怪物の隣で Ⅳ
簡素なワンピースに地味な深藍のエプロン。髪を団子にまとめて図書館内を彼女は歩いていた。それはどこからどう見ても非常に一般的でどこにでもいそうな司書の女性だった。
シルフ・ビーベル。国に追放され陛下に拾われた元公爵令嬢の罪人。公爵令嬢から死刑囚、それから図書館司書とは随分奇天烈な人生を歩んできたものだ、と思うが彼女自身からはそんなもの微塵も感じさせない。強いていうなれば、立ち振る舞いが平民のそれではないということくらい。
普通、普通はどうだろう。箱入り娘の公爵令嬢、王太子の婚約者で次期妃という肩書を持っていた娘が、死刑囚となり、そして平民に身を窶し生活するとしたら。あんなにも穏やかに過ごせるものなのだろうか。ヒステリックに喚き散らし、高飛車に無様な姿をさらすものではないのだろうか。そう思うのはラクスボルンから得た彼女の情報から来る偏見なのか、はっきりとしない。だが少なくとも、色恋沙汰で揉め事を起こすようなおつむのお嬢さんがこんな風に過ごせるとはとても思えない。
何が嘘で、何が本当か。
慎ましく過ごすふりをして起死回生の期を狙っているのか、それともラクスボルンの情報が嘘なのか。
俺は見極めなくてはならない。
「ちょっとあんた。」
「……は、」
後ろから掛けられた声に身体をこわばらせた。いくら考え事に気を取られていたとはいえ現役兵士として背後を一般人にとられるなどあってはならない失態だ。仁王立ちで気の強さを感じさせる若い女性。シルフ・ビーベルと同じく、図書館職員の深藍のエプロンを付けていた。
「何か?」
「何か、じゃないわよ。さっきからあの子のこと随分見てるけど、何の用?」
顎でさされた方には観察対象のシルフ・ビーベル。彼女は何に気づいた風もなく返却された本を本棚へと戻していた。
何の用、と聞かれ答えに窮した。用、といえば観察することが、彼女の本質を見極めることが目的なのだが、思えばこれは何の事情も知らない人間から見れば付きまとい行為なのではないか。後ろ暗いところなど何もないというのに嫌な汗が流れる。
「……やましいことは何もない。」
「そう。とりあえず事務所に来てもらっていいかしら。そこで話は聞くわ。」
完全に不審者だと思われている。
こちらは正義感ゆえに、国の安全のためにこうして探っているというのに不審者扱いされるなど甚だ遺憾、だがどうみても今不審なのは俺の方だ。一応今日は非番、嗅ぎまわっているのは陛下も了承済みのことだが自分の地位を明らかにできるものは持っていない。今この状態で俺は俺の正当性を訴えることはできない。もしこのまま憲兵に突き出されでもしたら赤っ恥どころの騒ぎじゃない。下手したら陛下の顔に泥を塗りかねない事態だ。ザッと血の気が引くが同時に図書館の見取り図を頭の中で引っ張り出し最短経路と人の数の予測を立てる。強行突破、問題ない。今現在俺を警戒しているのは目の前の職員一人。今回の監視は諦めこの場は大人しく撤退した方が得策だろう。
「あの、レオナルドさんですよね?」
駆けだそうとしたとき、高い声が俺の名前を呼んだ。
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適当な店で買ったパンを片手に、俺は観察対象と図書館中庭のベンチに座っていた。観察対象に見つかる、ということは監視に置いて最悪の事態だ。内心項垂れながらも、いやむしろ迂遠なことをせず直球で話が聞けるのではないかと思いなおすことにした。持参してきたパニーニを食べるシルフ・ビーベルは、どこからどう見てもありふれた一般市民の一人だった。
「初めまして、レオナルドさん。わたくしはシルフと言います。」
「……初めまして、お嬢さん。俺はレオナルド・ラフヴァルです。といってもご存知のようですが。」
「ええ、何度か陛下から貴方のお話を伺ったことがございます。」
にこにこと控えめに笑う彼女に対して警戒心を隠すこともできない俺は、我ながら滑稽なことだ。陛下が彼女に何を話したのかは知らないが、少なくとも容姿のことは話していたらしい。そう目立つような見た目ではないと思っているが、その認識を変える必要があるかもしれない。
「レオナルドさんも本が好きなんですか?」
「ええ、まあ。ダーゲンヘルムの国民のほとんどが当てはまるかとは思いますが、ね。」
「素敵な国ですね。」
口数が多いとは言えないが、なんとも長閑な為人をしている。のんびりと小さな口でパニーニを齧って、降り注ぐ太陽に目を細めていた。彼女がどのような公爵令嬢であったか俺は知らない。だが少なくとも、この目の前の娘には、煌びやかなドレスに匂いたつ香水なんかよりも、素朴な衣服に古い紙とインクの匂いの方があっているように思えた。
「それで、なにかわかりましたか?」
「……どういう意味で、」
「わたくしのことを疑っていらっしゃったのでしょう。そうでなければ、図書館で本を数冊とったっきり読むことを借りることもなくただわたくしを見ている、なんてことはないのでしょう?」
バレていたのかとも、飄々としてただの娘ではないとも、なんとも表現しがたい思いに駆られ尻の座りが悪くなる。ただ、ひどく気が抜けてしまっていた。なんとなく、彼女の雰囲気がそうさせるのだ。あまりにも無防備で、穏やかで、疑いを持っていることに罪悪感すら抱かせる。
「……ええ、まあ。何もお嬢さんからは知れませんでしたがね。」
「ふふ、そうでしたか。わたくしを見ていてもつまらないと思いますよ。わたくしはいつも同じ生活を繰り返しているだけですし、レオナルドさんが知りたいようなことは何も見えないと思います。」
控えめに笑う彼女は一抹の申し訳なさすらにじませる。事実、彼女を半日観察して、得られたものは何もなかった。どこまでも一般市民として生活していた。
「……すいませんでした。不快だったでしょう。俺はこれで帰ります。」
「あっ、いえその、怒ったりとかはしていませんし、不快だとも特に思ってはいません。」
立ち上がり居心地の悪い場所から逃げ出そうとしたとき、引き留めたのは他でもない彼女自身だった。
「わたくしは、疑われて当然だと思っています。」
「しかし、」
「疑われて当然で、疑いが晴れる、ということもなかなかないと思います。陛下の側近である貴方は疑うこともお仕事なのでしょう。」
うっ、と言葉に詰まる。彼女の言う通り、疑いが晴れるということはまずない。陛下の側にいる限り彼女がこの国を左右しかねない存在であることは変わらないのだ。何か謀があるのではないのか、隣国の諜報員ではないのか。その疑念が消えることはない。側近である俺は、陛下の代わりに疑わなくてはならない。
「疑われるのは仕方ありませんし、わたくしにどうにかできることでもございません。……ですがわたくしという存在のせいで貴方の仕事を増やしてしまうのは申し訳なく思います。」
伏し目がちな目からは何を考えているかはうかがい知れない。何を考えているかわからない、次の瞬間に何を言い出すかわからないというその感覚は、陛下に感じるものと同じだった。ごくり、と一人唾を飲み込む。
「貴方がわたくしの生活を見張っても得るものはございません。ですから、よろしければ何か尋ねられたいことがあればどうぞわたくしにお尋ねください。」
「……はい?」
「どうぞ、遠慮なさらず。わたくしに答えられることであれば、なんでもお答えいたします。」
さあなんでも来い、と言わんばかりの言葉に呆気に取られてしまった。無垢というか、無邪気というか、なんにせよ変わった娘だと思わずにはいられない。彼女が別に頭が足りないわけでも阿呆なわけでもないのだろう。聡明で、知識もある。自らの置かれた立場も対峙している人間の立場も理解している。ただ考えた末、それが最も良いという答えを出しただけで。
「では、名前は?」
「シルフです。ラクスボルン出身で公爵家ビーベルの娘でしたが、縁を切られましたので今は姓はございません。」
「なぜ森に?」
「詳しいことはわたくしもよくわかりません。ただ友人であった方に騙されてしまったようで、濡れ衣を着せられ国外追放され、檻ごと森に置いていかれました。」
俺の質問によどみなく答えていく彼女。嘘をついているようには、どれも見えなかった。だがそもそもこの問答自体がナンセンスで無意味だ。何の意味もなさない。聞きたいことがあるならば聞けと彼女は言う。だが彼女の答えが事実であるという証明は何もないのだ。友好的な笑みが本心なのかわからない。無防備に向けられた腹が本当に無防備なのかわからない。それはどこか儀式にも思えた。怪しい者ではないと両手を上げる、降伏だと白旗を振る、そのどれもが無意味だ。だが時に必要とされる。彼女のこの問答もまた、その一つだ。
詰まることなくすらすらと尋問に似た質問に答える彼女はまるで赤の他人の経歴を話しているように見えた。
レオナルドさんのフルネーム、レオナルド・ラフヴァルになりました。
シルフやカンナたちと違い、響きで決めたので特に意味はありません。




