35話前編
アルテナを出発した一行は、セーラの操る馬車に揺られ、まず一番近い村を目指した。
賑やかな街の喧騒を後にし、街道を外れると、視界には広大な畑が広がってきた。黄金色の麦畑が風に波打ち、緑豊かな野菜畑がパッチワークのように続いている。
「まあ、麦が綺麗に色づいていますね。今年の収穫も期待できそうですわ」
御者台に座るセーラが、隣に座るレナータに穏やかに話しかけた。
「ええ。この辺りは土地が肥えていますから。アルテナの重要な食糧庫です」レナータは周囲を警戒しつつも、冷静に答える。
後方の荷台近くを歩いていたユートも、その広大な景色に目を奪われていた。
「すごい、見渡す限り畑ですね……。なんだか、空気が美味しい気がします」
「都会の喧騒を離れると、心が安らぎますな」隣を歩くバルカスが頷く。「しかし、油断は禁物ですが。こういう開けた場所でも、油断していると……」
「ああ、たまに畑を荒らす小鬼が出ることもあるからな。農民たちも苦労しているのさ」ドランがバルカスの言葉を引き継いだ。
「ゴブリンが……こんなのどかな場所にも出るんですね……」ユートは少し表情を曇らせた。
「ええ。だからこそ、私たち商会の安定した取引が、村の方々の生活の助けにもなっているのです」セーラが振り返り、穏やかながらも誇りを持って言った。
そんな会話をしながら、一行は田園風景の中を進んでいく。道中は特に問題なく、昼前には目的の1つ目の村にたどり着いた。
早速、村長の家を訪ね、事情を説明し、『清心草』の買い付けを申し出る。しかし、村長の答えは短く、残念なものだった。「『清心草』ですかい? あいにく、つい先日、他の商会が買い占めていってしまって、在庫は全くありまへん」
期待外れの返答に肩を落としつつも、一行はすぐに気持ちを切り替え、次の村へと向かった。
昼過ぎに到着した2つ目の村でも、状況は全く同じだった。「申し訳ないねぇ。うちも、昨日別の商会に全部持ってかれちまってね」
ここでも在庫は無し。メンバーの間に、明らかに不穏な空気が漂い始める。
「特定の商会による意図的な買い占め、と見て間違いないでしょう」レナータが厳しい表情で分析する。
「このまま進んでも、同じ結果かもしれませんね……」ドランが不安げに呟く。
「……ですが、商会からの大事な仕事です。諦めるわけにはいきません。3つ目の村へ行きましょう。何か手がかりがあるかもしれません」
ユートの決意に、皆頷き、重い空気の中、馬車は再び走り出した。
夕方近く、3つ目の村に到着した。ここは前の二つの村より少し大きく、広場には他の旅人や商人の姿もちらほら見える。薬草組合を訪ねる前に、広場の隅に停まっている小さな幌馬車に気づいた。馬車は一台だけで、手入れはされているが、ハーネット商会のものほど立派ではない。馬車のそばには、年の頃は三十代ほどの快活そうな女性と、彼女を護衛する、寡黙そうな壮年の男性が一人、荷物の整理をしているところだった。
ユートたちが近づくと、二人はこちらに気づき、一瞬、警戒するような表情を見せた。特に護衛の男性は、鋭い視線でバルカスとドラン、レナータの装備を確認している。こちらも、もしかしたら例の買い占め商会かもしれないという疑念が頭をよぎり、自然と身構えてしまう。
バルカスとドランは、いつでも動けるように腰の剣に手をかけ、レナータは冷静に相手の動きを観察している。セーラはユートの後ろに下がり、不安そうな顔を見せた。
「あらあら、これは立派な護衛の方々。どちらか大きな商会の方とお見受けしますが……何かお探し物で?」
沈黙を破ったのは、女性の方だった。
その声は明るいが、探るような視線でユートたちの服装や馬車を値踏みしている。
「……我々は、アルテナのハーネット商会の者です」
ユートは、少しぎこちなく名乗った。相手の雰囲気に、どう対応すればいいか戸惑う。
「この辺りで、『清心草』という薬草を探しているのですが……何かご存知ありませんか?」
「ハーネット商会! まあ、これはこれは! アルテナでも指折りの大店の方々でしたか。失礼いたしました」
女性は少し大げさに驚いて見せ、親しげな笑顔を向けた。「『清心草』ですか? 私たちも薬草の仕入れで回っているんですよ。ただ、私たちは『月見草』っていう、別の薬草を探していてね。あらあら、『清心草』、もしかして他の村でも手に入らなかったとか? 最近、妙な買い占めの噂も耳にしますし……」
彼女は心配そうな顔をしながらも、遠回しにこちらの状況を探ろうとしてくる。
「ええ、実は……先の二つの村では、まさにその買い占めに遭ってしまったようでして」
ユートが正直に答えると、女性は「まあ、それはお気の毒に!」と声を上げた。「私たちも、『月見草』はなんとか手に入ったんですが……。私たちは『陽だまり商会』。こんな小さな行商ですけど、顔だけは繋いでおいて損はないと思いますよ? 私はリーナ、こっちのむっつり顔は護衛のボルグ。以後お見知り置きを」
リーナと名乗った女性は、人懐っこい笑顔の裏に、抜け目のない商人の顔を覗かせる。
ボルグと呼ばれた護衛は、軽く会釈しただけだったが、その存在感は無視できない。
どうやら、彼らが買い占め犯ではないと分かり、ユートたちも緊張を解いた。
「陽だまり商会さん、ですか。はじめまして」
ぎこちないながらも挨拶を交わし、リーナの「せっかくですから、少し情報交換でもしませんか? こちらも、ハーネット商会さんのような大きな方のお話は、大変参考になりますので」という、やや下心が見える提案に乗り、近くの焚き火跡を借りて腰を下ろした。
「それで、『清心草』の買い占めですか……」リーナは改めて首を傾げたが、その目は値踏みするようにユートたちを見ていた。「一体、どこのどなたが、そんなことをしているんでしょうねぇ? あの薬草、そんなに大量に使うなんて……。ハーネット商会さんほどの規模なら、何か特別な用途でもおありで? 差し支えなければ、今後の参考にでもお聞かせ願えませんか?」
彼女はあくまで低姿勢を装いながら、遠回しにこちらの目的を探ってくる。
「いえ、我々も急な注文でして……」セーラが慎重に言葉を濁す。
「ふーん……」リーナは少し残念そうな顔を見せたが、すぐに切り替えた。「心当たりは、正直ないですねぇ。ただ、最近、王都の方で貴族の間で新しい香が流行ってるって噂は聞きましたよ。ものすごく高価なんだとか。それの材料にでも使うのかしら……? まあ、ただの噂ですけど。皆さんのように腕利きの護衛を何人もつけていらっしゃるくらいですから、よほど重要な品物なのでしょうねぇ」
彼女は感心したように言いながら、ユートたちの護衛の質や人数から、任務の重要度を推し量ろうとしている。
「リーナさんたちは、この後どちらへ?」ユートが話題を変えようと尋ねると、
「私たちは、この村で『月見草』を仕入れたら、南の方へ向かう予定なんです。シルヴァンの街に寄って、鉱石を買い付けようと思いまして。最近、良質な鉄鉱石の相場が上がっていると聞きましたし、皆さんのように大きな商会は、そういう情報にもお詳しいのでは?」とリーナは、またしても遠回しに情報を引き出そうとしながら答えた。
その言葉に、ユートは情報を引き出されるのかとハッとした。
シルヴァンの状況を教えるべきか迷ったが、ここで情報を与えることで、今後の関係に繋がるかもしれない、と判断した。
「シルヴァンへ? あの……リーナさん、もしかしてご存知ないかもしれませんが、シルヴァンの鉱山は、数日前にゴブリンの襲撃があって、今は閉鎖されているそうですよ」
「ええっ!? 本当ですか!?」
リーナは目を丸くして驚いた。これは演技ではなさそうだ。「それは大変! 全然知りませんでした……。困ったわ、南へ行く主な目的が鉱石の買い付けだったのに……」
彼女は一瞬困り果てた様子を見せたが、すぐに計算高い表情に変わった。
「……なるほどねぇ。ゴブリン襲撃ですか。それで、街の様子は? ハーネット商会さんの支店もあるでしょう? 被害は? 取引への影響は?」
彼女はすかさずビジネスチャンス、あるいはリスクに関する情報を求めてきた。
「ハーネット商会の支店も襲撃されましたが、なんとか撃退しました。街全体でも被害は出ているようですし、鉱山休止の影響は大きいかと」ユートは簡潔に、しかし重要な情報を与えた。
「そうですか……」リーナは腕を組み、素早く考えを巡らせているようだった。「それなら、南へ行くのは見合わせた方が良さそうね……」
「一度アルテナの街へ行ってみるのはどうでしょう?」セーラが提案した。「アルテナなら、様々な品物が集まりますし、情報も得やすいかと」
「アルテナ……ハーネット商会さんの本拠地ですね」リーナの目がキラリと光った。「なるほど、それは良い考えかもしれないわ。もしかしたら、ハーネット商会さんにご挨拶もできるかもしれないし……。ボルグ、どう思う?」
リーナに問われ、ボルグは静かに頷いた。
「……そうね。決めたわ! 私たちも、一度アルテナへ行ってみます! 貴重な情報をありがとう、ハーネット商会さん。このお礼は、いずれ必ず。アルテナでお会いできた際には、ぜひ」
リーナは強かな笑顔で言った。アルテナへ行くことで、ハーネット商会との繋がりを作り、新たな商機を探ろうという意図が見え隠れしていた。




