80話
手配された船は、それほど大きくはないものの、清潔でしっかりとした造りの小型遊覧船だった。
船長らしき男性が波止場で待っており、ユートたちの姿を見ると笑顔で迎えてくれた。
「お待ちしておりました! 本日は私の船で、海の旅を満喫してください!」
いよいよ乗船だ。
ユートは慣れた足取りで乗り込むが、リリア、リナ、そしてユージーンは、船が揺れることに少し戸惑っているようで、恐る恐る足を船の上に踏み出した。
「ゆ、揺れますね…!」
リリアは手すりをしっかり掴み、おそるおそるといった様子だ。リナも同じようにぎこちない足取りだ。
ユージーンは陸地に足がついていない感覚に、明らかに不安を感じているようだった。
「ご心配なく、港の中は波も穏やかですから」
船長が声をかける。
セーラやバルカス、エルザ、レナータといった面々は、何度か船旅の経験があるようで、落ち着いた足取りで乗り込んでいく。特に護衛の三人は、揺れる甲板の上でも安定した体勢を保っている。
船が港を離れ、沖へ向かい始めると、最初こそ緊張していたリリアとリナも、すぐにその新鮮な体験に夢中になった。潮風が髪をなびかせ、陸地が遠ざかっていく様子を、目を輝かせながら見つめている。
「見てください、リリア様! 街があんなに小さく見えますわ!」
リナが遠ざかる街並みを指差した。
「本当! 海の上って、不思議な感じですわ!」
リリアは船縁に近づき、海面に映る自身の姿を見ている。
二人はすぐに船旅を満喫し始めたが、ユージーンはというと、どうも顔色が優れない。
「あの…船の上というのは…このように、体が揺れるものなのでしょうか…」
ユージーンは胃のあたりを押さえながら、顔を青くしていた。
「船酔いだな、ユージーン。慣れてないんだ」
バルカスが肩を叩いて慰める。
「あまり下を見ないで、遠くの水平線を見ると少し楽になるぞ」
エルザがアドバイスを送る。
「はい…ありがとうございます…」
ユージーンは懸命に視線を遠くに向けようとするが、なかなか辛そうだ。結局、彼は船室に横になって休憩することになった。海の上という珍しい体験も、彼にとっては船酔いという形で洗礼を受けることになってしまった。
船は沿岸部をゆっくりと進み始めた。陸地からは見ることのできない断崖絶壁や、小さな入り江、海蝕洞など、様々な景観が次々と現れる。海の青と陸地の緑や茶色とのコントラスト、打ち寄せる波が作り出す白い泡。見慣れない景色に、皆が魅入られた。
「美しい…」
レナータがぽつりと漏らした。いつも寡黙な彼女にしては珍しい。
バルカスも「普段の街道からの景色とはまるで違いますな」と感心している。エルザは景色の美しさとともに、船から見る陸地の地形が役立つ情報にならないか、と職業柄の視点でも眺めているようだった。
リリアとリナは写真を撮るかのように、懸命にその景色を目に焼き付けようとしていた。セーラはユートの傍らで、静かにその景色を堪能している。ユートはインベントリの容量を思いながら、目についた珍しい海中の植物や、岩礁に付着した生き物などを鑑定眼でチェックした。
景色を十分に楽しんだ後、船長が釣りのポイントに案内してくれた。船はゆっくりと錨を下ろし、揺れが穏やかになる。
ユートは船長から釣具と餌を受け取った。餌は、見るからに生々しい魚の切り身だった。ユートは問題なく餌を針にセットしたが、釣りをするのは初めてだというリリアとリナ、そしてセーラは、餌をつけることに少し戸惑っていた。
「うっ…なんだか、ぬるぬるしています…」
リリアが餌を掴んで、顔をしかめる。
「セーラさんも、餌をつけるの初めてでしたか?」
ユートが声をかけると、セーラは苦笑いしながら頷いた。
「ええ、このような機会がなかったもので…なんだか、躊躇ってしまいますね」
そこへ、エルザがスッと近づいてきた。
「お任せください。餌付けなら得意です」
そう言うと、彼女は手早く針に餌をつけていく。手慣れた様子だ。
「エルザさん、お上手なんですね!」
リリアが驚いた声を上げた。
「弟たちとよく釣りをしていたので。彼らは生き餌も平気で扱いますから、これくらいは…」
エルザは淡々と答えた。彼女の弟たちは護衛部の中でも特にタフな方だ。
エルザの手助けもあり、皆無事に釣りの準備ができた。海に仕掛けを投げ入れ、魚がかかるのを待つ。
海の上での釣りは、陸での釣りとはまた違った面白さがある。
程なくして、最初の魚がかかった。
リリアが釣り竿を上げてみると、手のひらサイズの可愛らしい魚だった。皆から歓声が上がる。続いて、セーラやリナも魚を釣り上げ、船上は賑やかになった。バルカスやレナータも無言で釣りに興じている。ユージーンは船室で休んでいたが、皆の賑やかな声に少し顔を出してみたりしていた。ユートも鑑定眼で釣れる魚の種類や生態を観察しながら、釣りを満喫した。
一時間ほど釣りを楽しんだ後、船長が提案してくれた。
「どうです、釣ったばかりの魚を、船の上で焼いて食べてみますか? 道具は揃ってますよ」
皆はそれに大賛成し、船のデッキで簡易的なバーベキューの準備が始まった。自分たちで釣った魚を、その場で焼いて食べる。これはまたとない贅沢だ。
こんがりと焼きあがった魚は、身がふっくらとしており、新鮮さがダイレクトに伝わってくる。宿や市場で食べた魚も美味しかったが、自分たちで釣り、その場で調理して食べる魚は、また格別だった。
「美味しい! こんなに美味しい魚、初めて食べました!」
リリアが目を輝かせて言う。
「本当ですね。海の上の空気も調味料になるようですわ」
セーラも幸せそうな顔で魚を食べる。
ユージーンも、船酔いが少し治まったのか、恐る恐る焼き魚を食べてみた。すると、これは昨夜の蛸と違い、素直に美味しいと感じたようだ。
「これは…美味しい、ですな」
皆で釣った魚を平らげ、心地よい満腹感と満足感に包まれる。海の上で食事をするという非日常的な体験は、皆の心を浮き立たせた。
食事が終わると、船長はゆっくりと港へ向けて船を進め始めた。皆は再び船縁に寄りかかり、変わっていく沿岸の景色を眺める。午後の陽の光が海面をキラキラと輝かせている。
穏やかな波に揺られながら、今日の出来事を振り返る。初めての海、船旅、釣り、そして新鮮な魚料理。どれもこれも、特別で楽しい体験だった。
船が港に戻り、波止場に横付けされたのは、午後3時頃を過ぎた頃だった。約半日ほどの船旅を終え、陸地に足を着ける。まだ少し船の揺れが残っているような感覚がしたが、それもまた心地よい。
皆の顔には、海での体験を満喫したことによる、心地よい疲れと、何よりも高揚感が満ち溢れていた。リリアとリナは別れ際に船長に満面の笑みで感謝を述べた。ユージーンは船酔いで多少ぐったりしているが、それでもどこか満ち足りた表情をしていた。
ユートもまた、今回の船旅が成功だったことに満足していた。皆が喜んでくれたこと、そして自身も少しだけ港の情報を得られたこと。短い時間だったが、海を満喫できた素晴らしい体験だった。
「さあ、宿に戻って少し休みましょうか」
ユートが皆に声をかけると、皆は弾んだ声で応え、『走る三毛猫荘』へと足を向けた。
ポートベストルでの贅沢な午後が、ゆっくりと過ぎていこうとしていた。




