集落からの脱出
熊が集落を襲ってから三日後の夜。それはやって来た。
赤い月が不気味な光を放つ夜に。
二人の匂いを嗅ぎつけた熊が掘っ建て小屋の玄関を破り、ダグとアトマのいる部屋の中に入って来た。
大きな体の黒い熊は、二重に張り付けてあった扉を前足の殴打で破壊すると、重い体で床板を軋ませながら小屋の中に入って来た。
「うりゃぁッ!」
ダグは手にしていた木の槍を熊の頭を狙って突いたが、それは肩に当たり、熊は大きな咆哮をあげてもがいた。鋭い爪のついた腕を振り回しながら熊は突進した。
後ろに下がりながら鋤を手に取り、それで熊をかち割ろうとしたが、柄の部分を破壊され、さらに胸を切り裂かれてしまう。
「うおぉォァあぁぁッ!」
痛みと恐怖で逃げ出したくなるほどだったが、ダグは折れた鋤を熊の頭に突き刺し、小さな短刀を引き抜いてそれを熊のわき腹に突き立てた。
熊は怯んでうめいたが、ダグの首にかみつき、首の肉を食いちぎった。
ダグはなんとか倒れずに踏みとどまり、短刀を押し込んで熊をあとずらせると、火鉢を投げつけて熊の体に燃えた薪と熱い灰をあびせかける。
必死の抵抗を受けた熊は驚き、体を大きく震わせながらあとずさり、小屋から逃げ出して行った。
わき腹に深々と短刀を刺したまま、熊は苦しげに逃げ去ったのである。
痩せっぽちのダグは死力を振りしぼり、熊を撃退することに成功したのだ。
「ダグ……」
アトマは天井部分にある棚から縄を使って降りて来ると、横になっている父親のそばに行って声をかけた。
ダグはアトマに自分を「父」とは呼ばせなかった。
母親のことも「ミッタ」と名前で呼ばせるくらいだった。
「しっかり」
子供は父を心配して声をかけた。
胸を爪でえぐられた男は苦しそうにしていた。
「アトマ……いいか、よく聞け」
首から出血していたダグは手で首を押さえていたが、その血が止まる様子はない。傷は頸動脈に達していた。
「おまえはここを出て、町へ行くんだ。──そこでは、ほかの人を、かんたんに……信用しては、いけない。町は──きけ、んな。場所だ、から……」
だんだんとその声が小さくなる。
彼の意識は薄れていき、死が間近に迫っていた。
「おれは、もう……しぬ。おまえは、いきろ────」
長い息を吐き出すと、ダグの体から力が抜けていく。
首を押さえていた手は床に落ち、流れ出た血は床板の隙間に吸い込まれていった。
「ダグ……?」
少年は父の体に触れ、何度もその体を揺すったが、父が動くことは二度となかった。
父が死んだのを知ったアトマは、彼の残した言葉の意味を飲み込んで立ち上がる。
町は遠く、子供の足ではたどり着けないと聞かされていたが、それでも行かなくては。
床に落ちた火鉢からこぼれた火種が乾いた床板に燃え移り、ぱちぱちと音を立てて燃え広がろうとしていた。
少年は用意していたぼろ布の荷袋を背負い、先を尖らせた杖を手に、誰もいなくなった家を出た。
まだ暗い空を見上げ、少年は家の軒先にあった棒きれとぼろ布を使い、粗末な油に布をひたして松明を作ると、それに火をつけた。
「さよなら、ダグ」
少年は振り返ってそう言うと、小屋全体に燃え広がった火を黙って眺めていた。
小屋を焼き尽くす炎は大きな火柱となって、夜空を焦がそうとするかのごとく燃えていた。
アトマは家を失い、父を亡くしても、泣くことはなかった。
両親から望まれずに産まれた彼はいままで、愛情というものを感じずに生きてきた。
だが少年は、自らの生まれを呪うこともなかった。
ごうごうと音を立てて燃え上がる小屋から離れると、少年は決意を胸に、集落の外に向かう道に足を踏み出す。
まだ早朝にもならず、道の先は暗がりに包まれていた。
崖のそばにある踏み固められただけの道なき道。松明で照らしながら慎重に進まなければ、崖から落下してしまうかもしれない悪路と暗闇がアトマを待ちかまえていた。
少年は鹿の毛皮から作った衣服や靴をはき、油の染みた松明を手に、長い時間歩きつづけた。
山の中を通る狭い道はやがて小川をまたぎ、岩がごつごつと斜面からはえ出たそばを抜け、針葉樹の生えたゆるやかな坂道を下って行く。
アトマは歩いた。ただ無心に歩きつづけた。
もう集落には戻らない。その覚悟だけを胸に秘め、父や母の思い出とも決別する覚悟をもった足取りで、少年はひたすら歩きつづけていた。
遠くの空が明るくなりはじめてきたころ、道幅のある大きな街道までたどり着いた。
灌木や岩の間を抜け、小さな崖の段差を下り、やっと人や荷車が通れそうな道に出たのだ。
しかし少年はその道を右に行くか、左に行くかも知らなかった。
町はどっちにあるのか──
アトマはゆるやかな坂道の先を見て、下って行く道の先へ行くことを選んだ。そしてそれは幸運にも正解だった。
反対側に進んでも人の住む村はあるが、距離が離れており、険しい山間部の道を丸一日歩きつづけるはめになっていただろう。
少年はささやかな幸運には気づかずに先を急ぎ、曲がりくねった道を歩いて行く。
荷車の通った轍のある固い地面を進むと、道の先の山間部の開けた場所に森が見えてきた。その森を抜けた先は平地になっており、町へつながる街道が整備され、荷車などの往来も増えるはずだ。
アトマは怖じけづきながらも暗い森の中を通る決心を固め、森の中へと入って行く。
いまさら引き返すことなどできない。
松明を手にしたまま少年は木々のあいだを通る。
森は深く、アトマの暮らしていた土地よりもずっと肥沃な場所だった。少年の見たことのない苔や野草が生え、細長い莢の下がった灌木などがある。
壁のように隆起した崖のそばを通ったとき、何かの遠吠えが聴こえてきた。
アトマはそれをダグから聞かされて知っていた。
「おおかみだ……!」
少年は逃げようと走り出す。
曲がりくねった道を無視して森の中へ入って行き、木の根っこをよけて飛び跳ねた。
獣が追って来る音が聴こえる。
少年は松明を持ったままなんとか走りつづけた。
灌木をこする音が近くに聴こえたとき、少年は振り返った。
黒い何かが彼に飛びかかり、少年は大きな岩にたたきつけられ、意識を失ってしまった……




