記されることのなかった物語 Ⅳ
ダーゲンヘルム王に捕らえられて数日。無骨な馬車から下ろされ、次に入れられたのは王城らしい建物の地下牢だった。かび臭く、しめっぽい。それはどこの地下牢にも共通する点なのだろうか。
入れられた牢は、ラクスボルンより綺麗だった。それはダーゲンヘルムの方が清潔で掃除が行き届いているという意味ではない。あの王の為人からして、牢に入れられた者は間もなく処刑されるから牢が汚れる暇もないということだ。バケツを持たせ首を落とし、美しいと笑うあの男は頭のつくりがおかしい。
私は、ここで殺されるのだろう。シルフ・ビーベルか、あのダーゲンヘルム王に。
「カンナ、様……、」
「シルフ・ビーベル……!」
固い音を響かせるブーツのあとをたどたどしく追う軽い足音。それとともに姿を現したのは数年ぶりに見るシルフ・ビーベルの姿だった。ラクスボルンにいた頃よりも簡素な服に髪型だったが、憎らしいほどに美しいその容貌は変わっていなかった。
すぐに、殺されると思っていた。恨まれているだろうと、さぞ残酷で凄惨な手段をもって処刑されると。
しかし彼女が私に下したのは処刑ではなく、猶予だった。
”365日間、物語を一日一つ語ること”
曰く、物語を愛する国民性を持つダーゲンヘルムに相応しいゲームだと。
賭けるのは私の命。
まだ正しい答えを得られていない私は、死ぬわけにはいかなかった。言われるがままにそのゲームに乗り、私は記憶の中から一つずつ物語を語っていった。
何を考えているかわからない、物語通りに動かない彼女は私にとって恐怖だった。ダーゲンヘルムに来てからもそれは同じだ。なぜ彼女がこんな七面倒くさいことをしているのか、想像もつかない。シルフにとって、私を生かすことに何の利益もないだろうに。しかも一年間話すことができれば解放されると。意味が分からない。普通、殺すだろう。私は彼女を殺そうとしたのだ。ならばその行いに報いようとするのが普通の考え方だ。それなのに彼女は毎日、私を嘲笑いに来るでもなく、ただ粛々と私の語る物語を聞いていく。時折、私の言葉に軽口を叩き皮肉るが、物語を聞くその姿勢はラクスボルンにいたころのままだった。無意識だろう。そうでなければあんな顔を私に見せるはずがない。
一日、また一日と日を重ねるたびに、私は目に見えない不安に押しつぶされそうになっていた。何を考えているかわからない彼女と会うことだけが一日の仕事で、一つ、二つと物語を語るたびに365日は終わりに向かっていく。それがひたすらに恐ろしかったのだ。果たして、彼女は本当に私を解放するのだろうか。解放する理由など、ないだろう。もしかしたら解放すると見せかけて、希望を与えておいてそれを裏切り殺すのかもしれない。そうだろう。きっとそうだ。語ろうと、語らざれどもきっと変わらない。そう言い聞かせても、感じるのだ。自分の中に生への希望が芽生えていることを。正解を知るために、生きたいと思っていたはずだ。でもいざ明確に生きる方法を目の前にぶら下げられてしまうと、それが欲しくてたまらなくなる。酷く輝いて見えるのだ。正解を知りたいから生きたいのか。それとも生きたいと言う浅ましさを隠すために正解を言い訳にしているのか。境界線は曖昧になる。その希望が偽りという可能性を重々知っていたとしても、だ。
分からないから怖い。理解できないから怖い。ひたすらに、どう彼女が動くのか想像ができないから恐ろしい。
彼女は、私をアイソーポスと重ねているのだろうか。イソップ童話の作者、アイソーポスは奴隷身分でありながら、その物語を作る才能を買われ奴隷身分から解放されたという。私は、彼女にアイソーポスについて語ったことはない。彼女がもともと知っていたかは、定かではない。
100話語っても、正解が何なのか私は知れなかった。彼女が何者で、何を考えているのかもわからなかった。分かったことと言えば、箱入り娘だったシルフが随分と強かになっていることくらいだった。元の性格が表に出たのか、拾い主の性格に毒されたのか、それとも私に適応し始めたのか。それはどうでもよく些細なことだった。
200話目を迎えたとき、私は自身で考えるのをやめ、彼女に直接聞いた。
何故、私を生かすのか。
正解や正しさとは別の場所で、私の最大の疑問だった。しかし彼女ははぐらかすばかりで決定的なことをいわない。苛立ちを抱えながらつかみどころのない問答を繰り返す。
「貴女はなぜ、わたくしを悪役令嬢に仕立て上げたのですか?」
簡単な質問、というように彼女は軽々しく聞いた。一方の私はむしろ虚につかれたようだった。今更何を言っているのだろうか。なぜ悪役令嬢に仕立て上げたのか。そんなのは一つだ。
「アンタが”シルフ・ビーベル”だったからよ。」
ラクスボルンの地下牢に居たとき、言ったはずだ。それ以上でもそれ以外でもない。それが最大の理由にして、唯一の理由だ。
嫌いだったわけでも、邪魔だったわけでも、目障りだったからでもない。ただ、彼女が悪役令嬢だったからだ。さらに理由を付け加えるなら、得体が知れなかったから排除したかった、ということが付け加えられる。
シルフが悪役令嬢であることは決定事項だった。私はただそれに従いお膳たてしただけ。それが私の行動の理由だ。
平行線をたどるばかりの問答をしていて、疑念は確信に変わった。
目の前のシルフ・ビーベルは転生者ではないかもしれない。いや、転生者ではない。彼女は本当に、何も知らないのだ。ならばなぜ、原作通りに動かなかったのか、神の見えざる手によって思考に補正を加えられなかったのか、という理由はわからない。
だが彼女は何も知らない、というのはほとんど確信だった。もし転生者であれば、私の端的な言葉から何が言いたいのか理解できるだろう。そして転生者であることを隠したいのであれば早々にこの話題を打ち切るはずだ。なのに彼女は問い直し、真意を探ろうとしている。
では、何も知らず、箱庭の人形にもなり下がらず、原作から離れて動くことのできる彼女は本当に何者なのだろうか。
何か質問をしろと言われ、探す。程よくどうでもよく、聞いて損のないもの。
「……何で、私のことを生かしているのにラクスボルンには仕返しをしたの。」
もう過ぎ去ったどうでも良いことだが、不思議に思わないでもなく、なおかつ私の欲しい答えのヒントになるかもしれない問い。おそらく、最適であった。
なぜ私には蜘蛛の糸が与えられ、ラクスボルンの人間には一筋の光さえ与えられず、殺されたのか。
「ラクスボルンの方々はわたくしを国に呼び戻そうとしていました。」
「はぁ?アンタは死んだことになってたでしょ。しかも殺したのはラクスボルンなのに今更、」
「あれ、ご存知ありませんでしたか?生きているのではないかと疑問をもったラクスボルンは、ダーゲンヘルムにいるだろうわたくしを呼び戻し、再びミハイル王子の婚約者の席に据えようとしたのですよ?」
「なん、」
「なんで、と申し上げますと、貴女がわたくしを嵌めて未来の重鎮たちたる重役のご子息たちを誑し込んでいたことがわかったからですよ。発端はわたくしが貴女を突き落としたとされた時刻図書館にいたという告発でした。そこから貴女の嘘は次々と見破られ、貴女は処分されるはずだったのです。貴女を処分し、再び空席となったわたくしを”カンナ・コピエーネ”として据えようとしていたのです。貴女によって国が騙され、嘘に踊らされたという事実をすべて隠し、捨てたわたくしを再び好待遇で迎えることで事実を知る者を黙らせようとしていたのです。……もちろん、陛下がそれを許すわけもなく、それ以降は貴女の知る通りです。」
なんて、馬鹿馬鹿しい理由で、ラクスボルンは死期を早めたのだろうか。そんなできるはずのない計画。荒唐無稽としか言えない計画。少し考えればできないことくらいわかるだろう。何より、生きているかどうか定かでない一人の娘を呼び戻すためにダーゲンヘルムに接触を試みた無謀さ。事実を知る者、ということは、どこからか情報が洩れ国民の一部に真実を、私の嘘に上役が揃いも揃って踊らされたと言う愚行を知り批判したということだろうか。なぜ彼女が追放される前にそれを言い出さなかったのかは分からない。だが、彼女の味方がラクスボルンにもいることを今初めて知った。
誰もが彼女を悪役令嬢と認識していたはず。だからこそ誰も彼女を助けなかった。無実の罪でありながら、婚約者に、家に、国に見捨てられたはずだった。でも、国には彼女の味方がいた。声を上げるのは遅かった、すぐには上げられない身分だったのか、それともこの世界が許さなかったのか。『悪役令嬢』である彼女が、『悪役令嬢』ではないと知る者がいたのだ。原作では誰もが彼女を悪役令嬢と言った。ゆえに、適当な嘘でも王子をはじめとしたキャラクターたち、国の権力者たちは原作通りに信じ込んだ。なのに、原作通りに信じ込んでなかった者が、他にもいたのだ。
告発者はもうわからない。いや、私は会うことはできない。
俄かに焦りが生まれた。じりじりと身を焼くような焦燥。いまさら私にできることは何もない。だが私にとっての正しさ、『原作通り』が静かに揺らぎ始めたのだ。
原作通りに動かなくてはならない。それこそが正義で、世界のためだと、本当に思っていた。そのためなら何でもすると、約束された幸せを得ようと。
それがどうだ。シルフは好きに動いている。何者かは知らないが原作などまるで無視している。なぜ無視し、しかし明確に抗おうとしないのかと苛立ちにもにた感情もあった。けれど私の知ってる原作通りの行動をしていない人間が、真実に気付いていた人間がいたのだ。
誰もが彼女を悪役令嬢と信じて疑わないと決められた箱庭の中、声を上げることこそなくも疑念を抱いていた人間がいたのだ。
原作通りが正しいと。そう思っていた私の正しさはひっくり返されそうになっていた。
原作通りに動こうとしていたのは、私だけだ。
正しく思考することさえ許されない箱庭の人形たちはともかくも、思考することを許され、行動の選択の許された、私と、シルフと、告発者。そのうちの二人が原作から外れることを選んだのだ。いや、きっと二人ではない。シルフと告発者たち、あるいは原作に描かれていない、どこかで生きる人間たち。それはきっと、この物語の中心にはいなかった、生きた人間たち。
疑念が、浮かぶ。
原作通りに進もうとすることこそが、間違いであったのではないか。
喉のあたりまできていたそれを無理やり飲み下す。考えてはいけない。認めてはいけない。そんなことあるはずはない。
だって、認めてしまったら今までの私は一体何だったのだろう。
原作通りにという大義名分を奪われたら、私の行動の全てが間違いだったということになるのだ。
何もかも、自分の好きなように動き、好きなことをすることこそが正しさだと言われてしまったら、私の今までの選択の全てが、無駄になってしまう。
みるみる、考えが浮かび上がってくる。今まで考えたくなかったことさえも。
シルフを見れば、わかる。
原作通りに動いた私は今、牢屋の中。
原作を無視した彼女は今、自分のしたいように暮らしている。
原作を無視することが、正解だったのか。
持って生まれた記憶は、アドバンテージなどではなくただの荷物だったのだろうか。だから、何も知らないシルフはあれほどにも軽やかに足音を立てるのだろうか。
知識を求めすぎることは、絶望の種を蒔くことに等しい。
原作を知っているということは、ただの足枷でしかなかったのか。
知識は時に罪となる。でもわかる。知りすぎたものは、知識を求めることをやめることはできない。知りすぎた故に犯した罪を、正しいと言い切れるだけの証拠が欲しいのだ。
原作通りに動くことは、罪だっただろうか。自由に生きることこそが正解だったのだろうか。
間違いだったなんて、認めたくない。だから、確信がないから、本当の「正解」と「間違い」がはっきりするまで、ただそれらを求め続けるしかないのだ。
誰が答えを持っているか、わからない。
でもできることは、この薄暗い場所でひたすら考え続けることと、
「昔々、あるところに……、」
檻の中で語り続けて命を繋ぐことしかないのだ。
その二つを繰り返して繰り返して、本当の答えを得られたのは、残すところ100話ほどになってからのことだった。
誰に与えられるでもなく、教えられるでもなく、答えは私の中に存在していた。




