやっていけなくなるだろう。少なくとも、現王政府は学問にあまり重きを置いていないのだ。嘆かわしい。
立ち並ぶ本棚をのんびり歩きながら、それらしい少女がいないか見ていく。大方外にいるのだろうと高を括っていたせいもあった。第一、館内に変わった様子はない。変わらず穏やかな空気が流れている。小さな子供が紛れているなら、もっと騒がしくなるだろうに、それらしい物音もつんざくような高い声も聞こえない。保護者とはぐれたとわかればギャンギャンと泣くのが普通だろう。
「まあ、いないだろうねえ。」
外にいる、としてもさすがに兄に連れられてきたなら敷地外に出ることはないだろう。怪我をするほど危ない所でもない。
柔らかい木でできた床はあまり軋まない。足音を立てないように歩くようになったのはここに勤めてきてからだ。静かでいつも通りの図書館が広がっている。ラクスボルン一の蔵書量を誇るこの王立図書館は狭くない。だがその分広々とした作りになっていて、子供が隠れられるような狭い場所はないはずだ。館内にもし子供がいるのであればすぐに見つかるだろう。
歴史書、学術書の本棚がずらりと並ぶ。蔵書のほとんどがそれらで埋め尽くされている。物語の書かれたものはほとんど置かれていない。お伽噺は辛うじて奥の奥、目立たない棚に置かれている。
納得はいかないが、上は図書館に対し「役に立つこと」を求めるのだ。歴史書からは過去が学べる。学術書からは技術が、思想が学べる。もっと物語を置いてもいいのではないかと、数年前に掛け合った時言われたことが忘れられない。
「それで、作り話からは何が得られるのかね?」
私は、何も答えることができなかった。
得られるものは、たくさんある。想像力を豊かにさせること。リラックスすること。本来なら体験できないようなことを物語に飛び込んで体験できること。人の心を学ぶこと。たくさんある。
でもそれは、相手を納得させうるものではないことも、重々承知していた。
思うのだ。彼らとは人種が違うのだ。いや、生きる世界が違うのだ。まともに言葉も通じない。彼らにいかに私がその有用さを語っても理解されることはない。
現実ばかり見るやつは、夢見ることを忘れていることにすら気が付かないのだ。全く、愚かしいことに。
図書館の奥の奥、そこには物語の本棚が集められている。それと共に、くつろげるだけのスペースも。図書館長として、せめてもの抵抗だった。机や椅子の配置についてまで口出しされることはない。そこを居心地よくすることで、お伽噺を手に取る人が増えてくれるよう。
明るくなるよう大き目の窓から光が降り注ぐ。軟らかい日が本棚に落ちて、それから並べられた机に落ち、床に影を残す。私の作った、物語のための場所。
そこに、一人の少女がいた。いつもならこの時間帯、誰もいないと言ってもいいような閑散とした場所に場違いともいえるほど幼い少女がいた。高いだろう椅子に腰かけ、自分の身体の半分はあるだろう大きさの本を抱え込んでいる。淡い色の髪がキラキラと日を反射し、食い入るように文字を追う目は理知的に伏せられていた。まるで宗教画のようだった。物語の世界に迷い込んだような、いつもと同じなのにいつもと違う物語のための場所。
呆けるようにしばらく見ていたが、ハッとする。上等な衣類に手入れのされていそうな肌に髪。そして図書館という場所には不釣り合いな年のころ。おそらく彼女が、司書の言っていた迷子の貴族の子なのだろう。面倒なことを、と思っていたのに掌を返すように見どころのある子だ、と思ってしまう。様子からして自分が迷子になっている自覚も探されているという意識もまるでないのだろう。それほどまでに物語に夢中になってくれるのは胸にくるものがある。それも、私の作ったこの空間で。
ある種の高揚感醒めやらぬまま、そろりと少女に近づき覗きこむ。彼女が読んでいたのは私も読んだことのある童話だった。ただ絵本なんてこの王立図書館にあるはずもなく、彼女が読んでいるのはそれなりの年でなければ読めないような原典。こういう子がいるのなら絵本も置いてあげたい、と思うのだが許されるはずもない。だが私の落胆もよそに、彼女はゆっくりだがきちんと読めているようだった。楽し気にページが捲られていく。
もったいない。そうとしか思えなかった。彼女は物語が好きなのだろう。そして頭も良い。だがきっとそれは彼女という立場にとっては不必要なものなのだ。もし彼女が平民の子、いや男爵家の三女位であれば司書になるという道もある。しかし彼女は良い所のご令嬢。将来はどこかの家に嫁ぐのだろう。就労する、ということはまずない。司書になることも、その高い頭脳を使うような職にもつけない。宝の持ち腐れ、とはこのことだ。赤の他人でしかない私は、その才能を、同胞を指をくわえて見逃すことしかできない。
ああ、惜しい。実に惜しい。と私が一人ため息を吐いていると、彼女は物語を読み終わったらしく、本を閉じた。そしてキラキラした目のまま、愛おし気に本を抱きしめた。
「……楽しんでくれたみたいで、良かったよ。」
「っ……!」
ずっと真後ろにいたのに彼女は本当に気づいていなかったらしく、バッと振り向いた後酸欠の魚のように言葉を失ったまま口をハクハクと動かしていた。その姿は本を読んでいた時の姿とは似ても似つかず年相応だった。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「……し、知らない方とお話ししてはいけない、とお母様が……、」
恐る恐るそう答える彼女はやはりしっかりと教育されているらしい。今度は不安げに、盾にでもするようにぎゅう、と本を抱え込んだ。
「これは失礼。私はこの図書館の館長をしているフィアーバ・パラディーゾという。怪しい者ではないよ。」
名乗ってみたものの、あまり警戒は解けていない。彼女の兄と同じく本名を名乗るのはまずいと思っているのだろうか。
「わ、わたくしは、シェルシエルと、申します。」
「あれ、」
”シェルシエル”。探求者という意味だ。なるほど偽名としてはセンスがいい。しかしてっきり”シルフ”という名前が出ると思っていた私の口からは無意識のうちに声が零れていた。それに気づいたのだろう彼女があからさまにダラダラと汗を流し出した。年相応に可愛らしく笑ってしまう。
「そう、シェルシエル。良い名前だな。……シェルシエル、今日は一人で来たのか?」
「……?」
キョトンとした後、恐る恐るあたりを見回す。そして血の気が引いて顔が真っ白になった。
「お兄様がいません……!」
驚愕!という顔をする彼女に思わず吹き出しそうになるがなんとか堪える。
「そう。ここにいるとお兄さんも見つけるのが大変だから、カウンターでお兄さんが来るのを待とうか。」
「……はい。ご迷惑をおかけします。」
今更迷子になっていたと気づき、萎れたまま椅子から降りて本を戻そうとする。
「それ、カウンターまで持っていってもいいよ。」
それはなんとなく出た言葉だった。あれほど愛し気に本を抱きしめる彼女からそれを取り上げたくなかった。だがそれを言ってよかったと思ったのは、彼女が花が咲く様にぱあ、と笑顔になってからだった。
「私もそれが好きなんだ。よかったらお兄さんを待ってる間、感想を聞かせてくれるか?」
よく教育されている子だと思った。だが存外共通点を見つけたりして気を許してしまうとコロッとついて行ってしまうのではないかとも思えてきた。警戒心丸出しだったのに、今では嬉しそうに本を抱きかかえて私の隣を歩いているのだから。
あのね、あのね、と拙い言葉で一生懸命本の感想を話すシェルシエルを穏やかな気持ちで聞いてやる。こんな小さな子供と話をするなんて今まであっただろうか。きっとなかっただろうが、多分話すときの気分は普通の大人と話す時と変わらない。要は、本好き同士の会話なのだ。同じ物語を共有できるのは誰だって、いくつだって嬉しい。
「館長!」
「ああ、見つかったよ。保護してる。」
しばらくカウンターの中で少女と話しているとすぐに青年を連れたヘッジホッグが現れた。おそらくその青年が少女の兄なのだろう。
「シルフ。」
「お兄様!」
「勝手に歩き回るなとあれほど言っただろう。」
「申し訳ありません……。」
嬉しそうに駆け寄るも一変してしぼむ少女の背中を眺めた。シェルシエルと名乗ったが、やはりシルフという少女その人だったようだ。つんと澄ましたような青年は厳しく戒めるが、その額には少し汗が浮いていて懸命に探していたことがうかがえる。良いとこのお貴族様など、鼻にかけているようでいけ好かないが妹思いではあるらしかった。
「怪我がないならそれでいい。……ここで何をしていた?お前の好みそうなものはないだろう。」
至極自然にそういった彼に違和感を覚える。彼女の好きそうなものがない?いや、ここには彼女の好きなもので溢れかえっているではないか。
「……いえ、ここはとても広くて。迷子になっていました。」
「そうか、疲れただろう。帰るぞ。」
明らかな嘘。なぜ嘘を吐いたのか、私にはわからなかった。読書は確かに実学と天秤にかければ軽くなってしまうが、幼子の教育の一環としては推奨されてもおかしくない。なのになぜ、彼女はそれを隠すのだろうか。嬉しそうに感想を言っていた彼女は、普段それを口にする相手がいないのだろうか。
彼女にとって読書とは秘密そのものなのだ。
「ご迷惑おかけいたしました。ご協力感謝します。」
100点満点のお礼を言って、去る青年。手を引かれる少女は、一度だけ振り返った。カウンターで話をしていた私に、ではなくカウンターに置かれたままの本に視線を向けて。
「館長、あの子は中で迷子に?」
「いいや、奥でこの本に夢中になっていたよ。」
カウンターの本を指さすと怪訝そうな顔をする。
「あんな小さな子が……?」
「随分と賢いお嬢さんらしいね。感想も聞いたけどしっかり読み込まれてたよ。」
「そうでしたか……、」
「しっかり養育された良いとこの子なんだろうなあ。」
「そうです!さっきの兄妹の家がわかりました!」
突然声を高くする彼女を片手で制する。少ないとはいえ利用者もいる。それに静かなここでは彼女の声はあまりにも響いてしまう。
「し、失礼しました。」
「それで、どうだったんだい。」
「……図書館の前に、彼らの乗ってきた馬車がありました。」
馬車で来る利用者も確かにいる。いわゆる学術書や歴史書の資料に用のある連中だ。王城関係者もたまに訪れるせいで馬車の紋はやたらと豪華だ。
「どこの家紋?」
「……公爵家、ビーベル公爵家の家紋でした。」
「……公爵家とは、それは、また、」
今更聞き顔が青ざめる。ビーベル公爵家といえばこのラクスボルンで王家の次に力をもつ由緒正しい家だ。お貴族様の中のお貴族様。もしそんな高貴な家柄のご令嬢に万が一のことがあれば、どうなるか想像に難くない。私は、この図書館はこのものの数十分の間首に刃を当てられた状態だったのだと気がついた。
「とんでもない利用者様なことで……、」
「本当ですよ……。不謹慎ですけど、頼むからここではトラブルを起こすのはやめてもらいたいです。」
二人して、深いため息を吐きあった。
先程の少女との邂逅は悪いものではなかったけれど、ここまで肝を冷やすようなことは勘弁してもらいたい。また、ああ惜しいと思う。あれほど同胞の匂いがするというのに、こんなにもう来てほしくないと思うのは何とも苦々しい。本好きとしての純然な歓迎と、図書館責任者としての真摯な願いはどこまでも相反する。
もし彼女が、公爵家などの娘でなければ。
「……コーヒーを淹れるけど、飲むか?」
「飲みます!お願いします。」
苦々しい思いはコーヒーと共に流し込んでしまおう。
きっと彼女はもう来ない。一度迷子になった妹をあの青年が連れてくるとは思えないし、本を読むことを秘密にする少女はここへ馬車をつけさせることはできないだろう。
香ばしい香りが、本と埃と日の匂いの中に漂った。
ご閲覧ありがとうございました!
もう少し館長目線続きます
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