085 海へ
「おお……海だぁ!」
俺の目の前に広がるのは海だ。
海に行ったことなんて数えるほどしかないのに、潮の香りが妙に懐かしい気がする。いや、数えるほどしかないからこそ、潮の香りと海へ行ったときの思い出が直結するのかもしれない。懐かしさを感じたのは、たぶん海に一緒に行った家族や友人の顔が頭をよぎったからだろうか。
「わあ! 私、海は初めて見るよ!」
プレゴーンがはしゃいだ声をあげる。ソールと炎の馬たちがグローパラスに来てからは、プレゴーンに乗って移動するのが常だ。
「それは意外だな。空を飛べるんだから、今まで何度か見る機会があったんじゃないか?」
「私たちは、ほら……仕事以外で移動はしないからさ。今まで大陸を渡ることはもちろん、海の近くで仕事をすることがなかったんだよ……だから嬉しいかも」
「なるほど」
「……って、リューイチ、どうして泣いてるの?」
プレゴーンが珍しく慌てたような表情になった。
……いつの間にか涙が出ていたみたいだ。
「……ここのところ忙しくてほとんど寝てないからあくびがね」
「……きちんと睡眠はとりなよー」
まあ、俺に睡眠の必要はないんだけどね。そのことは誰にも言っていないから、プレゴーンもあまり深く考えずに納得したようだ。
ここはダーナ王国の王都ルーンベルクから南東にかなり行った場所にある港湾都市ツェルンだ。バース王国へ渡る船はここから出ているとのことだ。
それにしても、あのレオが第一王子とはねえ……。
「レオが第一王子……いや、レオナルド殿下か」
「俺や俺の家族、大臣だけがいる場所では今まで通りレオでいいぞ」
「殿下の家族ということは国王陛下をはじめとして皆様王族ですよね? そのような高貴な方々の前で王子を呼び捨てにすることはできませんよ」
ヘタしたら俺の首が物理的に飛ぶ。半神とかいう俺の場合、首が飛んだらどうなるのか。ヘタしたらデュラハンみたいな感じで生き続けることになりそうで怖い。いや、くっつくかな? 試したくはないが。
「少なくとも今は敬語をやめてくれ、慣れない」
「慣れないも何も、敬語を使われるのが日常的な立場だろ、レオは」
「今となっては、敬語を使われないで対等に接する家族以外の相手というのが新鮮でいいんだよ」
「王族として、そういう発言はどうかと思うがな」
こういう言動をしているところを他人に見られたらどうなることか。レオは少し脇が甘いんじゃないか? いや、このことだけでそう断じるのもアレだが。
「ちなみに、さっきのは命令か?」
「あまりいじめないでくれ。友人としての頼みだよ」
レオがあまりにも情けない表情をしたので、俺は満足して「了解」と答えた。基本的に二人だけのときは、これまで通りの呼び方をしよう……って、なんかウホッて感じで嫌だな、くそう。とりあえず、それ以外では殿下って呼べばいいかな。
「ところで、なんで俺が婚約の儀とやらに一緒に行かないといけないんだ? この国の貴族や有力者ならともかく、いくらなんでもお呼びじゃないだろ」
そもそも、この国の特殊な事情がなければ、城に入れるような身分でもない。
「いや、酔狂でリューイチに声をかけたわけではない。理由はある」
「理由?」
「バース王国は今、モンスターがらみで問題を抱えている」
……!
それを聞いたことで俄然興味がわいてきた。そんな俺を見て苦笑を浮かべながら大臣がバース王国について簡単な話をしてくれた。
バース王国はツェルンから船で丸一日かかる場所にある島国で、古くからダーナ王国と友好関係にある。
レオは将来のダーナ国王であり、バース王国の第一王女を妻とすることでその関係をさらに強固にする意図があるようだ。レオに限らず、この両国は王族同士の婚姻をこまめにやっているらしいが、国王や第一王子との婚姻は百年ぶりとか。
「なるほど、それだけ強固な友好関係があるから、バース王国で起きた問題はダーナ王国で起きた問題と同じと考えるわけか」
「それだけではないぞ」
レオの説明によると、三年前に歴史的な大飢饉がダーナ王国を襲ったときに、バース王国が大量の魚介類を人道支援として援助をしてきて、それによって多くの民が救われたらしい。
なお、飢饉の大きな原因は日照不足だったようで、太陽を運ぶソールをグローパラスに迎え入れたことは、王城ではものすごく評価されているらしい。
「もちろん、立場が逆なら俺たちが人道支援をしていた。そして、三年前の恩に報いるときが来たわけだ」
「モンスターがらみの問題がバース王国で起きていて、それを解決するために俺が同行するというわけか」
「まあ、そういうわけだ」
「いやいやいや」
なんかえらいことに巻き込まれつつある気がする。
「言っておくけど、解決できるかどうかまったく分からないぞ。行ってみたはいいけど何もできない可能性だって高い」
「もちろん、解決できればそれに越したことはないが、まずこちらが誠意を見せることが大切だ。そのために、リューイチを連れて行くのだから」
ん? ちょっと引っかかることがあるな。
「グローパラスのことは、あまり他国に話さない方がいいのでは?」
俺は大臣に疑問を投げかける。特に、モンスターを繁殖させていることは誤解を招く可能性が高いから伏せておくべきだと思う。
「グローパラスの存在そのものは、すでに隣国は把握している。園長の君は、モンスターの研究に熱心な学者という扱いだ」
大臣のその言葉に俺は微妙な表情にならざるをえない。学者という柄ではないというか、学者のような受け答えはできないぞ。少し会話をしただけで、考え方の幼さや論理的思考力のなさが露呈しそうで恥をかきそうだ。
「それで、モンスターがらみの問題とは具体的に何ですか?」
「バース王国は付近に生息するマーメイドと昔から付き合いがあるのだが、その人魚と連絡が取れないらしい。そして、漁獲量の高い海域がおそらく人魚のものと思われる結界で入れなくなっているとか」
マーメイド……人魚か。これはまたオーソドックスなモンスター娘だ。
「詳しくはバース王国で聞いた方がいいだろう」
とまあ、そんな感じでバース王国に行くことになったわけだ。
レオは婚約の儀のために必要なものを準備した上で、それなりの人数で向かうことになるため、このツェルンに到着するまでおそらく十日かかる。だから、俺は先にツェルンに行き、海に慣れることにしたわけだ。できれば、海のモンスター娘の何人かとお近づきになりたい。
「さて……」
「リューイチ、本当にやるの?」
俺たちはツェルンからある程度離れた沖合の上空にいる。海中の移動に慣れる必要があると判断したからだ。そのために、トランクス型の水着をアラクネに頼んで作った。そして、体にしっかりと結びつけた神珠の剣に明かりの魔法を固定化させて海中を探索する手はずだ。
「大丈夫、俺は呼吸を必要としない」
「……それ、生き物としてどうかと思う。リューイチって、モンスター以上にモンスターだよね……」
「それじゃ行ってくる。そんなに長い時間かけないで戻るから、海面をよく見ていてくれ。万が一、夕方になっても俺を見つけられなかったら、あそこに見える島にいてくれ」
「了解ー」
そして、俺は海中へとダイブした。
したたかに腹を打ちつけたのはご愛嬌。今の俺の体では痛くない。そんなことよりも、俺は海中を探索することへの期待感で一杯だ。海、それも深海となると、ヘタしたら宇宙よりも未知の世界と言えるかもしれない。しんかい探査船に乗ってみたいと子供心に思ったものだ。
だが、今の俺なら、たぶん深海にも行ける。いや、行ってみせる。地球の海とは違うかもしれないが、どうなっているのか非常に気になる。
潜ってすぐは色々な魚が群れをなしたり、単独で泳いでいたり、上も下も左右も全部が海の生命たちといった感じで興奮した。海の中では俺のモンスターを感知する能力がどうもうまく機能しないのか、周辺にモンスター娘の存在は感じ取れないのだけが残念だが。
しかし、すぐにその興奮は覚めてしまう。
これは……。
ある程度潜ったところで、太陽の光が届かなくなる。二百メートル潜ったってことだな。それからは光の魔法だけが頼りだが、周囲をぼんやりと照らすだけだ。全周が暗闇でしかない。あれほどたくさんいた魚たちもどこへ行ったのか。いや、いるのかもしれないが俺の視界内に入ってこない。
下は暗闇
上も暗闇
右を見ても左を見ても暗闇
あれ? 俺は今どっちに向かって泳いでいるんだろうか? 下に向かっているのか? それとも右? 左? 上?
やばい、方向感覚がない。
やばい、これはやばい。
俺は焦る気持ちを抑えて力を抜く。幸い潮の流れというか、大きな流れはないように感じる。
それでもゆっくり俺は落ちている。
そう、落ちている、たぶん剣などの重みで。海底に向かって落ちている、と思いたい。いや、そう思うことにする。それなら、沈んでいく方向と逆が海面の方角のはずだ。俺はその方角に向かって力いっぱい泳ぐことにした。
「ぶはぁっ……」
幸い、俺はほどなくして海面へとたどり着いた。太陽の光がギリギリで届く所にまでたどり着いたときは思わず泣きそうになった。
「おつかれー、思ったより……早いのね」
俺はプレゴーンに気の利いた返事をすることもできず、太陽の光のありがたみを全身で感じるのであった。
深海は海に生きるもの以外が立ち入っていい場所じゃないな、うん。




