幸せ×表情
「あー、今日もかったるかったなあ……」
桜の花も完全に散ってしまった頃の夕暮れ、俺は疲れた吐息を大きく吐き出しながら下駄箱で靴を履き替えて外へと出た。
三年生に進級してからと言うもの、俺はテストと言う名の地獄に毎日のように苦しめられている。まあ苦しんでいるのはどこまでも自分のせいではあるけど、それにしたってテストの回数が多すぎる。
確かに大学受験だったり就職だったりと、三年生には色々あるからこのテストの多さにも納得はいく。
それは分かっているけど、それでもこのテスト地獄には正直まいってしまう。
「龍之介先輩!」
本校舎の校門を抜けて帰路を歩き始めると、すぐに後ろの方から俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おっ、愛紗か。こんな時間まで残ってたのか?」
「はい。教室でシナリオの制作をしてたら結構時間が経ってたんです」
「へえー、愛紗は頑張り屋さんだな」
「そ、そんなことないですよ。私は自分がやることをやってるだけだから……」
そんな風に言うものの、愛紗の表情はなんだか少し嬉しそうにしているように見える。
愛紗はいつも褒め言葉を素直に受け取らないけど、表情だけはこうして素直さを見せるから、そのギャップがとても可愛らしいと思う。
高校で再会した時には色々と怖いところもあったけど、最近ではそんな部分ですら可愛らしく感じるようになったから不思議だ。本当に人の慣れというものには恐れ入る。
「そっかそっか。で、シナリオの進行具合はどうなんだ?」
いつものように素直じゃない愛紗を見ながら、思わず微笑んでしまいそうな表情を引き締めつつ、それを誤魔化すために手ごろな話題をこちらから提供する。
「そうですねえ……ようやく3分の1くらい進んだ感じですかね」
「3分の1か、結構進んでるみたいだな」
「そうなんですか? 他のみんなの進行状況とかが分からないから、自分ではペースが速いのか遅いのかよく分からないんですよね」
「あー、確かに全員が都合良く集まれる機会が少ないから、ちょっとそのへんは分かり辛いよな。まあそのあたりは俺も頑張って把握して、みんなに伝えるようにするからさ」
「はい、よろしくお願いします」
「おう」
任せとけ――と言う気持ちを込めて返事をし、2人で帰路を歩いて行く。
「――あ、あの……先輩、少し時間はありますか?」
部活についての話をしながら歩き、そろそろ駅前に着こうかと言う頃、唐突に愛紗がそんなことを聞いてきた。
「えっ? まあ別に用事があるわけじゃないから大丈夫だけど。どうかしたのか?」
「えっと、あの……もし良かったらですけど、少しお茶していきませんか?」
普段は愛紗からこのような誘いをしてくることはほぼない。そのせいもあるからだろうけど、愛紗は誰が見ても分かると思えるくらいに恥ずかしそうにしていた。
そんな愛紗の姿を見て、思わず微笑ましくなってしまう。
「な、なにを笑ってるんですか!?」
「えっ!? いやいや、別に笑ってなんかないぞ?」
「いいえ! 今絶対にニヤついてました!」
愛紗は拗ねているような怒っているようなと言った感じの表情を浮かべながら、俺のことを鋭い視線で見て口を尖らせている。
確かに思わず表情がニヤついたのは自分でも気がついていた。でも俺はすぐに表情を引き締めたから愛紗には気づかれていないと思っていたけど、どうやらその考えは甘かったようだ。
「そなんことないって、愛紗の見間違いだろう?」
「いいえ、絶対にニヤついてました!」
最初に“笑っていない”と言った以上、今更笑ってましたとは言えない俺は意地でも笑っていないということでこの話しを突き通すつもりだったけれど、愛紗の抵抗が思ったよりも厳しく、そこから約2分ほど不毛なやり取りを続けることになってしまった。
× × × ×
「どう? 美味しい?」
ワクワクバーガーの二階。対面の席に座っている愛紗が新作のハンバーガーを口に含んで咀嚼し、それを飲み込んだのを見計らって声をかけた。
「とっても美味しいです」
その問いかけ対して本当に嬉しそうな表情を浮かべてそう答えた愛紗は、再び手に持ったハンバーガーを口元へと運んでかぶりつく。
ここへ来る前に繰り広げた問答。それを終わらせるためにここへと誘った俺は、多少なり嘘をついた罪悪感からここでのお茶代を奢ろうと決めていた。
愛紗は『それはダメですよ』と奢られるのを断ってきたけど、自らの罪悪感を少しでも晴らすため、俺が少々強引に奢る形に導いたわけだ。
俺の自己満足につき合わせて悪かったとは思うけど、こうして美味しそうに食べてくれている様を見ていると奢った身としては嬉しくなる。
それにしても、愛紗とはこうしてお茶する機会は結構あるけど、本当に美味しそうに、幸せそうに食べるところが好きなんだよな。その様は見ているだけで心がほっこりしてくる。
愛紗が聞いたら怒るかもしれないけど、この感覚は例えるならハムスターなんかの小動物が一生懸命に餌を頬張っているのを見ている感覚と似ている。要するに愛紗の食事風景は俺にとって癒しを感じさせるわけだ。
しかしそんな癒しの姿さえ、俺はじっと見ていることは許されない。
なぜなら愛紗のそんな姿を見ているのに気づかれると、必ず『じっと見ないで下さい!』って怒られるからだ。
確かに食事しているところをじっと見られるのって嫌だとは思うから、俺はまるで臆病な希少動物でも見るかのようにしてチラチラと様子を窺うくらいにしている。
「――もう一年が経ったんですね、先輩と再会してから……」
美味しそうにハンバーガーを食べる様を時折見ながら自分も同じく食事を進め、そろそろハンバーガーの残りも二口くらいまで減った頃、愛紗は突然食べ進める手を止めて呟くようにそんなことを言ってきた。その静かな呟きは、どこか寂しさのようなものを感じさせる。
「そうだな……そういえば、再会した時に初めて来たのがここだったよな。あっ、しかもこの席ってその時と同じ席じゃなかったっけ?」
「先輩、覚えてたんですか!?」
「なんだその、“絶対に覚えてないと思ってました”――みたいな感じの物言いは」
「いやあの……だって先輩、高校で再会した時には私のこと覚えてなかったから……だからきっと、このことも覚えてないんだろうなーって思ってて……ごめんなさい」
焦りのようなものを感じさせながらそう言うと、愛紗はすまなそうに顔を少し俯かせた。
まあ確かに再会当初は愛紗のことを忘れていたからそう思われても仕方ないと思う部分はあるけど、ちゃんと途中で思い出したんだからそこは許してほしいもんだ。
「まあそう言われると反論のしようもないのは事実だけどな。でも、今度はちゃんと覚えてたぜ。あの時の愛紗も今日みたいに美味しそうにハンバーガーを食べてたよな」
「そ、そんなことは覚えてなくていいんです! まったくもう……」
ニヒヒッ――とからかうような笑みを浮かべてそう言うと、愛紗は俺の思っていたような反応を返してきた。こういう分かりやすい部分があることも、愛紗を可愛く思う特徴の一つでもある。
「ははは、わりいわりい。でも、わりと忘れっぽい俺がちゃんと覚えてたのは愛紗と居た時間が楽しかったからだろうけどな」
「えっ? そ、そうなんですか? 別に大したことはしてないと思いますけど……」
「確かに大したことはしてないかもしれないけど、大したことをしてなくても楽しく思えるって、結構凄いことだと思わないか? それってつまり、自然体で楽しい――ってことなんだからさ」
「先輩は私と居るとその……楽しいんですか?」
「ああ、もちろん。特に愛紗となにかを食べながら話すのは好きだね」
「食事をしながらですか? どうしてです?」
なにかを食べながら――と言う部分が引っかかったのか、愛紗はスッと小首を傾げる。
思わず口走ってしまったから説明するしかなくなったけど、まあこの際いいだろう。怒られたら怒られたで仕方ない。
「まあなんて言うか、愛紗って食事をしている時に見せる顔が幸せそうで美味しそうに食べるから、その表情を見るのが好きなんだよ」
ちょっとした言い辛さはあったけど、俺は素直に思っていたことを話した。
「そ、そんなところを見てたんですか? もう、変なところを見ないで下さいよ……」
俺の言葉に再び顔を俯かせる愛紗。
まあ普通に考えれば好きな人にだって自分の食事をしている表情を見られるのは嫌だって人は多いだろうから、愛紗のこの反応は当然と言えば当然だろう。
「わりい、これからは見ないように気をつけるからさ」
「はい……でも、先輩が私の表情を見るのが好きなら、時々なら見てもいいですよ」
「えっ? いいの?」
「ほ、本当に時々ですからねっ! 2秒以上見つめたらダメですよ!」
「2秒!? ちょっと短すぎないか?」
「2秒もあれば十分です! それ以上見つめたらお仕置きします!」
「お仕置き!?」
いったいどんなお仕置きをされるのか想像もつかないけど、ここは素直に了承しておく方が身のためだろう。
「分かったよ。2秒以上は見つめないようにする」
「そ、それならいいです……。それから先輩、今まで私のことを見つめてた罰として、これを奢って下さい」
愛紗はそう言いながら小さなテーブルの上に置かれている限定メニューの“木苺のシェイク”が描かれたチラシを指さす。
「ええっ!? 今までのは無罪なんじゃないのか?」
「とんでもありません。今までのこともしっかりと償ってもらいます」
「やれやれ、愛紗には敵わんな」
「ふふっ」
俺はにこやかに微笑む愛紗を見ながら席から立ち上がり、償いの品である木苺のシェイクを買いに向かった。
そして買って来た木苺のシェイクを愛紗に手渡すと、愛紗はそれを本当に美味しそうにストローで吸い上げる。
「に、2秒だけですからねっ!」
「お、おう」
ストローを口に含んで離してはそんなことを言う愛紗。その度に短く返答を繰り返す俺がなんともシュールに感じる。
けれど愛紗はもしかしたら、俺が好きだと言ったその表情を見せるためにわざと“奢って”なんて言ったのかもしれない。都合のいい考え方かもしれないけど、そう考えるとなんとも愛紗らしい気遣いだと思えてしまう。
そんなことを考えて心の中でニヤつきながら、俺はしばらく愛紗の癒しの表情を見つめていた。




