大嘘×身から出た錆
いよいよ五月病を発症する人が増えてくることになるだろう、貴重なゴールデンウイーク明けの晴れやかな朝。俺は大きな欠伸をこれでもかと言うくらいに何度も出しながら、通い慣れた通学路をのろのろと歩いていた。
どうしてこう纏まった休みのあとの学校はこんなに気だるく感じるんだろう。これが学生の間だけの一時的なものならいいのだけど、これが大人になってもなんら変わることなく襲いかかって来ると言うのだから、この五月病というのは本当に恐ろしい。
もういっそのこと毎日休みにならないかな――などと、至って駄目な思考に陥りつつも、それじゃ駄目だという相反する強迫観念にも似た思いが否が応でもこの足を前へと踏み出させる。
「お兄ちゃん、しっかり歩いてよ。このままじゃ遅刻になっちゃうよ？」
「別に俺のことは気にしなくていいから、杏子は先に行ってもいいんだぞ？」
「そんなのやだよ。せっかくお兄ちゃんと一緒に登校してるのに、なんで独りで先に行かなきゃいけないの？」
杏子はさも当然のごとくそう言うけど、“妹は兄と一緒に登校しなければならない”――みたいな法律や条例があるわけじゃないんだから、のろのろと歩く俺なんか放っておいてとっとと先に行けばいいんだ。
「兄としては妹を道連れに遅刻をするのは忍びないんで、構わず先に行ってくれていいんだぞ？」
「道連れが忍びないと思うなら、お兄ちゃんがしっかりと歩いてくれればいいんだよ。ほらっ」
不満そうに口を小さく尖らせていた杏子は、そう言いながら俺の右手をぎゅっと握ってきた。
「ちょっ！？ なにやってんだよ！？」
「なにって、お兄ちゃんがしっかり歩かないから私が引っ張って行こうと思って」
「どこの世界に高校生にもなって妹と手を繋いで登校する男子高校生が居るんだよ！？ 恥ずかしいから止めろ」
「嫌だよ。だって手を離したら、お兄ちゃんも私も遅刻しちゃうもん」
そう言いながら無理やり俺の手を引っ張って歩かせる。なんでこんな人目が多い中で妹に手を引かれにゃならんのだ。これはとんだ羞恥プレイだ。
「わ、分かった！ ちゃんと歩くからこの手を離してくれっ！」
「だーめっ！ お兄ちゃんはこのまま私が連行しまーす」
杏子は握っていた手を離されないようにしようと更に強固に握り直し、人目も憚ることなく通学路を進んで行く。そんな杏子の表情がちょっと楽しそうに見えたのは、きっと俺の気のせいではなかっただろう。相変らず妙なところでＳっ気を出す妹だ。
絶対に手を離してくれない妹の羞恥プレイによる周囲からの妙な視線に耐え忍びつつ、学園までの道のりを手を引かれながら歩く。小さな頃は杏子の手を引いて先を歩く方だった。だけど今は不本意な状況だけどそれが逆になっているんだから、月日の経つのは早いものだと感じる――。
「おはようございます、龍之介さん。具合はいかがですか？」
教室に入ってから窓際の後方２番目にある自分の席に座ると、一つ前の席の主である美月さんがこちらへと振り返り、心配そうな表情を浮かべてそう尋ねてきた。
「あ、ああ、今は別に大丈夫だよ。心配させてごめんね」
「いえ、龍之介さんが大丈夫ならいいですけど、早めに治療して下さいね？」
「うん、ありがとう。今日にでも診察に行くよ」
「良かったです」
その返答に対し、にっこりと本当に安心したような笑顔を浮かべる美月さん。
桐生さんとお話をしたあの日から、俺が自分の悩みに対してどうしたのか――結論から言えば、美月さんにみっちゃんなのかどうかを聞いてはいない。
結局は聞くのが怖かったからとかそういう理由が大半を占めるけど、やはり本当に美月さんがみっちゃんだった場合を考えると、彼女があの時のことを俺に話さないことにはなにかしらの理由というのがあるということ。ならばその理由が分かるまでは、下手な行動を起こすべきではないと考えたからというのもあった。
それにしても我ながら大した逃げの理由だとも思ったけど、人間関係はどんな些細なことから良くも悪くも変化をしていくか分からない。それを考えれば現状維持を続けようと俺が考えたのも、至って普通のことだと思える。
でもそれは都合のいい言い訳で、そうでも思わなければ自分の心にあるモヤモヤした気分に押し潰されそうだったから――というのが、本当の気持ちだったのかもしれない。
「龍之介くん、どこか具合でも悪いの？」
「ああいや、別にそういうことじゃないから心配しなくていいよ」
「そうなの？」
後ろの席からそう問いかけてきたまひろに対し、俺ははっきりとした内容を答えなかった。そのせいかまひろは心配そうな表情を更に心配そうにする。
これでは美月さんに心配をさせた時と同様に、まひろにも要らぬ心配をさせるかもしれない。それを考えればちゃんと話しておくのが変な誤解や心配を与えないだけいいのかもしれない。
そう考え至った結果、俺は美月さんと話していたことの内容を話すことにした。
「いやまあ、別に大したことじゃないんだけど、ちょっとゴールデンウイーク頃から歯が痛んでてさ。それで歯医者さんに行かないとなってことを話してたんだよ」
「そういうことだったんだ。それは確かに早く歯医者さんに行って治さないといけないね」
まひろはその内容にとりあえず安心できたのか、小さく息を吐いてからにこやかにそう言ってきた。これでまひろに余計な心配をかけることはないだろう。
ちなみに俺の言った“歯が痛む”というのは大嘘だ。なぜこんな大嘘をつく必要があるのかと言えば、桐生さんが美月さんに対して“悩んでいるように見えたのは、歯の痛みが気になっていたから”――などと説明をしていたからに他ならない。
理由としてはしょうもない内容だが、これ以上の心配をさせないために話を合せてこうなったというわけだ。
しかしゴールデンウイークが明ける前日、美月さんが腕の良いと評判の歯医者さんの場所が載ったコピー用紙を持って来たのはとんだ誤算だったと言える。
なぜなら美月さんのこの善意により、俺は本当に歯医者さんへ行くことを余儀なくされたわけだから。まあちょっとした口腔ケアをしに行くと思えば悪いことではないんだけどさ。
「なーに龍ちゃん、虫歯があるの？ ちゃんと毎日歯は磨いてる？」
「失礼なことを言うんじゃないよ。渡と一緒にするなっての」
「コラコラッ！ それじゃあ俺がちゃんと歯を磨いてないないみたいじゃないかっ！」
つい比較対象として選んでしまったまひろの右隣の席に居る渡が、席から立ち上がって来てこれでもかと言うくらいの凄い形相で反論を開始する。
「えっ！？ お前ちゃんと歯磨きしてるのか！？」
ちゃらんぽらんなイメージが強い渡のその発言につい驚いてしまい、反射的にそんなことを口走ってしまった。
「その驚愕に満ちた表情はなんなんだ！？」
「いや、普通に驚いただけだ。すまん」
「たくっ……いくら俺でも２日に１回は歯磨きくらいしてるっての」
「はっ？」
コイツは今なんと言った？ “２日に１回は歯磨きくらいしてる”って言ったか？
周りに居る茜やまひろ、美月さんたちに今の渡の呟きに似た言葉が聞こえたかは分からないが、その内容は非常に危険なものだ。
どう危険かと言えば、物理的にも精神的にも危険だ。なにせ歯磨きを怠ることによる歯周病は色々な病気の発生リスクを上げると聞くし、口臭の原因にもなる。加えて忌々しいことに、今の渡には秋野鈴音という幼馴染の恋人も居るわけだから、これが原因になって嫌われ、別れる――なんてことがないとは言えない。
普段ならリア充の心配などしない俺だが、秋野さんが一生懸命に頑張ってつき合うようになった経緯を知っているだけに、このまま黙っておくというのも気が引けてくる。
「渡くん、ちょっと俺について来たまえ」
「へっ？ なんで？」
「いいから黙ってついて来たまえ。お前がこれからの人生において後悔をしたくないなら」
「後悔！？ お前は俺のアカシックレコードでも知っていると言うのか！？」
なーにがアカシックレコードだ。そんな中二病みたいな単語を出さなくても、誰だって容易にお前の行く末の想像ができるっての。
「そうそう、俺にはお前の未来が見えてるんだよ。陰惨で悲惨なお前の未来がな」
「マ、マジかよ……」
普通ならこんな言葉を信じるやつなんて居ないだろうけど、渡はなぜかその言葉を信じたように真剣な表情になっていた。
俺としては渡の言葉を否定するのが面倒で話を合せただけだったんだが……まあいい、ごちゃごちゃと面倒な問答を繰り広げるよりはマシだからな。
それから２人で廊下へ出たあと、渡の歯磨きに対する問題点とそれに起因する訪れるかもしれない悲惨な未来の話をしてやった結果、渡は青ざめた表情で『俺はどうすればいいんだ！？』と泣きついて来た。
どうするもこうするも、それを解消する方法は一つしか思いつかない。それは歯医者さんへ行ってしっかりとした治療とケアをすること。
こうして不本意ではあるものの、放課後に俺は渡と一緒に歯医者さんへと出向くことになった。
そして美月さんが教えてくれた歯医者さんで診てもらった結果、俺の歯には虫歯の１本もなかったが、ちょうど良い機会だから数回ほど通って口腔ケアをしてもらうことにした。そうでもしないと歯の痛みがあると言っていたのに、１回の治療で終わったら絶対に怪しまれるからな。
ちなみにだが、渡はそれなりに虫歯が点在していたらしく、それからしばらくの間は歯医者に通うように言われていた。まあ『歯って２日に１回磨いておけばいいんじゃないのか！？』とか妙なことを言っていたくらいだから、結果としては当たり前過ぎるほどに当たり前の結果と言えるだろう。
幼稚園の時や小学生の時、はたまた親からしっかりと歯磨きについて教えてもらってなかったのだろうかとも思ったが、きっと渡のことだから、まともに相手の話を聞いてなかっただけだろう。せいぜいこれを機会にちゃんとした知識を詰め込んで、秋野さんを悲しませるようなことがないようにしてほしいもんだ。
