97話
休暇に入って数日経った、ある日の夜のことだった。ユートは執務室で静かに本を読んでいたユージーンに声をかけた。
「ユージーン。今日の夜、何か予定はあるか?」
ユージーンは読んでいた本から顔を上げ、少し考える素振りを見せた後、首を横に振った。
「いいえ、特に何も…ございませんが、ユート様?」
「そうか。じゃあ、これから少し出かけないか?」
ユージーンはユートの誘いに、少し意外そうな顔をしたが、すぐに「承知いたしました」と答えた。
どこへ行くのだろうか、という疑問がその表情には浮かんでいる。
「…と、その前に。着替えてきてくれ。私服の方が都合が良いから」
ユートは付け加えた。
ユージーンは言われた通りに、部屋に戻って私服へと着替えた。普段の質素な服装だが、清潔感がある。ユートも普段の制服から、以前制作部に仕立ててもらった、少し洒落た私服に着替えた。
二人は夜のアルテナの街へ繰り出した。目指すは、普段立ち入ることのないような場所だ。
表通りの賑やかな酒場や商店街ではなく、一歩裏通りに入った、人通りの少ない、寂れた一画にある酒場へと足を踏み入れた。
扉を開けると、そこは表通りの華やかさとは無縁の世界だった。
煤けた壁、古びたテーブル、そして客たちの視線。
彼らは、似つかわしくない服装のユートとユージーンの姿を怪訝そうに眺めている。見慣れぬ異分子に対する警戒感が肌で感じられる。
ユートは気にした風もなく、ユージーンを促してカウンターへと向かった。並んで席に着くと、ユージーンは少し落ち着かない様子で周囲を見回している。
カウンターの中に立つのは、腕っ節が強そうな大柄な男だ。この酒場のマスターだろう。
ユートは懐から金貨を数枚取り出し、指先で遊びながらマスターに声をかけた。マスターは金貨のきらめきに、警戒しながらもユートに視線を向ける。
この酒場で金貨を気軽に扱う客は珍しいのだろう。自分たちがある程度の地位や余裕がある人間であることを、さりげなく示すための行動だった。
「すまない。酒を三つもらえるか」
ユートはグラスの代わりに、ジョッキで三人分の酒を注文した。
マスターはユートのただならぬ雰囲気に気づいたのか、無言で酒を用意し始めた。
酒が運ばれてくると、ユートは改めてマスターに尋ねた。
「マスター、この街で、顔が広い人や、色々な噂に詳しい人を探しているんだが…心当たりはないか?」
ユートはそう言いながら、手元の金貨から1枚渡しマスターに多めの料金を支払った。明確な用件ではないが、礼金としては十分すぎる額だ。
マスターはユートから受け取った金貨を懐にしまいながら、ユートとユージーン、そしてカウンターの他の客に視線を向けた後、店の奥のテーブルで一人、黙って酒を飲んでいる男に顎で示した。
「あそこにいるやつなら、少しは知ってるかもしれねえな」
ユートはマスターに礼を言い、自身のジョッキを飲み干し席を立った。紹介された男は、小柄で痩せており、どこか神経質そうな顔をしていて、人を見抜くような鋭い目つきをしていた。
ユートがその男に近づきテーブルにジョッキを置きながら軽く声をかける。
「失礼。少しお話よろしいか?」
男は怪訝そうな顔でユートを見た。
突然現れた見慣れない男の言葉に警戒心を剥き出しにしている。ユートはそんな男の目の前で、ジョッキの中に、金貨を一枚落とした。チャリンと音が響き、ジョッキの底に沈む金貨。さらにその上に、銀貨を数枚投げ入れた。
金貨と銀貨のきらめきに、男の目が少し変わる。金を惜しまない客だと理解したのだろう。ユートは男の前に椅子を引いて腰掛けた。
「あんた、この街で噂話に通じていると聞いたんだが…いくつか、聞きたいことがある」
ユートは本題に入った。この街の情報屋たちのこと、そして、大手の情報屋に渡りをつけることができるかなど、情報収集のネットワークに関することを中心に尋ねた。
男はユートの質問に対し、最初にジョッキに入れた金と銀の対価として、得た情報を話し始めた。街の小さな情報屋のこと、それぞれの得意分野、どこへ行けばどんな情報が手に入るかなど、知っている限りの情報を教えてくれた。その中には、アルテナを拠点に活動している、規模は小さいが、個々の能力が高いと噂される情報屋の一団の話も含まれていた。
「なるほど…その一団に、会うことは可能か?」
ユートは男に尋ねた。
男はユートの質問に、少し躊躇った様子を見せた。その一団は簡単には会えない存在なのだろう。そして、情報屋としての勘が働いた。この情報を提供すれば、さらに金になる。
「…会えるかどうかは、向こう次第だがな…」
男は言いながら、手のひらを開いてユートに見せた。追加の対価を要求しているのだ。
ユートは男の意図を汲み取り、再び懐から金貨を取り出すと、惜しげもなく数枚を男の手に置いた。
金貨を確かめた男は、満足げに頷いた。
「明日の…そうだ、同じ時間に、またここに顔を出してみな。会えるかどうか、返事を持ってくるように頼んでおいてやる」
「分かった。頼む」
ユートは男に礼を言い、ユージーンと共に酒場を後にした。
寂れた裏通りを、二人は並んで歩く。街灯の明かりもまばらで、薄暗い。
しばらく歩いた後、ユージーンが静かに尋ねた。
「ユート様…先ほどの男…信用できるのでしょうか?」
ユートは歩きながら、静かに笑った。
「さあ?どうだろうね」
そして、右手の指先を向け、そこに小さな炎を灯した。ぱちりと、静かな夜に小さな炎が揺れる。
「これは物試しだよ。それに、いざとなれば…」
ユートは指先の炎をユージーンに向けた。ユージーンは僅かに身構えた。ユートはそのまま、指先の炎を、ユージーンの背後にある木箱に向けて放った。
パァン!という乾いた音と共に、小さな炎弾はユージーンの目にも追えない速さで飛び出し、木箱にぶつかった。木箱は弾けるように炎を上げ、勢いよく燃え上がった。
木箱の陰から、小さな悲鳴が上がった。人影が一つ、慌ててそこから逃げ出していくのが見える。
きっと、金を持っているユートたちを酒場からつけてきて、隙あらばと狙っていたのだろう。ユートが酒場で金貨をちらつかせたのは、そういった連中を引きつける餌にもなる。
ユートは逃げていく男に聞こえるように、少しだけ声を大きくして言った。
「もうお前たちの顔も姿もばれているぞ!二度とこんな真似はしないことだな!」
逃げていく男は、後ろも振り向かずに夜闇に消えていった。
ユージーンは目の前で起きた一連の出来事、特にユートの魔法の威力とその素早さに、改めて驚きと尊敬の眼差しを向けた。
「信用、ですか…」
ユートは消えゆく人影を見て、指先の炎を消した。
「こんな街の裏通りだ。気を抜けば、すぐに危ない目に遭う。情報のやり取りも同じさ。騙されないように、そしてもし騙されそうになっても、対処できるよう、準備しておく」
そして、ユートはユージーンに微笑んだ。
「さて、こんな酒場での立ち飲みは柄じゃない。せっかくだから、いつもの酒場へ行って、ゆっくり飲み直そうか」
ユージーンは「はい」と頷いた。特別な一夜になりそうだったが、結局はいつもの場所で落ち着きたいというユートらしい提案だった。
二人は、炎がまだくすぶる裏通りを後にし、いつもの賑やかな酒場へ向かった。




