99話
応接室の扉が開いた。
暗くて顔は見えないが、確かに人がいる。
扉の隙間から差し込む僅かな光が、人影をぼんやりと浮かび上がらせているだけだ。
誰が来たのかはわからない。
例の情報屋だろうか。
張り詰めた沈黙が続く。
どれほどの時間が経ったのだろうか。
五分か、それとも十分か。最初は張り詰めていたユートの心も、その長い沈黙の間に、奇妙なほど冷静になり、わずかに余裕が生まれてきた。
呼吸が整い、周囲を認識する感覚が研ぎ澄まされていく。
そして、沈黙の中、ユートは気づいた。
突き刺さるような、複数の視線。
部屋の中だけではない。廊下、あるいは屋外。屋敷の中か、自分たち以外の気配が隠れているが場所まではわからない。
休んでいる皆やユージーン以外で、ハーネット商会の人間でない気配だ。
これは、警戒か、あるいはデモンストレーションか。
時間は静かに流れていく。
窓から差し込む月明かりが、徐々に部屋の中へ差し込み、扉の方を照らし始めた。
暗闇に溶け込んでいた人影が、ゆっくりとその姿を現し始めた。
暗褐色の、どこか動きやすさを重視した革鎧を纏った人物だ。目元だけが切り取られた仮面を被っており、その表情、素顔は一切分からない。昨夜酒場で見かけた店員に比べると、もう少し体格が良いように見える。男性だろうか。
仮面の人物はユートとユージーンを見据えたまま、一歩、また一歩と部屋の中へ入ってきた。音を立てない滑らかな動きは、訓練された人間のものだ。
ユートは声を発することなく、仮面の人物に向かいのソファを指差した。座るように促すジェスチャーだ。
仮面の人物はユートのジェスチャーを受け入れたようだ。
ゆっくりとした、しかし全く隙のない滑らかな動きで、ソファへと近づき、腰を下ろした。
その動きには、熟練の冒険者や護衛とはまた違う、秘密裏に活動することに特化したようなプロフェッショナルの気配を感じた。
ユートは静かに息を吐き、自己紹介をした。
「ようこそ。私は、ハーネット商会の特別調査部部長、ユートと申します」
ユートは所属と役職を名乗り、彼が何者であるかを簡潔に伝えた。
すると、仮面の人物は低い声で、そしてどこか警戒を解かないトーンで名を名乗った。
「…私はハガマ。そして我々は、『レーアン』という名で、情報収集を生業としている」
ハガマ。『レーアン』。
やはり、昨夜あの男が話していた、小規模だが能力の高い情報屋の一団なのだろう。
ユートは、本題に入る前に、別のことに言及した。
「ハガマ殿。ご自身の素性を明かさないのは理解できます。しかし、一つお願いしたいのですが…この突き刺さるような視線を、どうにかしていただきたい。落ち着いて話ができませんので」
ユートの言葉に、ハガマは僅かに驚いた様子を見せたようだ。仮面で表情は分からないが、そのわずかな間の動きからそう感じられた。自分が複数の気配に囲まれていることに、相手はすぐに気づいた。
しかも、それを直接指摘してくる。単なる商人ではない、とハガマは改めてユートを評価したのかもしれない。
ハガマは短く声を出した。その声は、静寂な応接室に響いた。特定の誰かに呼びかけているようにも聞こえるが、音を発さない誰かに向けているようにも聞こえる。
すると、部屋の入り口付近の闇や、窓の傍らに隠れていた人影が姿を現した。
二人。ハガマと同じような暗褐色の革鎧を纏い、仮面をつけている。彼らも一切物音を立てずに移動していた。
「…こちらは私の部下だ。スイと、ハン」
ハガマは二人の人物を簡単に紹介した。
紹介された二人も、ただ静かに部屋の片隅に立つだけだ。やはり訓練されている。
「部下は他にもいるが、今日はこの二人のみ連れてきた」
ハガマは言った。なるほど、彼らはハガマの部下として周囲に配置されて護衛も兼ねていたのかもしれない。
そして、ユートがそれに気づくかどうか、探っていたのだろう。
ユートは頷き、改めてハガマに向き合った。これで邪魔は入らないだろう。本題に入る時だ。
「私があなた方、レーアンに依頼したいのは…情報収集、そして、その情報の提供だ。特定の人物や組織、流通経路、または様々な場所で隠されている秘密…情報を、私の代わりに集めてほしい」
ユートは続けた。そして、今回の依頼は、一時的なものではなく、恒久的な関係を築きたいという意思を伝えた。
「それに加え、単発の依頼ではなく、私個人に、無期限で協力していただけないか。情報屋としての活動は続けていただいて構わない。ただ、優先的に私からの依頼を受けてもらい、収集した情報を提供してもらいたい」
それは、レーアンという情報屋集団を、事実上、自身の個人的な部下、あるいは契約情報提供組織として抱えたいという、非常に踏み込んだ申し出だった。彼らにとっても、恒久的な依頼は魅力的だろう。活動資金の安定が見込める。
ハガマはユートの言葉を聞き、仮面の奥の瞳を細めたように見えた。しばらくの沈黙の後、ハガマは答えた。
「…無期限での協力…それは、情報収集を生業とする我々にとって、大変魅力的で、嬉しいお申し出だ」
ユートはハガマの反応に、交渉の糸口を見出したが、ハガマの次の言葉は、その申し出を受けることが難しいというものだった。
「しかし…大変申し上げにくいのだが、現状、そのお申し出に、応えるのは…難しい状況だ」
ユートは少し驚いた。なぜだ?恒久的な依頼というのは、情報屋にとっては喉から手が出るほど欲しいはずだ。
それに、ほぼ専属になって欲しいとの申し出だ、後ろ盾になってくれることも確定のはずなのに。
「…差し支えなければ、理由を聞かせてもらえませんか?」
ユートは尋ねた。金銭的な条件でなければ、一体何が彼らを躊躇させているのか。
ハガマは少しだけ言葉を詰まらせてから、正直に理由を語った。
「…ここ最近、いくつか運が悪く重なってしまった。部下の怪我や病気が相次ぎ、活動に必要な物資も不足気味だ。拠点としている場所も、一時的に活動が難しくなってしまい…正直、今は新たな依頼を受けるどころではない状況で…」
怪我、病気、物資不足。そして拠点の使用不可。複数の不運が重なり、彼らは活動が停止寸前の状態に陥っているらしい。これでは、新たな大きな契約を結ぶ余裕などないだろう。
ユートはその話を聞き、状況を理解した。彼らが困っているのなら、自分に何かできることがあるかもしれない。
そして、困っている人を助けることこそが、ユートの信念であり、精霊神が自分に求めたことだ。
話を進めるうちに、当初の「雇う、雇われる」という交渉の枠組みから、ユートの意識は「助ける」という方向へとシフトしていった。彼らが置かれている困難な状況を聞き、ユートの世話焼きの虫が疼き始めたのだ。
そして、もし彼らを助けることができれば、その信頼関係を基に、協力関係を築くこともできるかもしれない。
「…なるほど。そういう状況でしたか」
ユートは静かに言った。そして、立ち上がった。
ハガマや、部屋の隅に控える部下たちは、ユートの突然の行動に少し警戒を強めた。
「ハガマ殿。話は分かりました。私があなた方を助けましょう」
ユートは交渉を一時中断し、彼らを支援する意向を明確に示した。
「一体…何を…?」
ハガマは仮面の奥から、訝しむような声を漏らした。
「困っているあなた方を、放っておくことはできません。そして、あなた方が私に協力してくれる力を持っているのであれば、なおさらだ」
ユートはまっすぐにハガマを見つめ、提案した。
「アジトはどこにあるのですか?詳しい状況を見せてください。私に何か、お手伝いできることがあるかもしれません」
雇う、雇われるという関係を超えた、突然の支援の申し出に、ハガマやその部下たちは明らかに戸惑い、そして警戒しているようだった。
彼らは情報屋だ。人の親切心には慣れていない。そこに裏があるのではないかと疑うのが、彼らの本能だろう。
しかし、ユートの目には、何の計算も、見返りを求める様子もなかった。
ただ純粋に、困っている人を助けたいという、彼のこちらに来る前から変わらない優しさが宿っていた。
静かな応接室に、再び沈黙が訪れる。
警戒と戸惑い、そして微かな困惑が交錯する空気の中、ユートはハガマからの返答を待っていた。
自分たちの力を示す代わりに、彼らのアジトへ赴き、困っている状況をこの目で見て、可能であればその困難を取り除く手助けをしよう。
そうすることで、信頼関係を築き、彼らを「ホーム」へと迎え入れる、第一歩となるかもしれない。




