アトマとダグ
社会からはみ出してしまった者たちが集まる集落。そこには現在、五人の住人がいた。
かつてはこの場所にも十名以上の男女が暮らしていた。しかしある者は過酷な環境での生活に嫌気が差して出て行き。ある者はこの集落で命の灯火を消した。
またある者はふらりと村を離れたまま、戻って来ることはなかった。
この辺鄙な場所にある名前もない集落に、少年が暮らしていた。
彼の父と母はこの集落で結ばれ、少年を産んだ母は彼が十歳になる前にこの世を去った。
少年はその墓前に花を添え、自分の家に戻って行くところだ。
集落に子供は彼しかいないため、少年の顔についた痣を見ても怖がられることもなく、比較的平穏に暮らしていた。
朽ちかけた木の板をつなぎ合わせて作ったような、粗末な木造の掘っ建て小屋だった。集落を出たことのない少年は、そのあばら屋が普通の家だと思っていた。その小さな小屋が、彼と彼の両親が共に住んでいる住居だった。
少年は両親と同じように無知であり、無学で無教養な子供だった。自分が持たざる者だという認識すらないほどに無知で、文字を書くことも読むこともできなかった。
少年の名は「アトマ」。
両親がそう名付けたのだが、両親はその名前に意味があると理解せずに付けたのではないかと思われるほど、街ではその名前は子供に付けるのにふさわしくない、と考えられている名前だった。
* * * * *
ある夜──集落を悲劇が襲った。
冬を間近に控えたある夜に、集落を飢えた熊が襲撃したのだ。
それに気づいたのは明け方になってからで、村の出口に近い掘っ建て小屋の一つの玄関が破壊され、不審に思った男たちが小屋の中を調べてみると、室内は血まみれになっていた。
「やべえ。こりゃあ熊のしわざだ」
「熊! おれらには熊を退治する武器なんてないぞ!」
「おちつけ。……ここいらでもう、ここからおさらばするときがきたってこった」
貧相な体の小男が言った。
少年の父「ダグ」は鋤で熊を退治しようかと考えていたらしく、小男の提案に激怒した。
「こっから出てってどこへ行く⁉ 熊を倒さねえと!」
「ばか言うな! おれたちに熊と戦う力なんてねェ!」
二人の男たちはどちらも貧相な体つきで、固い地面を耕すのが精一杯の男たちだ。猛獣と戦うような力も技術も持ち合わせているはずがない。
ここで二人が言い争ったところでなんにもならない。二人は次第に冷静になると、襲撃された小屋の中に入り、小屋に住んでいた住人の姿を探しはじめた。
血まみれの部屋の中には二人の死体はなかった。二人の死体を熊が運び去ったのかと思っていたが、そうではなかった。
小屋の入り口から集落の出口まで何かを引きずった跡があり、それをたどってみると、掘っ建て小屋に住んでいた男の死体が道の先に転がっていた。
どうやら熊は女の死体だけを持ち去ったらしい。男の体は背中がざっくりと裂け、傷口から骨が見えていた。
「こりゃだめだ」
小男はそんなつぶやきをもらすと、自分の小屋へ戻って行く。
彼には熊と戦う度胸はなく、早々にこの集落から逃れようと荷物をまとめ、ダグとアトマには何も言わず、さっさと一人で集落を出て行ってしまった。
この名も無き集落に、ダグとアトマだけが残された。
ダグは熊と戦うことを決意し、ほかの小屋から持ち出せる物は持ち出し、武器になりそうな杭や縄を集め、長い棒は先端を尖らせて槍を作ったりした。
翌朝には道にあった男の死体も消えており、それを喰ったらいよいよ集落に残された二人の番だ。
「いいかアトマ。熊はすごい力らしい。戦っても勝てねえ。もし出会ったら逃げるんだ」
「逃げるって──どこへ?」
子供のその言葉に父は何も答えてやれなかった。
いったいこの無学な子供がどこで生きていけるだろう? ダグは何か子供に忠告してやろうと頭を悩ませたが、不安そうにしている子供に父は、何もうまいことを言ってやることができずにいた。
「とにかく逃げるしかねえ。いいな?」
「──うん」
少年は父の言葉を疑うことなくうなずいた。逃げ出すときの荷袋を用意し、そこにわずかな食料と、粗末な着替えを入れはじめた。
ダグは思慮のない男だった。およそ誠実さに欠けていたし、軽薄で浅はかな気質ゆえに賭博と放蕩を繰り返し、現在の状況にまで落ちていったのだ。
そんな愚かな男にも普通の男と同様に無責任な性欲があり、それゆえにアトマが産まれてしまった。
彼には父親としての子に対する愛情も、結婚したわけでもない女に対する愛情も持っていなかったが、彼の生れついた性状から、それ相応の親しみをアトマには感じていた。
「だいじょうぶだ。おれが熊を倒してやっから」
「うん」
それがダグに言える精一杯の言葉だったのである。




