86話
会長室へ向かおうとするユートに、セーラが少し遠慮がちに声をかけた。
「ユート様。折角ですが、まずは報告書の提出を済ませてからにしませんか?それが終われば、お気持ちもすっきりするでしょうから」
ユートは確かにそうだな、と思い直した。二人の街歩きを楽しみにする気持ちが先走っていたが、報告書提出という仕事が残っている状態では、どこか心残りがあるだろう。
「そうだね、セーラの言う通りだ。それじゃあ、先に会長室へ行こう」
二人で並んで会長室へ向かう。ノックをして声をかけるが、会長室から応答はない。中に人がいる気配もない。不在のようだ。
「会長は不在のようですな。総務部に預けましょう」
ユートはセーラに声をかけ、会長室の向かいにある総務部へと向かった。
総務部の事務室に入ると、会長付きの部員が作業をしていた。ユートは彼に報告書を渡した。
「アルバン部長も不在ですか……すいません、調査部のユートです。こちらの報告書をダリウス会長にお渡しいただけますか?ポートベストルとミストヴェイルの任務に関するものです」
会長付きの部員は「はい、承知いたしました」と丁重に報告書を受け取った。これで無事に報告書は提出できた。仕事は全て完了だ。
総務部を後にし、晴れやかな気持ちで二人で街へ向かう。アルテナの街並みはだいぶ見慣れてきたが、こうしてセーラと二人きりで、任務ではなく純粋に街を歩くというのは、初めての体験だった。なんだか少し気恥ずかしく、妙に緊張する。セーラも、隣を歩くユートを見上げたり、足元を見たりと、少し落ち着かない様子だ。
昼下がりとはいえ、商会の多いアルテナの中心街は多くの人々で賑わっていた。行き交う馬車や商人、買い物客など、活気のある音が聞こえてくる。人波にはぐれてしまわないように、どちらからともなく、そっと手が繋がれた。ユートの少し大きな手の中に、セーラの小さな手が収まる。じんわりと手のひらから温もりが伝わり、緊張していた心が少し解けた。
「セーラ、何か見たいものとか、行きたい場所はある?」
ユートは繋いだ手に力を込めることなく、優しく尋ねた。
セーラは少し考えるように視線を泳がせた後、首を横に振った。
「いいえ…特にありませんわ。ただ…ユート様と、こうして二人で街に出かけたかった、それだけですから…」
セーラの素直な言葉に、ユートは胸がキュンとなった。自分と同じ気持ちでいてくれたのかと思うと、嬉しさが込み上げてくる。目的が『二人で歩くこと』ならば、どこへ行っても良いということだ。
「そっか…それなら、そうだなぁ…」
ユートは繋いだセーラの手を優しく揺らしながら、何か良い提案はないかと頭を巡らせた。そして、ふと思いついた。
「ねえ、セーラ。折角だから、セーラの洋服を見に行かないか?メイド服や制服じゃない、街着の服。セーラに似合いそうな服を選んであげたいんだ」
ユートの提案に、セーラは少し目を丸くした。そして、照れたような、困ったような表情になった。
「私の、お洋服ですか…?」
「うん。今回の任務でも、遠征用の服が必要だっただろう?セーラに似合う、素敵な服を一緒に選びに行こう」
ユートは、繋いだセーラの手をそのままに、近くに見えた洋服店に向かって歩き出した。店名は特に確認しなかったが、外観からはそれなりに上品な店に見える。
セーラは、ユートが迷わずその店に入ろうとするのを見て、小さく悲鳴のような声を上げた。
「ユート様! そちらは…!」
店に入る直前、セーラがユートの耳元でそっと囁いた。
「ユート様…ここは…少し、高級なお店ですわ…私には、不釣り合いな…」
彼女はメイドである自分に、このような店で服を買ってもらうことへの抵抗を感じているようだった。
ユートはセーラの言葉を聞き、足を止めずに入店しながら、彼女の繋いだ手に優しく触れた。
「大丈夫だよ、セーラ。そんなことない。セーラには似合うはずだ」
店内は洗練された内装で、仕立ての良い、品のある服がゆったりと陳列されていた。見ただけでも高級な店のようだ。店員が彼らの様子を見て、丁重な態度で近づいてくる。
ユートはセーラの洋服を見に来たことを店員に伝え、おすすめや流行のデザインなどについて話を聞いた。セーラは少し落ち着かない様子でユートの隣に立っている。
「最近はこういった、肩や背中を見せるデザインが流行っておりますが、流行に左右されず、長く着ていただけるのはこのようなデザインでございましょう」
店員が何点かの服を紹介してくれた。
ユートが店員のおすすめの中から、ある一点に目を止めた。それは流行のデザインではないが、上品な紺色の生地で、ウエストが少し絞られたノースリーブのワンピースだった。派手さはないが、セーラの控えめな美しさを引き立ててくれるような気がした。
「セーラ、これはどう?着てみてくれないか?」
ユートはその紺色のワンピースを指差した。
セーラは少し躊躇ったが、ユートの真剣なまなざしに頷き、試着室へ向かった。しばらくして試着室から出てきたセーラの姿に、ユートは思わず息を呑んだ。
「…セーラ」
メイド服姿では分からなかった、セーラの細いウエストと、女性らしいラインが際立っていた。ノースリーブのデザインは、彼女の白い肌を綺麗に見せ、上品な紺色は、彼女の落ち着いた雰囲気にぴったりと合っている。リリアやリナとは違う、大人の女性の美しさがそこにあった。
セーラ自身も、普段着ることのない洋服に少し照れたような、でもどこか嬉しそうな表情をしていた。鏡の前でくるりと一回転する。
「いかがでしょうか、ユート様…少し、落ち着きすぎているでしょうか…」
「そんなことない、すごく似合っているよ。とても綺麗だ」
ユートは心からそう思った。
セーラの反応も悪くないのを見て、ユートはこの服を購入することを決めた。
「このワンピースをお願いします」
ユートが店員に告げた。
セーラは少し驚いた顔でユートを見たが、ユートは笑顔で「セーラへのプレゼントだよ」と言った。
「いいえ、ユート様! そんな! 私にはもったいないですわ!」
セーラは慌てて遠慮した。
「気にしないで。セーラが今回の任務を頑張ってくれたお礼も兼ねているんだ。受け取ってくれると嬉しい」
ユートは、少し強引にだが、セーラにプレゼントとして受け取るように言った。セーラは何度も恐縮していたが、最終的には感謝しながら受け取ってくれた。
ついでに、とユート自身の洋服もいくつか選ぶことにした。普段の任務以外で着るための、もう少し洒落た服も必要だと感じていたのだ。セーラも、「ユート様には、こういう色が似合うと思いますわ」と、普段見慣れないユートの洋服選びを楽しんでいるようだった。
採寸を行い、出来上がりは五日ほどかかると言われた。出来上がったら商会に連絡を入れてくれるとのことだ。代金は全てユートが支払った。セーラが改めて感謝を述べたが、ユートは笑顔で「プレゼントだよ」とだけ答えた。
高級店での買い物という、セーラにとっては少々場違いで緊張する体験だったかもしれないが、出来上がる新しい洋服への期待が、彼女の心を高揚させていた。
店を出ると、外の明るさと賑やかさが再び彼らを包み込んだ。繋いだ手はそのままで、二人の間の空気は少しだけ変わっていた。新しい洋服が手に入る喜びと、ユートからの特別なプレゼント。セーラの顔には、明るい微笑みが浮かんでいる。
「さあ、もう少し街を散策しようか」
ユートが声をかけると、セーラは嬉しそうに頷いた。出来上がる洋服に胸を膨らませながら、二人は繋いだ手はそのままで、アルテナの街の午後を楽しんだ。




