田中美咲(仮名)さんの場合
田中美咲(仮名)さん二十五歳は大手商社に勤めているOL。
今まで、両親と兄と一緒に暮らしていたが、今年から一人暮らしをする事になった。
美咲が住むことになったのは、日野市内に建つ新築アパート。
六畳の洋室とキッチンのみの一Kで、オートロックもない。
それでも、駅からの近さは魅力的だった。
その日、仕事を終えて新居に帰宅した美咲は、小さなダイニングでコンビニ弁当を開いた。
時刻は十時を回っていた。
割り箸を割った瞬間、スマホの着信音が鳴った。
画面に表示された文字を見てため息。
兄からだった。
一瞬、着信拒否しようかという考えが脳裏を過ったが、後が面倒なので出ることにした。
「もしもし。何よ、こんな時間に?」
『何よって、何度電話しても出ないから……』
その時になって思い出した。
スマホは、ずっとマナーモードにしてカバンに入れたままだった事を……
家に入る前にマナーモードを解除した時、着信履歴が貯まっている事に気がついていたが、疲れているから後で見ようと思って忘れていた。
「ああ、そう。気がつかなかったわ。で? なに?」
『いや、おまえ今日から一人暮らしだろ。大丈夫かなと思って?』
そんな事で一々電話するな! というセリフを言いかけて、寸前で思いとどまる。
そもそも、一人暮らしをしたい一番の理由は、過干渉な兄から離れたい事だったのだ。
そんな気持ちも知らないで電話してくる兄に、美咲は苛立ちを覚えた。
「私なら大丈夫よ」
『本当か? 新しい部屋で、何か困った事はないか?』
「ないわ。とても快適よ」
この電話がかかってくるまではね。と内心つぶやく。
「もう用はないね。切るよ」
『いや、待て、一人で寂しくないのか?』
「ないわよ」
『本当か? 無理していないか?』
イラ!
「無理なんかしてない」
『困っている事はないか?』
「困っている事? あるわよ」
『何に困ってる? 話を聞いてやるぞ』
「お腹が空いて困っているわ」
『なに? 食べる物もないのか?』
「食べる物ならあるわ。目の前に」
『え? じゃあ、なんで食べない?』
「食べようとしたら、兄ちゃんが電話をかけてきて邪魔するからよ」
『え?』
兄はしばらく黙り込んでから、ようやく妹の言いたい事を理解した。
『いや……俺は邪魔するつもりでは……』
「兄ちゃんにそのつもりは無くても、邪魔なのよ! 分かったらさっさと電話を切って!」
電話を切っても苛立ちは消えない。
コンビニ弁当を猛烈な勢いでたいらげると、美咲は冷蔵庫内のビールに手を伸ばした。
たちまち酔いが回って、寝床としてしいていたマットレスの上で美咲は眠りにつく。
どのくらい時間が経っただろうか。
どこからか聞こえてくる物音に美咲は目を覚ました。
ゴトッ……ゴトッ……
キッチンの方から、微かな、しかしはっきりした物音が聞こえてきたのだ。
美咲は目を閉じたまま、心臓が跳ねるのを感じた。
(泥棒? まさか。ちゃんと鍵はかけていたはず……)
美咲はゆっくりと息を吐き、耳を澄ませた。
ブツ、ブツ、ブツ……
今度は何かをすするような、湿った音が聞こえる。
さらにそれに混じって、誰かが不満そうに独り言を言っているような、低い声も聞こえてきた。
美咲は、恐怖で全身の毛穴が開くのを感じた。
恐る恐る、美咲は上半身を起こし、仕切り戸のわずかな隙間に視線を向けた。
……!
隙間から見えるキッチンは、暗闇に包まれている。
しかし、目を凝らすと、冷蔵庫の前に巨大な陰があるのが見えた。
それは人間だった。
美咲は息を飲んだ。その人物は、立っているというより、そこに固まっているという表現が近い。
肩幅が広く、全身が肉に覆われているのが、シルエットからも見て取れる。
グチャッ、グチャッ……
不快な咀嚼音が響く。その人物は、何か生ものをそのまま食べているかのように見えた。
美咲の理性は、今すぐ110番しろと叫んでいたが、身体は金縛りにあったかのように動かない。
美咲は、その人物の姿を見ようと、さらに隙間に目を近づけた。
そして見てしまった。
その人物が、顔を美咲の方に向けたのだ。
それは、三十代くらいの、ぽってりとした女の顔だった。
二重あごが三段になり、目は細く常に何か非難しているかのように吊り上がっている。
顔色は土気色で、冷蔵庫内の光を反射して、脂ぎってテカテカ光っていた。
美咲は悲鳴を上げそうになったが、声が出ない。
その肥満体の女は、口の周りをヌルヌルしたもので汚しながら、美咲のいる仕切り戸の隙間に、ニヤリと醜悪な笑みを向けた。
「……誰かに、見られるのは、嫌だねぇ」
その声は喉の奥から絞り出されたような、深く、湿った響きを持っていた。
そしてその声は、耳元で囁かれたかのように、異常なほど近くに聞こえた。
その時、美咲は気がついた。
女の姿が透けて、その向こうにあるはずの壁が見えている事に……
その女は、肉体を持たない、この世のものではない。
それを悟った時、美咲の恐怖は頂点に達し、意識はそのまま暗転した。




