異変×再び
クリスマスを過ぎてお正月を向かえ、ダラダラと寝正月を過ごせば、あっと言う間に三学期が始まる。
「ふあ~」
まだまだ寒さが緩まらない朝。まるで冷蔵庫のようにひんやりとした部屋で目覚めた俺は、大きな欠伸を出しながらその寒さに身を震わせた。
冬の布団から抜け出るのは、コタツから抜け出るのと同じくらいに辛いけど、それでも布団から出ないと制服に着替えることはできない。
いつまでも布団でぬくぬくとしていたいところだが、俺は覚悟を決めてサッと布団から抜けでた。
「ああー、さむっ!」
部屋の冷たい空気が、布団の中で温まっていた身体の熱を急速に奪っていく。俺は急いで用意していた制服を手に取り、パジャマを脱いで制服へと着替え始める。
ただでさえ部屋の空気が冷たくて辛いと言うのに、制服まで部屋の冷気できんきんに冷えているので、着込んでいくのも相当にキツイ。
それでも気合で制服を着た俺は、そのまま急いで洗面所へと行ってから温かいお湯で顔を洗って台所へと向かう。
「――さーてと、朝食はどうすっかな」
ただでさえ冷たい空気が漂う家の中、開いた冷蔵庫の中からは、これまた冷やりと身震いがしそうな冷気が出てくる。
そんな冷蔵庫の中を見ながら、今日の朝食を作るための材料を取り出していく。
「おっと、忘れるところだった」
朝食を作るための材料を適当に取り出したあと、俺はリビングのエアコンをつけに行った。人類の英知の結晶とも言うべきエアコン。現代生活においては、今や必需品とも言える代物ではないだろうか。
そして部屋がエアコンによって暖まるまでの間、俺はいそいそと朝食作りに勤しんだ――。
「おはよー、お兄ちゃん」
「おう、おはよう」
作った朝食がテーブルに並んだ頃、タイミングよく制服を着た杏子がリビングに来た。
流石に何年も兄妹をやっていると、俺が料理をテーブルに並べ終わる時間もなんとなく分かるのだろう。
まあ俺も杏子が朝食当番の時には、なんとなく料理が並ぶ時間が分かるし、やはり共同生活をしていると、そういった習慣のようなものは自然と熟知するようになってくるもんだ。
「「――いただきます」」
テーブルに並んだ料理を前に、俺と杏子はいつものように両手を合わせてからそう言って食事を始める。
いつもと大して変わらない朝。それは何百――いや、何千回と行われてきた日常。
「今日から新学期だね」
「そうだな」
「お兄ちゃんは進路とかどうするの?」
「進路か、そろそろ決めておかないといけないよなあ……」
朝食時の会話は、だいたい杏子から始まる。そして今日最初に振られた話題は、頭の痛いことに進路の話。
あともう少ししたら、俺は花嵐恋学園の三年生になる。
三年生ともなれば、卒業後の進路について色々と準備を進めたり勉強をしたりと、忙しく動くことになるのが普通だろう。いや、もっとしったかりとしたやつなら、既に二年生の頃にはその準備を進めていたと思う。
しかし俺にはなにをしたいとか、どんな職業につきたいとか、そんな漠然としたものすら思い浮かばない。
なんとなく小さな頃から、俺はこんな緩やかな日常が続いて行くんじゃないかと思うことがあった。
いつまでも学生という日々が続いて、そこで茜やまひろや、他の出会った人たちとずっと楽しく過ごしていく――もちろんそんなことは現実にできるわけがないけど、それでも俺は、なんとなくこんな日々が続いて行くんじゃないかと思っていた。
単純に言えば現実逃避と言うのかもしれないけど、自分が歳をとってどうなるかなんて想像もできないし、想像したくもないと思ったりもする。
でも現実は、非常にも光の速さのごとく過ぎ去って行く。いつまでもそのままではいられない。俺もこれから先の現実を、しっかりと考えなくてはいけないのだ。
「やりたいこととかはないの?」
「恥ずかしながら、これっぽっちも思い浮かばんな」
兄であると同時に、同じ高校の先輩でもある俺がこんなことを言うのはどうかと思うが、事実なにも思い浮かばないのだから仕方がない。
「そうなんだ。でも、そう簡単に将来やりたいことは決まらないよね。うん、もう少しゆっくり考えてもいいと思うよ」
「おう、そうするわ」
本当なら、『えー!? 本当になにも思いつかないの!?』――なんてことを言われても仕方がないところだが、杏子は頼りない発言をした兄に対し、にこやかな笑顔を見せながらそう言った。
まだまだ甘えん坊なところがある妹だけど、こういったところは非常に大人で助かる。ホント、できた妹だと思うよ。
それから妹との朝食タイムをいつもどおりに過ごして食器の片づけを済ませたあと、俺は杏子と一緒に花嵐恋学園へと通学した。
× × × ×
「おはようございます。鳴沢くん」
「あっ、おはよう秋野さん」
「少しお時間いいですか?」
「えっ? うん、いいけど」
学園に着いてから教室に入ったあと、俺が席に座ったのを見計らったようにして、クラスメイトの秋野鈴音さんがそう声をかけてきた。相変らず黒のおさげ髪と黒縁眼鏡が、彼女の物静かな雰囲気を強めている。
渡の幼馴染である秋野さんとは、二年生になってからこうしてたまに話すようになった。
失礼な話だとは思うが、秋野さんは物静かな人で、一年生の時も同じクラスだったというのに、俺はその存在を一年生の文化祭になるまでまともに認識していなかったのだ。
しかし秋野さんが占いが得意だということが知れてからというもの、彼女の周りには占いをしてもらおうとする人たちがよく来るようになっていた。
俺も以前にちょっとした機会があって占いをしてもらったことがあったが、彼女が得意とする“鈴占い”は噂どおりに的中した。それはもう、占いと言うよりは“未来予知”とも言えるような感じで。
そんな秋野さんに促され、俺は廊下の方へと一緒に歩いて行く――。
「こんなところまですみません。実は涼風くんのことでちょっと気になることがあって……」
特別教室などがある校舎の五階部分。ここは移動教室でもない限りは、誰も来ることはない。そんな静かな五階フロアまでついて来た俺に、秋野さんはそんなことを言ってきた。
「まひろのこと? どうしたの?」
最初こそ秋野さんの幼馴染で想い人である渡のことで相談でもあるのかなと思っていた俺は、意外な人物の名前が秋野さんの口から出たことに驚いた。
「実は今朝の通学時のことなんですけど、通学路の途中にある公園のベンチで涼風くんの姿を見かけたんです――」
秋野さんはやや神妙な面持ちで話を始める。それを見た俺は、なにやらいい知れない不安のようなものを感じながら耳を傾けた。
「――その時なんですが、なんだか思い詰めているような表情をしてベンチに座っていたので、とても気になっていたんです。鳴沢くんは、なにか聞いたりしていませんか?」
「いや、特になにも聞いてはいないけど……」
まひろはあれで結構悩み症なところがある。根が真面目だからかもしれないけど、本当に些細なことで悩むんだ。
まあ悩みなんて第三者からすれば大したことはなくても、当の本人にはとても重大なものだったりするから、一概に“そんなこと”――なんて言えはしないけどな。
「そうですか。私の取り越し苦労だったらいいんですけど……変なことを尋ねてすみません」
「ううん、そんなことないよ。アイツは昔っから独りで色々と抱え込んで無理するところがあるから、そういうのを知れて良かったよ。とりあえず、それとなくまひろの様子は気にかけておくよ。ありがとね、秋野さん」
「いえ、どういたしまして」
俺の言葉に少し照れくさそうに微笑む秋野さん。
彼女はこうして、クラスメイトのことをいつも気にかけているのだろう。本当に渡には勿体ないと思えるくらいの女性だ。
たくっ……渡もいい加減、秋野さんの想いに気づいてやれよな。高校で知り合ったとかならともかく、一応幼馴染なんだし、それくらいのことは気づいてやれるだろうに。まったく、渡ってあれで結構鈍感なやつなんだな。
「それじゃあ、教室に戻ろうか」
「はい」
悪友の鈍感さに苦笑いを浮かべつつ、秋野さんにそう言ってから踵を返して階段を下り始める。
「――あ、そう言えばもう一つ聞きたかったのですが、涼風くんは目が悪いんですか?」
階段を下りて行く途中、後ろから秋野さんがそんなことを質問してきた。
俺はその声に足を止め、後ろに居る秋野さんの方へと振り返る。
「いや、まひろは小学校の頃から視力は良かったよ?」
「そうですか」
「うん。それがどうかしたの?」
「いえ、以前に一度だけ、涼風さんがコンタクトのようなものをつけようとしているのを見たことがあったので、もしそうだったら、コンタクトってどんな感じなのかを窺ってみようかと思ってたんです」
「あー、なるほど。てことは秋野さん、コンタクトに変えようと思ってるの?」
「あの……ちょっと怖いですけど、興味はあるんです」
照れくさそうにそう話す秋野さんを見ていると、なんとなくそれが渡を振り向かせるためなのかな――などと思ってしまう。
「そっか。じゃあ、今日にでも妹に聞いてみるよ。俺の妹は眼鏡とコンタクトを使い分けてるから」
「そうなんですか? ありがとうございます」
俺の言葉を聞いて、にこにこと笑顔で嬉しそうにお礼を言う秋野さん。
そういえば、秋野さんが眼鏡を外したり、おさげ髪を解いたりしたのを見たことはないけど、いったいどんな感じになるのか大いに興味がある。
しかしそれにしても、まひろのやつはいったいどうしたんだろうか。なにか悩みがあるなら相談してくれればいいんだが……。
真面目で遠慮深く、それでいて友達のことをなによりも大切にする親友のことを心配しつつ、俺は秋野さんと教室へ戻った。




