思わぬ×事態
憂さんの呼び出しで風邪をひいた陽子さんのお見舞いへと連れてこられた俺は、憂さんと陽子さんが住んでいる下宿先の部屋の扉を開けて中へと足を踏み入れた。
「や、やあっ! 風邪の具合はどう? 大丈夫?」
「へっ!?」
8畳ほどの広さの室内に敷かれた小さな布団。その上で上半身を起こして座っている陽子さんにシュタッ――と右手を上げて声をかけると、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような表情でこちらを指差した。
去年の髪を切った頃からだいぶ伸びた陽子さんの髪の毛は全体的に寝癖がついていて、いつものきちっとした様相とはだいぶ違う。まあ風邪で寝てたんだから、それは当然だろうけどな。
「あ、あ、あ、あ…………」
俺の方を指差しながら、途切れ途切れに単音を発する陽子さん。その指が――いや、身体全体が大きく震えているのが分かった。
「よ、陽子さん、大丈夫?」
「どうしたの陽子?」
「うわあぁぁぁ――――――――っ!?」
「うおっ!?」
「ちょ、ちょっと陽子!? どうしたのよっ!?」
突然大きな叫び声を上げ始めた陽子さんにビックリしてしまい、思わず身体を仰け反らせてしまう。流石は役者を目指しているだけあって、その声量はもの凄いものだった。
「お、落ち着いて陽子!」
「だだだだって! りりり龍之介くんがあんな所に居て、私がこんな所に居て、憂先輩がそんな所に居るんですよ!?」
陽子さんは誰が見ても分かるくらいに混乱していて、言っていることも支離滅裂だ。やはり突然お見舞いに来たことが不味かったのだろうか。てか憂さん、俺が来ることを予め言ってなかったんですか……。
「陽子さん、とりあえず落ち着い――」
「あーっ! 来ないで龍之介くん!」
激しく取り乱す陽子さんをなだめるために近づこうとすると、両手をパッと前へ突き出してそれを強く拒否する。
「りゅ、龍之介くん、悪いけど一度部屋から出てもらって良いかな? とりあえず陽子を落ち着かせるからさ」
「分かりました」
未だ動揺が収まらない様子の陽子さんに背を向け、そそくさと部屋をあとにする。
あんなに取り乱した陽子さんを見るのは本当に初めてで、かなり心配になってしまう。
そんなことを思いながら廊下へ出ると、同じくこのアパートに住んで居る人たちが、なに事かと言った感じで部屋の扉の陰から顔を覗かせてこちらの様子をチラチラと窺っていた。そりゃああんな大きな叫び声が聞こえれば、誰だってなに事かと思うのが普通だろう。
しかしだ。どうも扉の影からチラチラとこちらを見ている人たちからは、驚いた――と言った雰囲気を感じない。どちらかと言えば好奇の目を向けている印象を受ける。
その不可思議な視線に居心地の悪さを感じつつも、憂さんが陽子さんをなだめ終わるのを待つ。
「どどどどうして黙ってたんですか!?」
「ごめんごめん。ちょっとしたサプライズのつもりだったんだよ~」
「凄く驚きましたよ!」
聞き耳を立てるまでもなく、筒抜け状態で聞こえてくる会話。どうやら本当に俺を連れて来ることは言ってなかったみたいだ。
「それよりも陽子、龍之介くんを待たせてるんだから、身支度するなら早くしないと」
「あっ! そうだった!」
その言葉とほぼ同時に、部屋の中からドタバタと忙しなく動き回る音が聞こえてきた。
まあ流石に寝癖がつきまくった姿で会うのは誰でも嫌だろうからな。憂さんもそれくらいの身支度をさせてあげてから俺を呼べば、こんなことにはならなかっただろうに……。しかしああ見えてそういったことには気のつく憂さんが、たかだかそんなことにも気が回らなかったとは思えない。もしかして、わざとか? 憂さんならありえるかもなあ……そういった悪戯をしそうな感じはあるもんな。
「――お待たせ、もう入って良いよ」
「分かりました」
考え事をしていたからか、部屋を出てどれくらいの時間が経ったのかは正確には分からない。体感的には10分くらいだと思うが、今はそんなことはどうでも良かった。
「お邪魔します」
「あ、あの……さっきはごめんなさい」
部屋へ入ると先ほどの小さな布団の上で上半身を起こして座っている陽子さんの姿があり、俺が入って来るのを見定めてからペコリと頭を下げてきた。
先ほどとは違って寝癖のついていた髪の毛も綺麗に整えられている――ように見えるが、慌てていたからなのか、所々でまだ軽く寝癖で髪が跳ねている。
「いやいや、そんなこと気にしなくて良いよ。俺が突然お見舞いに来たのもいけなかったんだからさ」
「ううん! そんなことない!」
力強く頭を左右に振り、その言葉を否定する。
陽子さんらしい心遣いだとは思うけど、あれほどの動揺を見せた原因は間違いなく俺が来たからだろう。だからそこは申し訳なく思ってしまう。
「いやー、ごめんね龍之介くん。お騒がせしちゃってさ」
そう言いながら陽子さんの後ろに回った憂さんは、俺が手に持っているお花とケーキが入った箱を見て目配せをしてきた。
「あ、そうだ陽子さん、これお見舞いなんだけど受け取ってくれるかな?」
「えっ? わざわざ買って来てくれたの? ごめんなさい、気を遣わせてしまって……」
申し訳なさそうにしながらも、お花を受け取ってくれる陽子さん。
憂さんからの申し出とはいえ、逆に気を遣わせてしまったんじゃないだろうかと心配になる。それにこの品も憂さんが買った物だから、俺としてもなんだか心苦しい。
「それとこれ、良かったら食べて」
「おっ! ケーキかー! 気が利くね~龍之介くんは。ありがとう」
本来ならわざとらしく聞こえるようなセリフだろうけど、そこはやはり役者を目指す者。素人の俺には少しの嘘くささも感じられない。
憂さんは陽子さんに手渡そうとしたケーキの箱を横からスッと取ると同時に陽子さんが持つ花束も受け取ると、『今みんなで食べる準備をするね』――と言って花束を邪魔にならない場所に置き、部屋にある小さな食器棚からお皿を取り出し始めた。
「あっ、そういえばコーヒーを切らしてたの忘れてた!」
「えっ? まだ残ってませんでした?」
「いやいや、見てよコレ。見事に空っぽ」
「ホントですね。でもおかしいなあ……昨日まではまだ残ってたと思ったけど……」
「まあ無くなってる物は仕方ないよ。ちょっとひとっ走り行って来るから、龍之介くん、陽子のことお願いね」
「「えっ!?」」
「それじゃあごゆっくり~」
「ちょ、ちょっと憂さん!?」
これ見よがしに空になったインスタントコーヒーの瓶を見せたあと、憂さんはそう言ってサササッ――と部屋を出て行った。
「行っちゃったね……」
「ごめんなさい。憂先輩はいつもこれだから……」
「あ、いや、別に大丈夫だよ。それよりも、寝てなくて大丈夫?」
「うん。2人が来るちょっと前まで寝てたから、今は少し良い調子かな」
「そっか。それなら良かったよ」
「うん、ありがとう。あっ、緑茶ならあるから今出すね」
「いいからいいから! そんなこと気にしないでいいよ」
「でもそれじゃあ……」
「それなら俺が代わりに淹れるからさ、場所を教えてくれない?」
「……ごめんね」
「気にしなくていいから」
立ち上がろうとする陽子さんを止めてから自分が立ち上がり、どこにお茶っ葉や湯呑みがあるのかを聞いて準備を始める。
8畳一間に小さなガスコンロつきの台所。あとは押入れと外が見える窓があるだけ。一階の階段付近と二階の廊下の突き当たりにトイレがあったのは見たから、おそらくここは共同トイレなのだろう。
それに構造上、部屋にお風呂があるようにも見えない。これは生活するにはちょっと不便を感じるだろう。特に若い女の子なら尚更そう感じるのではないだろか。
しかしそうは思いながらも、こういった場所で同じ目的に向かって邁進する仲間と一緒に過ごすというのはとても楽しそうに思えた。
「はい、お待たせ」
「ありがとう。ごめんね、お客さんにこんなことさせて」
「いいのいいの。陽子さんは病人なんだからさ、遠慮なんてしなくていいんだよ。それよりも舞台が近いんだから、早く治さないとね」
「うん、そうだよね」
そう言ってにこっと微笑む。病気で弱っていたせいもあったからか、なんだか守ってあげたくなるような雰囲気を醸し出している。
いつもの快活な姿も魅力的だけど、ちょっと弱々しく見える陽子さんも、これはこれで可愛らしく見えていい。
「そういえばこの前借りた舞台のDVD、凄く良かったよ」
「本当? 良かった」
「うん! 主役から脇役まで全員が個性的で、見てて凄く面白かったよ」
「そうだよねっ! 私もあの舞台大好きなの! 特にね――」
先ほどの少し弱っているような表情から一変、いつもの元気な表情を見せながら、流暢に話を進めていく。
そんな陽子さんの様子を見ていると、本当に演技をすることが好きなんだなと思える。そしてそんな活き活きとした陽子さんを見ているのが俺は好きだった。
「――ただいま~」
「あっ、お帰りなさい、憂さん」
「なんだか楽しげに話してる声が聞こえてたけど、青春をエンジョイしてたのかな~?」
買って来た品物が入っているであろう袋を畳張りの床に置きつつ、ニヤニヤとした笑顔で俺と陽子さんを交互に見てくる。
「2人で舞台の話しとか演技の話しとかをしてたんですよ」
「へえ~、そうだったんだ。でも、興味がないとそういった話を聞いててもつまらないんじゃない?」
憂さんの発言を聞いた陽子さんが、あからさまに表情を暗くした。きっと“つまらない話しにつき合わせてしまった”――とか考えてるんだろ思う。
「いやいや、確かに前は興味がありませんでしたけど、陽子さんに頼まれて舞台の手伝いをした時からちょっと興味を持ってきたんですよ。だからたまに陽子さんから舞台のDVDとかを借りたりしてたんです」
「ほうほう、それはお姉さん初耳だなあ~」
「あうっ……」
そう言いながら陽子さんの方へチラッと視線を送る憂さん。その視線を受けて陽子さんは不思議と顔を俯かせた。
向けられた視線に如何ほどの意味が込められているのかは分からないけど、恐らくろくでもない意味合いが込められているのであろうことは、憂さんの性格や普段の言動を考えれば想像に難くない。
それから憂さんが買って来たコーヒーを淹れてもらい、3人でしばしのティータイムを楽しんでいた。
「――ところで龍之介くん、君は今、つき合ってる女の子とか居るのかな?」
「えっ!?」
あまりにも唐突でこれまでの流れを全く無視したその質問に対し、俺はあまりにも間抜けな声を発してしまった。
「だから、君には今つき合ってる異性は居るの? って聞いたの」
「ど、どうしてそんなことを?」
「んー、そうだなあ……あえて理由を言うとすれば、私が気になるから――かな」
「えっ?」
人差し指を口元へ当てながら、艶かしくそう言い放つ憂さん。その物言いは激しく勘違いを招きそうなので止めてほしい。
「ちょ、ちょっと憂先輩!? なにを言ってるんですか!?」
「なにって、さっきからつき合ってる人は居るのかって聞いてるだけじゃない」
「だ、だから、なんでそんなことを聞くんですか! 龍之介くんが困ってるじゃないですか!」
「えー! 自分が好きな人のことを知りたいと思うのはおかしいことかな?」
「「はっ!?」」
その言葉を聞いて身体が硬直したのが分かった。
誰に確認するまでもなく、憂さんが言った言葉は俺へ向けられたものだろう。つまりこれは、憂さんから俺への愛の告白と言っても過言ではない。
「それでどうなの? つき合ってる人は居るの? 居ないの?」
「い、居ませんけど……」
「それなら良かった。それじゃあ私とつき合ってくれないかな?」
「そ、それは……」
「駄目なの?」
「いやあの……そういうことではないんですけど……」
突然そんなことを言われても困る。まさか憂さんから告白を受けるなんて夢にも思っていなかったし、心の準備もなかった。ここですぐさま返答をするなんて無理だ。
「分かった。それじゃあ今度の日曜日、舞台が終わったあとで答えを聞かせて。大丈夫?」
「は、はい……分かりました……」
「うん、OK。それじゃあ今日はもう帰りなよ。お買物もしなくちゃいけないんでしょ?」
「は、はい。分かりました。それじゃあ陽子さん、お大事にね」
「…………」
陽子さんは俺の問いかけに答えず、じっと憂さんの方を見ていた。
そんな陽子さんを見てなぜか心がざわつくのを感じつつ部屋をあとにし、予定通りに買い物を済ませてから自宅へと帰った。




